42.5 【幕間】10年前 クマリの危機
『きみのすきなものを教えて
僕のすきも教えてあげる
いつか呼吸も溶けあって
やがて2人の汽水域』
まるで祝福のように月光が幻想的に降り注ぎ、歌姫の肌が淡く輝く。
天の神々に届くような伸びやかな歌声が空気を振るわせ、天と地をつなぐ。それは、聴く者の胸に敬虔な想いをもたらす天賦の才能だった。
ヴォルフガング湾に浮かぶ豪華客船。その船内、オペラや演劇のために設えられたホールの舞台で、最後の曲を歌い終えたクマリ姫が照れ臭そうにお辞儀をする。
「くぅちゃん!! 上手だったよ!!」
「叔父様、やめてくださいまし。くぅちゃんという歳でもないのですから……」
立ち上がって舞台へ拍手する叔父に向かい、クマリ姫は金色の瞳を照れ臭そうに伏せた。
腰まである群青色のポニーテールに、薄茶色の肌。胸元が大きく開いた黒いドレスのスカート部分は無数のフリルで波打ち、その奥の高いスツールから、コントラバスの演奏者が彼女を車椅子へ抱き移した。
伴奏はコントラバスとピアノのみ。演奏者はいずれも側仕えらしく、ピアノを演奏していた女も慣れた手つきで介助しながら、舞台の下までエスコートする。側仕え達が膝をつき、バベル王に伏せるのを見届けてから、クマリ姫はゆっくりと頭を下げた。
「座ったままで申し訳ございません。もう足が動きませんの」
「お気になさらず。ご覧の通り、今宵はプライベートパーティですから」
王の側に立ったジョルジュ・アボットが薄く微笑む。彼の言う通り、広いホールに観客はバベル王しかいない。
ジョルジュは背後を振り返り、ヴォルフガング領のスタッフ達に下がるよう指示した。
黒い執事服に片眼鏡をつけた長身のジョルジュは、黙っていると冷たい威圧感がある。その沈黙に怯えたような表情を漂わせるクマリ姫達を気遣うように、横の王が「ジェイ、去ったか?」と問うた。
褐色の肌に金色の瞳、小麦のような金の髪。二メートルの長身には無駄のない筋肉が付き、壮年の男らしい色気が、白いシャツと黒いパンツというラフな服装から匂い立っていた。
獅子と喩えられる現王、アグニ・シナン・バベルにJと親しみを込めて愛称を呼ばれたジョルジュが頷く。索敵で確かにホールに人が消えたのを確認してから、クマリ姫に言った。
「……姫、驚かないでください。防音はかけていますが、大きな叫び声は漏れる可能性があります」
機械めいた無表情、アボット家の特徴である鉄仮面フェイスの口元に、白い手袋に包まれた人差し指を当てるジョルジュに、クマリ姫がコクコクと頷く。
その手袋を外し、パチンと指を鳴らすと、王が腰掛けるソファの背もたれに抱きつくように、しなだれ掛かるカグヤ妃が現れた。
「いい声じゃったのぅ。確かに死なすのは惜しいえ」
クマリ妃と侍従が驚愕で息を呑む。
ホールの主賓席には王とジョルジュしかいないはずであった。ところが今、狂い咲く花のような香りを放つカグヤ妃が、艶然と王の首に手を巻き付けて微笑んでいる。気配はもちろん、香りも――唐突に空間に“現れた”のだ。アボット家の認識阻害に慣れぬシナン人達は、これでもかというほど目を丸くした。
カグヤ妃の背後で朱色の毛氈を引き、酒宴を繰り広げていたホタルとセミマルが立ち上がって大きな拍手をする。
「ミカドでも公演してほしいなぁ! 吉原で一枠、京都で一枠。ガッポリいけるぜカグヤちゃん!」
「それよりも、その肌の輝きは何を使っているんですの? ぜひ吉原で取り扱わせて頂きたいわあ」
「姐さん、わっちもそれは気になっておったえ! 手持ちがあるなら売ってくれんかえ?」
無邪気な声かけに目を白黒させるシナン人達をよそに、何曲目がよかっただの、衣装はバベルに寄せずシナン風がいいと思うだの、好き勝手に言い合うミカド陣営に、「ン゛ン゛ッ」とジョルジュが咳払いした。
徳利を手にしたカグヤがフンと鼻を鳴らす。
「J、話は通っているのじゃろ? 足まで症状が上がっているんじゃ。時は急ぐぞ」
その言葉にクマリ姫が目を凍らせる。
当時、シナン諸島連邦は『大熱禍』という未知の熱病によるパンデミックに喘いでいた。国民の約半数が亡くなるという未曾有の大災害の中、バベル王国は王位継承者第三位までを自国に疎開させた。たった三人しか選ばなかったのではない。第三位までしか生き残らなかったのである。
正確にはクマリ姫を入れて四人生き残っていた。二十四歳のクマリ姫は本来第二位継承者であり、救われる命であったが、不治の魔力障害の難病を理由に二十歳時点で王位継承順から除斥されていたという。『石病』と呼ばれるその病は、魔力の流れが滞り肢体が麻痺し、二十代で臓器不全により死に至るというものだった。
「クマリ様、こちらでは死ぬ石病ですが、ミカドには治療法があるのですよ。術者は限定されている上に患者本人に非常に負担がかかる危険な治療となるため、この先もミカドはその情報を公開する予定はありませんが……。その対価はご存じですか?」
気遣う様子で問いかけるホタルに、クマリ姫が頷く。コンサートの前に、人を排して王とジョルジュから説明があった。
「――治療法は反魂術の類で、本来生きられるはずだった残りの寿命を使用すると聞きました。でもよくわからなくて……」
私は二十代で死ぬと聞いていましたし、と自嘲気味に目を伏せるクマリ妃を、侍従二人が涙ぐんで見上げる。クマリ妃はバベル王国に縁嫁として渡ったバベル王の母の妹の娘だ。未曾有の大災害で帰らぬ人となった母や側近から情報が途絶えている様子に、シナン諸島連邦の深刻な危機が伺えた。
「左様でございます。この術は“生まれ直し”。クマリ様は現在二十四歳ですから、残りの寿命のうち二十四年分を対価として使用することになります。八十年まで生きられるとするならば、生まれ直しても五十六歳が寿命となります。シナン人は元々寿命が長い傾向がございますので、六十歳を過ぎるとは思いますが……それでもよろしければ、石化反魂をかけさせていただければと思います」
一級治癒師であるホタルの説明を聞いていた年嵩の侍従が涙をこぼす。
「おいたわしや……私の寿命を代わりに差出せればどれほど気が楽か……」
「そんなこと言わないで、ばあや。あと数年も生きられないはずの命をもう一度生まれ変わらせて下さるのよ。こんなに幸せなことはないわ。あなたもついてきて。そして母様から教わった歌をまた私に教えてちょうだい」
きっとよ、約束よと侍従の頭を抱くクマリ姫の目にも涙が光る。
「いいのぉ。やっぱり女子を産みたいのぉ? アグニ」
ミカド語でしなだれかかるカグヤに「カグヤサンに似た女の子だったら、僕オヨメに出せませんヨ? 1ボーも許しマセン」とバベル王が片言のミカド語で返して笑う。
その様子を鉄仮面フェイスで見つめていたジョルジュの片眼鏡が光る。
「ではこの御二方を侍従として迎え入れるということでよろしいですかな? クマリ様」
ジョルジュの言葉に、クマリが強い光を灯した瞳で頷く。
「はい、ばあやのヴァータと、その姪のリムゥです。2人とも母方の血縁です」
その二人に立つよう指示すると、ジョルジュが王とカグヤ妃に向かって言う。
「大変結構。それでは、今宵クマリ様に王のお手つきがあったという方向性で調整いたしましょう。国難の最中故、結婚式は親族のみで行うということで。ホタルさん、施術は半年後でお願いいたします。その施術後、クマリ様は新生児まで戻られる。異例の早産と共にクマリ様は死去したこととし、王太后の御名であられる“シュリ”姫としてバベルで生きられる。それでよろしいですかな?」
幾つもの法を無視した手段だったが、アボットにとっては法より主である。彼の言葉に頷いたバベル王が、ため息と共にジョルジュに問う。
「J、“彼ら”は引っかかると思うか……?」
その言葉に一同が息を呑む。
カグヤ妃の第一子の出産を非道な手段で食い止めたコーネリア妃が、新たな妃の妊娠でどう動くか――その問いにジョルジュは眉間に皺を寄せた。
レイ王子は無能力者だと判明し、疑惑の第二子ゲオルグは同い年のカザンより遥かに能力が劣っていることが伺える現在の状況だ。余計な危険は排除する方向に動く可能性がある。
「……わかりません。あの事件の際は確かに闇属性の残滓を感じました。荒々しく、隠そうともしない有様でした。ですが、その後そのような発露は何処にも感じられなかった。チャンスは何度もあったというのに……。私は当該能力者が無謀な出力によって“過剰底尽き”したのではないかと考えています」
ジョルジュの言葉にカグヤ妃が片眉を上げる。
「底尽きなら時間と共に戻るじゃろ?」
魔力消費が限界を越えるアウトバーン現象“底付き”は、カグヤの指摘通り時間が解決するものだ。
だがジョルジュは首を横に振る。
「体内の全魔力量の50%を消費すれば能力は使用停止、70%を超えると底尽きとなり魔力回復に時間がかかります。これが90%を超えてしまうと、永久の底尽きとなるのです。それが過剰底尽きです。通常は身体からストップがかかるので起きないのですが……。高齢となった有力な魔術師が自身の魔力量の低下を認識せずに魔法陣を用いてカルマを発動し過剰底尽きしたケースがあったと過去の文献にはありました」
カグヤ妃の流産事件はジョルジュ・アボットの人生における最大の汚点だった。
主人の命が奪われれば自身も命を失うという過酷な誓約のもと、能力を最大化するアボット家の『御霊の誓い』は、執行と共に主人の心に沿うよう設計されている。
あの日、冷たい血溜まりからカグヤ妃を抱き上げたバベル王の内なる慟哭と怒りは、そのままジョルジュの心に投影され、以来冷たい影を落とし続けている。
アボット家の至宝と謳われ、天衣無縫な魔力量を誇る彼には、掴めぬ情報などないと思っていた。だが十年経った今でも、犯行に及んだ人物の見当すらついていない。あの忌々しい残滓を、闇属性の最高峰を誇る自分の鼻を持ってしても辿れないなど、理論上はあり得ない。
そのジョルジュ・アボットが辿り着いた結論が、“犯人は過剰底尽きをし、命を落とすか無能力者となっている”というものだった。
カグヤ妃の記憶操作、侍従達の集団失踪と死へと誘うほどの集団操心。
過去のカルマを駆使すれば行える内容だが、過剰底尽きになる可能性も高いはずだ。
「網に掛かれば儲けもの。今回の入れ替わりはクマリ姫の命の救済とコーネリア妃陣営の注力の分散を目的とするのがよろしいかと思われます。それでよろしいですか?」
ジョルジュの言葉に、一同は重々しく頷いた。
この夜に交わされた密約は半年後に無事果たされたが、結果的にコーネリア妃からの攻撃は皆無であった。
シュリ姫として生まれ変わったクマリ姫は記憶の一切を失ったが、口外禁止の誓約を掛けられたクマリ姫の側仕え二人は、カグヤ妃が放った最後の一言を心に刻み、幼い姫に繰り返し伝えていった。
あの夜、微かに揺れる船内のホールで、帰宮する転移陣に向かい歩いていたカグヤは口を開いた。
「……クマリ姫よ。天賦の才を持つ主が斯様な運命に巻き込まれて、さぞ天を呪うじゃろうの。心中は察するえ。だがな、ひとつだけ覚えているといい」
その足を止めて振り返ると、月光の下で艶然と微笑む。
「女はの、幸福になることが1番の復讐なんえ」
自身も復讐を胸に抱える美しい女の言葉は、その場にいた者の光り輝く道標となり、やがてこの国の運命を大きく変えていくことになった。




