73.5 【幕間】鈴木華連
警察官たちは東京メトロ西新宿駅から程近い古びたアパートの一室に集まっていた。事態が事態なだけに、部屋は鉛色の雲が天井から垂れ下がっているかのような重苦しい空気に包まれている。部屋の隅では、ホコリっぽい光が茶色く変色した血痕を照らしていた。そこに犠牲者の体は見当たらず、ただ静寂がその周りを包み込んでいた。
彼らは一つ一つの証拠を丁寧に集め、部屋のあらゆる隅々まで徹底的に調査を進めていった。しばらく後、大半が片付けを始めると、古いフローリングを鳴らしながら1人の中年の男が近付いてきた。
60をいくばくか過ぎた頃だと思われる着物姿の外国人女性は表情を変えずに男が口を開くのを待った。
「ご協力いただき、ありがとうございます。鈴木華さんの捜索は……」
女性の意志の強い灰色の瞳で見つめられると、男は口をつぐんで、色が抜け落ちたように表情を一瞬惚けさせた。
頭の中で、自分の声がする。
(見つかるはずがない。死んでいるに違いないのだから。捜査は形だけのものとなり、このまま立ち消える)
(この婆に全て押し付ければうまくいく)
(それが俺にとっての最善で、終わったら全て忘れる)
ぐりゅん、と黒目が戻ると、男性は小狡い顔をして微笑んだ。
「ーー産んですぐ失踪なんて褒められたことじゃないが、おばあちゃんに連絡してくれてよかったと思いますよ。おかげであの子は施設に行くこともなくなったんですから」
老女はその言葉に薄く微笑む。
「それで、あの子は、いつ引き取れますか?」
その声に全く訛りのないことを男は改めて意識した。
英国から日本に来て35年、通訳として生計を立て、素行は良好。すでに亡くなった日本人の夫と結婚し日本国籍を得ているとデータにはあったが、そのイントネーションに異邦人の気配はない。
灰色の髪と瞳。
高い鼻梁に薄い唇。
背に板が入ったかのような長身は肩幅がしっかりとしており、年より若々しく見せていた。否、正直年齢不詳だ。猛禽類を思わせる厳粛な面持ちを見て、男は軽く頷くと、どこかに携帯電話で確認をする。
「この後、病院に向かってもらっていいですよ。体調に問題はないそうで。詳しくは医師から説明があると思います。養子縁組は既にお済みなんですよね?」
老女がしっかりと頷くと、男は安心したという顔で小さな玄関に向かった。草臥れた革靴に足を入れながら、ふと思い出したというように尋ねた。
「そうだ、お孫さんの名前は決まったんですか? バロウズさん」
ほんの1秒、呼吸を止めた老女は不審の光が男の眼をよぎるのを見て慌てて言った。
「ーーごめんなさい、最近は通称に慣れていたもので……」
手元の書類に眼を落とし、男は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ああ、失礼しました。鈴木華連と先ほどもサインをいただいておりましたな」
こりゃ達筆だ、と感心する男に老女は微笑む。
「子供の……孫の名前は“太陽”です。あれの母が、“華”が決めていたもので」
質問は特に意味のあるものではなく、立ち去り際の世間話だったようで男は調子を合わせるように笑って言った。
「いい名前だ。元気いっぱいの男の子になりそうですね」
男がアパートの扉を閉じ、確かに全員が立ち去るのを待ってから、華連は部屋を振り返った。
右手を振るうと1番大きな窓が開き、左手で床の血痕をすくうような仕草をすれば瞬く間に茶色い砂のように舞い上がり、埃と共にまだ冷たい春先の空へと吹き出して行った。
庭と呼ぶには烏滸がましい、雑草が蔓延り錆びた物干し台の置かれた窓外の空間から手招きすると殺風景な部屋の中に寝具の置かれた新品の白いベビーベッドと洋服箪笥、オムツや哺乳瓶などが置かれた優美なワゴンが現れた。
まるで家具自身が意思を持って模様替えをしているかのようにパッパッと移動を続けたが、定位置が定まったのかぴたりと動きを止めた。
華連は仕上げに、隣の空室との壁を目掛けて手を一閃させた。
シーンが切り替わるかのような鮮やかさで壁が消え、続き間のように見事な部屋が現れた。
アンティークなホテルのような洋室には、小ぶりのシャンデリアから優雅な光が降り注ぎ、壁には花柄の壁紙が優美に彩られている。ベッドは繊細なレースのカバーで覆われ、古い木製の家具が部屋を飾っていた。窓辺では柔らかな風がカーテンを揺らしている。部屋は時間が止まったような静けさと、風情ある雰囲気で満ちていた。
だが静けさはひとときで掻き消えた。ゴミゴミとした雑多な街並みが見える窓からは車の喧騒が絶え間なく聞こえ、魅力的な部屋の印象は色褪せていく。
日本という国が主人やその周囲から聞いていたような夢の場所ではないという残酷な現実が重くのしかかり、華連は顔を強張らせた。涙が後から後から溢れてくる。
無意識に胸元に手をやると、その奥に大切に隠されたペンダントの感触が皺の寄った指に触れた。そこに埋められた魔石の色は、取り出さなくても眼裏にはっきりと浮かべることができた。
そして、思い出すのはもはや看病をした記憶しか残っていない夫の顔ではなく、白い歯を見せて誇らしげに笑う弟の姿だ。
何を不安になることがある。
病身の親に代わってあの弟を育て上げたのは自分だ。
食うや食わずやの落ちぶれ貴族から羽ばたいていった、希望の鷹。貴族の頂点に立った、私の誇り。あの鷹の翼の下へ、天使を送り届けるのだ。
華連は凛と眼差しを上げた。
「生きなくちゃ」
彼女は以後、死が訪れるその日までもう涙を流すことはなかった。
新章前の幕間、あと1本上げます。まずはフォルクスのお姉さまのお話です。




