52.5 【幕間】名前のない怪物
「――鈴木様、こちらお心当たりはありますでしょうか?」
都内最高峰の高級ホテルのエグゼクティブフロア専用フロントの担当ホテルマンは優美な笑顔で美しい少年に問いかけた。田中成一、37歳。フロント部のチーフであり、ここ半年はエグゼクティブフロアをメインに見ていた。
黒いパーカーにダークカラーの花柄が配されたジャージを羽織り、太めの黒いパンツ。見るものが見れば、それが全て一級品で揃えられているということがわかるスタイルの少年はサングラスを少し上げ、差し出された封筒を見た。
この世界には珍しい手漉きの分厚い封筒に赤い蝋印の捺された封筒には万年筆で“鈴木太陽宛”と書かれていた。差出人も鈴木太陽。そして宛先の住所はかつてタイヨウが住まいとしていた新宿区内の粗末なアパートのものだ。切手はないが、転送処理がなされてホテルに届いたらしい。
「ふぅん、考えたね」
ブランド品を嫌味なく、品よく着こなした少年の紫色の瞳がこの上なく愉快なものを見たという色を湛えて細められる。それを見ていたホテルマンは笑顔を貼り付けたまま胸を撫で下ろした。
3000万円のキャッシュを無造作に積み上げて「とりあえず半年、エグゼクティブフロアを貸してくれる?」と少年が見事なクイーンズイングリッシュでフロントに言った数ヶ月前、ホテルには激震が走った。
都内の老舗高級ホテルの名前をいくつか挙げ、「どこも未成年はダメの一点張りでさあ。外資系なら行けるかなと思って。無理かな? ここも無理なら、パリしかないかな……漫画喫茶がある海外って、他にどこあるかな?」とブツブツいう少年にフロントとして語りかけたのは自分だった。
最初に話しかけられた新人フロントは少年の美貌と気魄に腰が抜けて膝をついていており、それを足蹴にしながら飛び込んだ自分を今では誇りに思っている。
特別室に案内し、支配人と共に話を聞けば、少年は英国から日本に来たばかりとのことであった。出生時は日本、父はイギリス人だが母は日本人。15歳だが飛び級してケンブリッジ大学の1年生。両親は夭逝、日本にいると聞いていた母方の祖母を頼ってきたのだが、その祖母も亡くなっており途方に暮れているという。
漫画でも「流石に盛りすぎでは?」と編集から制止が入りそうな経歴だったが、驚くことにパスポートや英国のIDカード、大学の学生証も確認したところ全て本物であった。
「今は日本と二重国籍だけど、大人になるまでにどちらかを選択しなくちゃいけないだろ? ニッポンの文化が好きでさ、選ぶ前に現地で暮らしてみたいって飛び出してきちゃったんだよね」
少年は日本語で言いながら、前髪を吹き上げる。柔らかくウェーブのかかった髪も伏せられた長いまつ毛も黒いが、瞳は明け方の夜空のような紫色だ。
少し影のある凛とした相貌は、大人になればどれほど多くの女性を泣かせることだろう。
金は持たされたが、後見人の家とはあまりうまくいっていないので連絡は避けたいと言いながら提示された連絡先には“ウィリアム・レヨン・ドゥフト・ハットン”と言う名と、チェシャー州ウォリントンの住所が書かれていた。
“名貴族の御落胤”
顔を見合わせた支配人とホテルマンの目にはしっかりそう書かれていたし、なんなら脳内にはダウントンアビーのメインテーマが流れていた。
「エグゼクティブフロアを貸切になさりたいという御意向でしょうか…?」
積み上げられた札束をチラリと見ながら支配人が問うと、「いや、別に一室でいいよ」と少年は手を振った。
深夜に出入りすることが多いため、専用の入り口やエレベーターは使用したい。一々誰何されるのも鬱陶しいので、ラウンジも専用のものを使いたいというだけのことらしい。それならばと差額分は謹んでお返しすると、「泊めてくれるってこと? ありがとう!」と少年は相好を崩した。
突然現れた年相応の明るさは、まるで闇夜を切り裂く朝陽のような神々しさで、その場にいたスタッフの心は完全に掌握された。
外資系ホテルといえど、スタッフの大半は日本人だ。日本人は自国の文化に関心を持つ海外の人間が元々好きであったし、上流階級にある者に尽くして喜ばれるという体験は長く封建制度にあった国民のDNAに刻まれた琴線を目覚めさせて掻き鳴らした。
瞬く間にスタッフに受け入れられた少年は、陰ながら献身的に見守られることになった。
少年がまともな食生活を送っていないこと、特に野菜は一切口にしていないことを客室係に密告された割烹の料理長は腕を振るって健康的な薬膳料理を拵えた。
箱膳を見た少年が、「これがベントー? アニメで見て、食べてみたかったんだよ」と眼を輝かせて完食したと聞いた割烹は開業以来最も湧き立った。“太陽御膳”と通称されることになるメニューには、すりおろした人参で着色された海老真薯による“タコさんウインナーもどき”など、ユニークなレシピが並んだ。
表面的には受け入れたものの、英国の執事学校を卒業した副支配人は少年の出自には懐疑的であったが、「家とうまくいってない理由? 俺にわかってたらケンブリッジ行ってないよね。あんたならわかるでしょ?」といった小気味良い貴族ジョークを挟まれて呆気なく陥落した。
少年はホテルで小さな王子であった。
気品を越え、威厳すら漂う佇まいはエグゼクティブフロアに滞在する他国からの客も魅了することすらある。あらゆる語学に長け、ウィットに富み、マナーも洗練された美しい小公子は様々な伝説を残した。
某石油輸出国から来た客の室内サウナが故障したことでトラブルになった際も「えーと、俺、ケンブリッジ工学部だから」と強引に間に入り、たちまち修理してみせたことがあった。
それに歓喜した賓客が一週間ほど彼を祖国に招き、並ならぬ歓待を受けたという少年が山ほどの土産を持って帰ったときはスタッフ一同が我が事のように誇らしい気持ちがしたものだ。
「ハキム、いいよ。これは俺宛だ」
背後に控えた黒いスーツを身につけた褐色の青年が封筒をフロントマンから受け取ろうとしたのを制して、少年がニッと笑う。
「ありがと、田中サン。これ、また来るかもしれないから、そのときもよろしくね」
少年はフロントマン田中の手に数枚の一万円札を握らせると、エグゼクティブフロア専用エレベーターに乗り込み、笑顔でヒラヒラと手を振った。
扉が閉まるまで頭を下げていたホテルマンは、通り過ぎた少年がこの半年で自分とほぼ同じ背丈に成長しているのを確認し、なぜか胸が熱くなるのを感じていた。
◆◆◆
「タイヨウ、最高!」
封を開けながらベッドに飛び込み、闇Suicaを額に当てた少年が歓喜の声を上げた。
欠乏気味だった身体に魔力が流れ込む。拭えない怠さが取り払われていく快感に、一時眼を閉じた。
そのままベッドに横たわりながら、3枚の便箋を広げる。ソーレの身を案じる内容と、入れ替わりを続けたいという内容を読んだ少年は「ははっ! マジかよ最高」と脚をバタバタさせて喜んだ。
「タイヨウ様、は、ソル様の“魂の双子”?」
大都会のネオンが眼下にきらめく大きな窓を背に、グラスに冷えた水をサーブしていた褐色の青年が問うた。
グレージュの短髪、アッシュグレーの瞳。鍛え上げられた190cmの長身は街を歩けば多くの人目を引いたが、極めて内向的な性格であった。そして語彙の少ないことを恥じて言葉は少ない。
ソル、は、少年がミドルネームとして名乗っている名だ。
鈴木・ソル・ドゥフト・太陽
覚えるのに苦労した難解な名前は、不思議な少年を現すのに最適だと今では考えている。
「そう、王子サマと結婚するらしいよ。もうヤッたかな? タイヨウってば満喫しまくりでしょ、バベル生活」
ハキムは機嫌の良い主人を見て薄く微笑む。
祖国を訪れた“ソル”は、現地で待ち構えていた石油王との会話に出てきた難航しているという海上油田開発現場に赴くなり、「場所がズレてる」と指摘した。
「地層の途中で磁場が狂ってるから計器の反応もズレてる」という素人の指摘に現場は怒り心頭だったが、言われた通りの地盤下を探ってみると“正解”に到達した。
石油王が提示した礼金300億円を「3億くらいでいいや」と跳ね除け、ならばと差し出された女やドラッグにも目を向けない少年に、富豪は不安になった。欲望のわからぬ相手ほど扱いにくいものはない。“慈善活動”とのたまうこの行動をライバル企業でも繰り返されてはたまったものではない。
300億円を受け取れ、と脅すつもりで差し向けられたのがハキムだった。
組織で物心ついたときから暗殺者として仕込まれた17歳のハキムは、部屋に侵入するなり少年の首元にあてるはずだったナイフを利き目の眼球の1mm手前に突きつけられた。何故か指一本動かせないことに、蟻地獄に落とされたような、自身の存在が足元から失われるような恐怖を覚える。
「闇属性なの? 君」
隠蔽かけてたのにやるもんだね、と欠伸をする美しい少年はベッドの上であぐらをかいて伸びをした。服装もしどけないパジャマ姿のままだ。
そう、少年はナイフから両手を離している。
ならば目の前にあるこのナイフはなんなのだ?
ごくりと生唾を飲んだハキムの前に裸足でゆっくりと歩いてきた少年は「俺、体術はサッパリだから、君みたいなの欲しいかも」と浮かんだナイフの柄を握るとニッと笑った。
翌朝ハキムは「金は言った通り3億でいいから、これ頂戴よ」とシーツに包まれた状態で石油王に交渉され、違法に手に入れたイギリス国籍をつけられて少年に下げ渡されることになった。
それからソルは、ハキムに見知らぬ異国の話をした。
バベル王国のこと、属性、能力、魔素、ゲヘナ。自由と背中合わせの孤独に飽きていた小さな魔王は、寡黙な若き暗殺者に返事を求めるわけでもなく淡々と語った。そのソルの言葉を、まともな教育を施されてこなかったハキムは砂が水を吸うように吸収した。
「お前は闇属性だよ。勘がいいんじゃない、常に索敵を使ってる。だから体術も上手いんだ」
ホテルのプライベートジムで体術のトレーニングしている最中、この世界でそれだけ使えるんだからバベルに行ったらどうなるだろうなと汗をぬぐいながら言われた時は誇らしさに震えた。生まれてきて良かったとハキムは人生で初めて思った。
出会ったときから、こうなることは主人の中で決まっていたように思う。
枕元のバングアンドオルフセン社の電話を取り、主人は甘い声で話しかける。
「あ、田中サン。悪いんだけど、空のSuicaを10枚明日の朝持ってきてくれない?……そう、記名はなし。“トモダチ”が欲しがっててさ。あと切手500円分もお願い」
電話を切るなり、一度大笑いしたソルはふわりと浮遊し、ハキムの後頭部を冷たい手で包むと額を合わせた。
「バベルに帰るぞ、ハキム」




