61.5【幕間】ナイト魔法大学
バイオリンはなめらかな音色を奏でる。その弦が見てとれないほど細やかに、ふるえているのとは裏腹に。
激しく雨打つ窓に向かい、バイオリンでセレナーデを奏でていたレイ王子がふとその手を止めた。
王位継承権を放棄した彼の住まいは王宮にはない。もちろん放棄したからとは言え平民に身分が落ちるわけでもなく、望めば住み続けることは可能だったろう。当然の権利である。だが実母や実弟との関係を考えれば住居を別に構えたほうがいいと護衛のセバスと共に結論を出した。
よって、彼の住まいは魔法大学の最上階のワンフロアに設られている。出入りするスタッフはアボット家のみ。建物そのものもセバスによって強固な認識阻害がかけられており、外から見れば存在すらも確認できない仕様になっている。
――はずであった。
「……なっ、なっ、なーーー!!!」
主人の名演奏に耳を傾けていたセバスが、その手が止まったことに目を向けると、夜空の見える窓の外に浮かぶものを見て奇声を上げた。
ツカツカと窓に寄り、開け放ったその先には目深に被った白いレインコートから雨垂れを落とす美少女、タイヨウの笑顔があった。9階の窓の外に当然のように浮いている。
「レイ王子、セバスさん! こんばんは」
「こ、こんばんは」
あんぐりと顎を落とすセバスを横目で見ながら、レイ王子が引き攣った笑顔で返事をする。
「夜分遅くにごめんなさい。レイ王子にお手紙を渡したかったんですけど、ハンナさんが内容が内容だから直接渡したほうがいいだろうって仰るので持ってきたんです」
だからすぐ帰ります、と言いながらゴソゴソとポケットを探り始めた令嬢にセバスが咳払いをする。
「ゴホン! 立ち……浮き話もなんですから……? とにかく中に入りなさいタイヨウ嬢」
「とんでもないです! 僕、今濡れてるんでやめておきます。今夜は雨がひどいですねぇ、ひゃっ!!」
雷光と共に近くで鳴り響いた雷に、タイヨウが身を縮める。その幼児のような様子にレイ王子は苦笑いして手を差し伸ばした。
「入って、ノーマン君。君に風邪でも引かせてはカザンに叱られてしまうよ」
「あ、僕風邪引かないんで……」
「さあ、早く。急いでくれないと身体強化もできない無能力者の僕が風邪を引いてしまうかもしれないよ?」
その優しい声に、長いまつ毛を瞬かせるタイヨウ。
(レイ王子はカザンさんと顔貌は似ていないけど、声は似てるな!)
そんな符牒に、にへらと顔を緩ませたタイヨウは誘われるままにスーッと室内に入っていった。 雨を吸い取る水系の魔石をセバスが翳すと、タイヨウの身についていた水滴が瞬く間に消え去った。
「おお〜! 便利ですね」
「おお〜、じゃないですぞ! 嫁入り前の娘が夜に1人で出歩くものではない! ハンナは全く何をしておる!」
護衛家業一族の元当主としてモノクルの奥の瞳を尖らせたセバスをタイヨウが上目遣いで見上げる。
「すいません……ハンナさんはレイ王子の机の上に置いてくればいいと仰ってたんですが、お姿が見えたのでつい……」
執務室内に幾重にも掛けられた侵入禁止の策であってもタイヨウなら越えられるという孫娘からの宣戦布告は、認識阻害がかけられたこの部屋を易々と看破した様子からも正しいものだと判断できる。
新世代の者が持つ異次元の能力を垣間見て、セバスは10歳ほど老け込んだ想いがした。
「――諸事情あって、僕は王都内のタウンハウスにいることになっていてね。セバスが用意してくれたこの部屋も厳重な認識阻害がかけられているはずなんだけど……」
「確かに〜! ちょっと見にくかったですね!」
「ちょ、ちょっと……?」
腕を組んでウンウンと頷くタイヨウに、セバスががくりと肩を落とす。
「一回タウンハウスにもお邪魔したんですけど、そこも少し入りにくくて」
「少し……」
「あ、でもすぐにレイ王子がいらっしゃらないってわかったのと、若干こちらからセバスさんの気配がしていたので飛んできたんですよ〜」
「すぐに……若干……」
打ちのめされたセバスが老骨を震わせて天を仰ぐ。張り巡らされたアボット家の秘策を霧散させる黒天使のオーバーキル具合を見て、レイ王子は堪らず吹き出した。
「こんな夜に弟の想い人を引き留める程、ダメな兄にはなりたくないな。手紙をもらえるかい?」
「はい! これです!」
貴族の礼儀に則りレイ王子ではなくセバスに渡された封筒には、宛先も差出人も何も書かれていなかった。上位貴族が好んで使う材質でもなく、ノーマン家の紋章が記された封蝋もされていないどころか、封もされていない。
首を傾げて中を開くと、2枚の便箋が入っていたがそれも白紙だった。
「ハンナさんが認識阻害をかけてくださって……こう、むん!ってすると、読めますよ。むん!」
タイヨウが近視の人間が遠くを見るときのように目を眇めて見せる。可愛いことしか伝わらない指示だったが、セバスには伝わったらしく「ハンナめ……厳重すぎるぞ……」と言いながら自身の魔力が込められたストック魔石をポケットから取り出して便箋をなぞる。
「読める! 読めるぞ!」
興奮してメガネを押し上げたレイ王子が便箋をとって内容を素早く確認した。
聖誕祭はゲラン領以外の三領および観月宮が結託して乗り切ること。メイ・アボットにより特級であることが隠されていた3名が騎士団にいること。カザンおよびヒューがそれによりゲラン宮から解放されること。
そして……
「王様は……お父さんは、レイ王子と同じお気持ちのご様子でしたよ」
タイヨウが慈愛に満ちた瞳で微笑みかけると、レイ王子は唇を微かに震わせるだけで言葉を飲んだ。
茶色い髪に、茶色い瞳。
眼鏡越しの凡庸な顔は、王族らしく本音を取り繕おうと動いた。
「全領が…….素晴らしいね。モラトリアム大作戦はほぼ成功じゃないか。しかしヴォルフガングは、注意が必要かな。彼らは畢竟メリットのある話しか乗らない。世界一裕福な領だからね。特に当主は中々の曲者だよ。巧妙に隠されている彼の個人的な願望が叶えば、きっと強い味方に……」
気取った口ぶりを止めるように、小さく冷たい手でそっとレイ王子の指先を握ると、タイヨウはニッコリ笑った。
「みんなの願いが叶うといいですね! 僕たちはレイ王子の願望も、叶えますよ」
じゃっ! と手を挙げると、タイヨウは残り香も残さず転移して自宅に戻っていった。今更令嬢らしからぬ慌ただしい訪問を咎めることも虚しく、一つため息をつくとセバスは手紙を暖炉の中に放り込み、火をかけていた。
「……ッ」
到底言葉にできない感情に、細かく肩を震わせる主人の声が聞こえないよう、セバスはそっと部屋を後にした。




