9.魔獣討伐〈ノーマン領サイド〉
森の手前、月明かりの下に広がる草原。瞳を閉じて眼前に手を合わせたメイドの横に、カモフラ柄のサファリロリに着替えたツインテールの令嬢が立っている。
本来ならこうして人前で使いたくないんですけどね……。
そう憎々しく思いながらも、半径1㎞程度に索敵展開を行なっているハンナが声を張る。
「1時の方向、5頭来ます!」
「はいっ!! 狼は〜外!!」
タイヨウが咆哮と共に現れた魔獣リガオンの群れを広大な森の中腹に転移させた。
当初は黒Suicaに触れつつ『視界で捉えた最大距離』までしか転移できなかったタイヨウだが、今夜のお散歩中に『黒Suicaはポケットに入っていれば可』『具体的にイメージできれば見えなくても可』まで成長している。飲み込みも早いが、ここまで努力できるのも才能だ。
「いやー! お嬢とメイド、本当にすごいなボス! 俺たちの出る幕ねえじゃねえか」
筋骨隆々の赤髪の中年男が笑いながらノーマン公爵のグラスにワインをドボドボ注いだ。
「ゴーン、俺はもう団長じゃない。ボスじゃなくてノーマンと呼べ。それかタイヨウちゃんパパと呼べ。いやむしろ呼んでくれ」と上機嫌でワインを煽りながらノーマン公爵が答える。
見るからに武闘派のおっさん2人は少女たちから少し離れたところで酒会を繰り広げていた。魔獣寄せの香が焚き火の上で燃えている。タータンチェックのシートに置かれたバスケットにはサンドイッチとセイボリー、ナッツなどの乾き物がぎっしりと詰められ、ケースごと運んできたワインはすでに数本空いていた。
ハンナの想いに反してノーマン公爵がタイヨウの申し出を快諾したのは、毎年この時期に気のおけない仲間と『魔獣狩り』を飲み会ついでに楽しむ予定があったからだった。
元騎士団副長『炎猿のゴーン』と元団長『バベルの鷹』ことノーマン公爵。彼らの伝説の共闘がヤンキー漫画風に描かれた小説は今もベストセラーになっている。かつて軍鬼と周辺国の兵からも恐れられた2人だが、今や娘の運動会を見守る父兄のおっさん、もしくは野球場でよく見るタイプのおっさんに成り果てていた。
「タイヨウちゃーん、イメージ大切にして! イメージ! 初動もう少し早くできるよ! でもすごい成長してるぞ! パパうれしい!」とノーマン公爵が声を上げれば「はい、父様! ありがとうございます!」とツインテールをぴょこんと翻しタイヨウが礼を言い、
「メイドー! ハンナ・“アボッ|ト《・なんだろ! お前アボットの“カルマ”使えよ! 出来んだろ! 左舷は俺とボスでやってやるからよお」とゴーンが吠えれば「……チッ! 右ゴーンでゴブリンとカップリングした薄い本出すぞクソゴリラ」と青筋を立ててハンナが盛大に舌打ちする。
かつて王国騎士団史上最強のおっさんコンビは、ご機嫌で2人の近くに向かうと、酔いもあって一流の魔法教育を令嬢とメイドに施し始めた。
「ハンナ、ゴーンの言う通りだよ。カルマが使えるならやりなさい。なぜ詠唱を避けるんだ? 君の履歴書を見たが、一級能力者なんだろう?」
「かるま? 詠唱? あっ! もしかしてワルトとか、呪文のことですか?」
タイヨウがソーレの姿を思い出しながら目を瞬かせた。
驚いたな、とノーマン公爵は内心舌を巻く。荒削りだとは思っていたが、タイヨウのこの顔を見る限り、これまで一切魔法教育を受けていないらしい。何しろ無詠唱で土木工事をやってのけるほどの魔力量だ。稀代の天才とは聞いていたが、伸び代が計り知れない。
「――それは翻訳呪文だね。うーん、ざっくり言うと技術と魔力があれば誰でも使えるのが呪文。それぞれが独自の言葉を詠唱して大技にするのが“カルマ”だ。本人の魂と紐づいた宿命の呪文だよ。ちなみにカルマを会得できる人間は能力者の1%以下だ」
「狼は外! じゃダメなんですか?」と首を傾げるタイヨウに、ノーマン公爵が笑顔でうなずく。
「あれは掛け声だねえ。可愛かったけど。カルマの詠唱は魂とイメージの契約だ。作用のイメージ。効果のイメージ。出力のイメージ。だから詠唱は能力者本人が決める。決めるというか、降ってくるというか」
「降ってくる……」
タイヨウは眉をしかめて思案顔だ。そんな顔も可愛いが、おいおい説明していくとしよう。
「タイヨウちゃんは無詠唱のままでも十分すごいけど、カルマもいつか会得するだろう。よし、私たちが見本を見せよう。ゴーン、やれるか?」
袖のボタンを外し、腕まくりしながらノーマン公爵が問う。
「どんくらいだ?」ゴキゴキとタンクトップに包まれた太い腕を回すゴーン。
「ハンナ、“梟拡”はできるか? ゴーンと私を左右に分けて索敵共有を。その上でどのくらいいける?」
「注文が多い……そして慣れている……。それでも、あの山までですね。魔石の持ち合わせもございませんし。明日に響くので5分間で」ハンナがため息をつく。
「ハハハ。今も昔も騎士団には君と同じアボット家の奴がいるからな。OK、はじめよう。ゴーンは左舷だ」
アボット家って一体……。
戸惑うタイヨウを下がらせてから、ノーマン公爵とゴーンが、ハンナを中心に等間隔で立つ。ハンナは目を閉じて、パンと手を合わせると「『梟拡〈キョウカク〉』」と静かに口にした。
(いつものハンナさんの声と違う……!?)
タイヨウが驚く。二重に聞こえるような、やけに遠くから聞こえるような。
詠唱を終えたハンナの亜麻色の髪がふわりとそよぎ、魔力の圧が跳ね上がり、内側に隠れていた黒髪が見える。タイヨウは知らないが、アボット家の血統カルマである梟拡は索敵の共有だ。索敵に優れたアボット家の力を、術者の魔力量や能力に合わせて複数人に共有できるという優れた能力だった。
「「把握した」」
ノーマン公爵とゴーンが、索敵の接続を受け、戦闘態勢に入った。
まずゴーンの両腕が炎に包まれ、同時に無数の火球が腹の周りをぐるりと囲んだ。
「『炎猿太鼓〈エンエンダイコ〉』!」
そう濁声で詠唱すると、ゴーンが火球を森の奥に投げ始めた。ドンッ!ドンッ!ドンッ!っと重い音を立てる様はまさに魔獣の太鼓だった。タイヨウの位置からは見えないが、対象の魔獣リガオンに当たっているようで、遠くからキャンッと犬科の鳴き声がこだまする。
「69頭、クリアです」
目を閉じたまま、ハンナが呟く。
ノーマン公爵はゴーンとは対照的に静謐な詠唱だった。
「『鷹波〈タカナミ〉』」
そう唱えると、鋭利な刃物のように圧縮された空気弾が波のように無数に広がり、次の刹那、パッと消えた。否、消えたように見えて、超スピードで放たれて魔獣の喉元を斬り落としたのだろう。森から獣のざわめきが途絶えた。
春の宵風が、再び吹きはじめる。
「88頭、クリアです」
そう言ったハンナからふわりと力が抜ける。久々のカルマは、メイドに徹して数年の身体には負荷が重かった。
息が上がる。脂汗が脇と背中を滑り落ちていく。そんな疲労困憊したハンナの横で、すごい、すごいです!!とタイヨウがぴょんぴょん跳ねて拍手をしていた。
「これで今夜はもう出ねえだろ!」ガハハと笑うゴーンに頷きながら、ノーマン公爵も笑って夜のピクニック会場を片付けに向かった。
しかし、そこで「あの〜…」とタイヨウが右手を上げていた。
(このタイミングでタイヨウ様必殺『あの〜…』!!嫌な予感しかしない…!)
疲れ果てたハンナが白目を剥くが、疲労のせいで止めることができなかった。
「――“カルマ”、僕にも降ってきたみたいなんで、やってみていいでしょうか?」
ノーマン公爵とゴーンが、一度顔を見合わせてからハンナを見る。
早く帰りたい……。
ハンナが本日108回目のため息をついた。