53. エリア3
「絶っっっ景ですね!!!!」
赤茶色の岩山の頂上に立ったタイヨウが手庇を作って歓声をあげた。
ビュートと呼ばれる柱のような台形の岩山がいくつも立ち並ぶ荒野の奥には魔の森の深奥部の木々の影が見える。小ゲヘナは約3万ヘクタールの土地の中でいくつもの顔を持ち、驚くことにそれぞれ気候も異なっていた。
ツインテールを砂漠気候の乾いた風に靡かせていたタイヨウは、突然の強い風になぶられ「わぷっ!」とたたらを踏んだ。カモフラ柄のサファリルックに包まれた細い腰を支えたカザンが目も合わせず無言で離れる。
その様子を見上げていたタイヨウが、小さく悲しいため息をついた。
昨夜のことだ。
手紙も下げず、通信玉も持たされず、手ぶらで放たれたカザン専用通信烏の八咫が途方に暮れたようにタイヨウの部屋の窓を嘴で叩いていた。
驚いて部屋の中に八咫を入れたタイヨウは、毛先を褒美に与えて頭を撫でると筆をとった。
今は王都のタウンハウスにいること、そして聖誕祭の準備のために明日は父とヴォルフガング領の土系能力者と共にエリア3に向かうということを書いた手紙を片脚に結びつけ、八咫を送り返したタイヨウは気まずさを抱えて就寝した。
翌朝、王都ノーマン家タウンハウスの前に騎士団で一番上等な賓客用馬車が止まり、扉が開くと頬杖をついてそっぽを向く隊服姿のカザンが中に座っている。
「タイヨウちゃん、こいつ何? パパ何も聞いてないんだけど?」
文句を言うノーマン公フォルクス、そしてハンナと共に馬車に乗り込むと、連れて行かれたのは騎士団隊舎の転移室だった。
壁一面に回転ハンガーのようなものにかけられた布が並び、その空間の匂いはタイヨウに音楽室を思い出させた。初めて立ち入る重厚な木造校舎のような隊舎をじっくり見る暇もなく、カザンから一枚の大きな旗のようなものを渡されてタイヨウは目をパチパチとする。
“エリア3”
上部にそう書かれた上質な布には複雑な転移陣の紋様が描かれていた。その昔に父フォルクスが仲間と苦労の末に完成させた騎士団専用転移陣だという。小ゲヘナの入り口から転移を繰り返してエリア3に自身のポート先を作ろうと計画していたタイヨウは、眼を丸くしてカザンを見上げた。
自身で行ったことがなく、かつ目視も具体的なイメージもできない場所に転移することがまだできないタイヨウにとって、この転移陣は今最も欲しいものであった。
「ありがとうございます! カザンさん!」
だがカザンは、その黒天使の潤んだ瞳も紅潮した頬も見ることはなく、相変わらず明後日の方向を見ながら黙って腕を組んでいる。
ニヤニヤするハンナと「タイヨウちゃん、こいつそろそろ一回殴っていい?」と拳に血管を浮かべる父の腕を掴み、カザンも連れてエリア3に転移してきたのが10分前。デスバレーと呼ばれる双子山の麓にある開けた荒野で瘴気を軽減する防御テントを設営するハンナとその護衛のフォルクスを置いて、岩山の頂上に転移してきたのが5分前。
かれこれ1時間近く無言を貫かれれば、忍耐強いタイヨウもさすがに落ち込んでくる。
「カザンさん、まだ怒ってるんですか? 許してくださいよ〜」
隊服の袖をちんまりと摘んでひっぱるタイヨウの顔をようやくカザンは見た。瞳に浮かぶ炎のような怒りに気圧されて黒天使はたじろぐ。
「……ああいうことはよくしているのか?」
ああいうこと?と首を傾げたタイヨウの頬を苛立ちながら大きな手で摘むと、カザンは大きな声を出した。
「接吻だ! キスの件だ!」
頬を潰され、うにゅうと唇を突き出す形になったタイヨウは、たちまち顔を真っ赤にした。
「しょ、しょんなわけないじゃないでひゅか!! あれは、あれは勢いで……」
熱くなった頬をつままれてうまく話せないタイヨウの天衣無縫の可愛さに、心臓が鷲掴みされたような痛みが走ったカザンだったが眼から怒りは消えない。
「勢いでやっていいことじゃないだろう! しかもその後、一報もないとはどういうことだ!」
本当に言いたいことは他にあるはずなのに、言葉にならない。目の前にいる何より愛しい者に対して、ぶつけたいものはこんな言葉ではないのに、空で走らされているかのようにもどかしかった。
タイヨウはそんなカザンの想いを測るような眼をした後、長い睫毛を伏せた。
「……びょくたひはいまいしょがひいじゃないでひゅか」
「……?」
頬を解放すると、ムニムニと赤らんだ頬をマッサージしながらタイヨウが改めて言った。
「僕たちは、今忙しいじゃないですか。カザンさんとも聖誕祭が終わるまでお会いできないと思ってましたし……」
領横断会議は一昨日のことだ。昨日は全体プランのスケジューリングに1日を費やした。ミカドの技術を盛り込んだ携帯通信機のデモ機を渡され、ほぼ一日中机に座って各領の担当者とプランを精緻化した。会議からそのままノーマン家に泊まり込んでいたリリガルドが各領のオータム商会支店に掛け合いながら実現に向けて走り出していく。
水を得た魚とはこのことかと目を見張るほどの活躍だったリリガルドは、今日は観月宮の視察中だ。
最も試作に手間のかかることが予測されたノーマン領案「ゲヘナツアー」(※スーパーデラックス休憩所よりリリガルドが改称)の現地視察にこうして訪れているタイヨウも、スケジュールは当日まで1日の空きもない。
そしてそれは、ゲラン宮に留め置かれているカザンも同じはずだった。先日ノーマン邸を訪れたヒューやドビーの会話から窺い知るゲラン宮の状況は気の晴れるようなものでもなく、被害者も実際に目の当たりにしている。むしろ心配で邪魔にならないよう控えるしかなかったのだ。
「だから今度ゆっくり大事な話をって言ったのに、カザンさんがトンチンカンなこと言うから……!」
観月宮でのやりとりを思い出したタイヨウはだんだん腹が立ってきた。
「んな…っ! そんな大事な話なら、尚更手紙に書けばいいだろう!」
詫びられるどころか責められたカザンがカチンとなって声を大きくする。仮にも第三王子であり、同世代の女性とケンカしたことなどないことが仇になった。
「そんな事務連絡みたいに伝えるものじゃないんですぅっ! それに大事なことは目を見て話しなさいっておばあちゃんに教わって育ちました!」
涙ぐみながら肩を怒らせるタイヨウも負けてはいない。ハアハアと息を荒くしたタイヨウが扇のような長い睫毛を伏せると小声で何事か呟く。
「……のに」
「なんだ、はっきり言え!」
母親譲りの短気は、今や火を吹きそうなほどだった。
「僕、初めてだったのに、よくしてるのか? なんてひどいと思います!」
カザンが顔に思わず喜色を滲ませたあと、ギョッと目を丸くした。アメジスト色の瞳に涙をいっぱいためると、うぅ〜と歯を食いしばりながらタイヨウが上を向いてついに泣き出したのだ。
タイヨウは昔から泣かない子供だった。
元々穏やかな気質である上に、祖母は子供のあしらいに慣れており、さらに泣かないように生きる術を叩き込んでくれたからだ。
泣いたのは一年ぶりだ。
祖母を火葬した日。
孤独と絶望に押しつぶされそうになり、1人で生きる明日からの日々が恐ろしく、自分も目の前の小さな骨壷に入りたくて入りたくて泣いた。
だが、その時の涙とも違う。
こんな風にやるせない怒りで泣いたのは初めてだ。
己の感情のためだけに流す涙は、この世界に来てようやくタイヨウが自分を大切に思えるようになった証だったが当の本人にはわかるはずもない。
一度こぼれ出すと涙はもう止まらなかった。
「バカ〜!! カザンさんのトンチンカン〜!!」
目の前で涙を流す惚れた女に勝てる男がいるはずもなく、カザンもまた大半の男と同じように詫びる想いを腕に込めてタイヨウを抱きしめるしかなかった。少女の鈴蘭のような清廉な花の香りを吸い込んでから、低い声で囁く。
「すまん、タイヨウ。許せ」
胸の位置におさまった小さな頭にキスしてから、顔を上に持ち上げて頬を伝う涙すべてに唇をあてた。 塩辛さが舌に伝わると、ぞくりと身体の芯に仄暗い悦びが貫くのを感じて、カザンは思わず目を閉じた。
「あ、謝るときは、ごめんなさい、でしょ〜!!」
天使と謳われる少女が子供のようにしゃくり上げながら抗議する様に、カザンはついに完敗して吹き出した。
「ごめん、ごめんタイヨウ」
そして花びらのような赤い唇をふさぐと、食いしばられた歯をこじあけて舌を奪った。
驚いて縮こまる舌に絡み、蕩かせ、小さく甘い喘ぐような吐息を引き摺りだしたカザンはもう止まらなかった。慣れぬ長いキスにうまく呼吸ができず、息継ぎのような大きな吐息を漏らした黒天使に、カザンがようやく唇を離す。
「……2回目」
タイヨウの言葉に笑うと、カザンはトパーズ色の瞳で優しく見つめた。
「もう数えなくていい。そういう話だと思っていていいんだな?」
「……はい」
頬を染めて頷く少女をもう一度抱きしめると、その小ささや細さがたまらなく愛しかった。カザンの胸の内には自信が湧き上がり、まるで身長が3m程に伸びたような気持ちになった。
「カザンさんも、2回目ですか?」
「……は?」
すんすんと鼻を鳴らしながら問われた言葉に、彼の高揚は突如冷水をかけられたかのように収まった。
「リリガルドさんが前に、等級が違うと、そういう気持ちも起こらないって言ってました。犬が魚に発情しないのと同じだって」
「まあ……そういう説もある……な」
「レイ王子もそんなようなこと仰ってました」
「兄上……」
「だからカザンさんも2回目ですか?」
「……」
「何で目を逸らすんですか?」
そこに索敵を行ってタイミングを見計らっていたハンナに送り出されたフォルクスが700mほどある台座の上まで飛んできた。
エリア3に転移した瞬間から魔力が渾々と湧き上がり、テンションも沸いていた伝説の元騎士団長はバチバチと音が聞こえるほどの闘気をまとってカザンを見下ろす。
愛娘の目が涙に濡れていることを見たフォルクスは一瞬戸惑った後、コキリと首を鳴らしてさらに魔圧を引き上げた。
「ヘイヘイヘーイ、うちの天使に何してくれてるんだ王子様?」
アイスブルーの瞳は抑えていた魔力が暴れて虹色の光を纏い始める。ブゥンと音を立てて大きな風の槍を頭上につくり、フォルクスは怒鳴った。
「王子ごときが人間風情の分際で……」
「父様は、初めての相手は母様ですか?」
否、怒鳴ろうとしたが、娘の言葉で台詞を叩き折られてガクリと足場を崩した。唖然とする父は、どういうことだとカザンの目を見るがそこに当然答えはなかった。
「なん……の話をしているのかな? タイヨウちゃん」
風槍は消え、ついでに昂る魔圧も引っ込んだフォルクスは台座の上に降りた。
「等級が違うとそういう気持ちにならないって教わったんです。だから……その……」
促されるままに言い出してはみたものの、さすがに身内の、しかも父親に尋ねる話ではないような気がしてきたタイヨウが頬を赤らめてオロオロと視線を彷徨わせる。
カザンと目を合わせたフォルクスは、訳知り顔で頷いた。そして、一つ貸しだぞと念を送る。
「そんなことを話している時間はないぞ! 防御テントは設営した。降りよう」
タイヨウはハッと顔を上げた。フォルクスの風系能力者ならではの“面倒臭い”が勝った勢いに苦いものを噛んだような顔をしたカザンだったが、ここは乗るしかない。
いつものようにタイヨウを抱き上げると「行くぞ」と耳元で囁く。
「それ意味あるか? さっきは触れもしないで転移してただろ」と言いながら再び飛んだフォルクスに、カザンが笑う。
「フン、定位置だ」
先に降りていくフォルクスを見て、タイヨウがパチンと自分の頬を軽く叩くとカザンの目を見て言った。
「僕がんばりますから。お話できる日まで、がんばりますから。胸を張って会えるように……」
後の言葉は重ねられた唇に飲み込まれた。
「楽しみにしてる」
笑顔のカザンに額をあわせると、タイヨウはそのまま大地へと転移した。




