34.5 【幕間】ソーレとハンナの出会い
美しい花になりたい。
美しい花になりたい。
美しい花になって、誰かのことを笑ってやりたい。
幼い頃より、ハンナは落ち込むたびにそう思ってきた。
先祖代々『王の盾』を自称し護衛の任についてきた一族のことも、目前の洗礼式のことも、自分自身のこれまでも――すべてを棄て去り、ゲヘナの奥で人知れず咲く花として生まれ変わりたい。
十六年の人生で、最もその想いが高まっているのがこの瞬間であった。
真冬の深夜二時。王宮図書館禁書庫内。
誰一人いないはずの空間で、喉元にステッキを押し付けてくるコレは、一体何なのだ?
腰まで伸びたストレートの黒髪は天窓から落ちる月光を受けて煌めき、瞳は淡い菫色。幽鬼と見間違えるほどの白磁の肌。歳の頃は十歳ほどか。人外めいた美少女は見たことのない奇妙な服装に身を包み、その佇まいは幻想にしか見えなかった。
装飾過多な膝丈のゴシックドレス。
ストライプのタイツ。
光輪をモチーフにしたヘッドドレス。
髑髏と羽根を組み合わせたステッキ。
東京で買い揃えられたゴスロリファッションに一瞬気を取られた――その隙を、つかれた。ハンナはコクリと喉を鳴らす。
「何なの? あんた。ここは入っちゃいけない場所でしょうが」
やはり声音はまだ幼い。
だが、威圧感は既に特級クラスだ。眼前でビリビリと音がするほど魔圧を撥ね上げられ、胸部が圧迫される。
呪われた魔書すら封じる王宮禁書庫の最奥であることが、裏目に出た。アボット家の技術の結晶により、この異次元の魔力が検知されることはないだろう。肝心なときに役に立たない一族だ、と舌打ちが喉の奥に溜まる。
感情の読めない表情のまま、ハンナの口の端から血が一筋垂れた。噛み締めた歯の奥から、震える声が漏れる。
「……この言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「ふぅん、まだ喋れるんだ? おもしれー女。あんたアボット?」
日本で得たネットミームを会話に打ち込みながら、少女はニヤリと笑い、威圧を緩めた。
途端、ハンナは激しく噎せた。膝が崩れ、地に手をつく。涙と涎が止まらず、体裁を整えることもできない。新鮮な空気を求めて、身体が勝手に激しく呼吸する。
追い詰められたのは初めての経験だった。
「……あなたはどこのバケモノですか?」
アボット家の情報網に、これほどの魔力を持つ者がかからないはずがない。しかも子供。
大ゲヘナにいるという魔族なのか? そんなバケモノが城の警備の内情を知っている?
アボット家の闇属性の子供は十三歳から王族守護者である親族の見習いとなり、城内の見廻りを担当する。洗礼式を終えて能力が高い者が王族守護者の任に就き、それ以外の者は地方担当に回される。
一族は王家御用番として闇属性を得ることに執着しており、多妻多子だ。この一族の風習は思春期のハンナに嫌悪感しか与えなかった。現在第一王子の守護者となっている元当主も、五十歳のときに十七歳の五人目の妻を娶り子を成している。ハンナ自身も洗礼式を終えれば産み腹として見られるのだ。遠縁の一級能力者にでも嫁がされるのだろう。
吐き気がする。
「よく気づいたわね、私がいるって。この空間自体も強固な隠匿の陣がかけられてるのに」
部屋自体は決して大きくはないが、高い天井まで棚が組まれ、ぎっしりと本が詰まっていた。ハンナが瞬きをした、その瞬間。
天井近くの棚にあったはずの禁書が、いつの間にか少女の目の前へ浮いている。華奢な指がそれを優雅にパラパラとめくった。
「……禁書庫の中に微かな違和感を感じることは、ここ一月の間で何回かありましたので」
禁書庫は王宮図書館の壁の奥に秘匿されている。場所も明かされておらず、王家とアボット家以外から見れば、そこはただの壁でしかない。
仕掛けられた解錠の魔法陣は闇属性の一級能力者以上でなければ反応もしない。
何者も入ることができないがゆえ、逆に警備が薄くなる場所。深夜、微かに感じた違和感。気のせいだと流していれば――こんなバケモノと遭遇することもなかったのに。
忠義心も愛国心もないハンナは、心がさらに荒むのを感じた。
「私、認識阻害苦手なのよねえ。ねえ、闇魔法の禁術が書かれてる本どれか知らない? 教えてくれたらこの部屋から無事に逃してあげる」
そうしたら、もう来なくて済むし――少女は笑う。
「教えなかったら?」
「そうね、温厚な私でもイラッとして忘却術をちょっと強めにかけちゃうと思うわ。人として生きられないレベルではないけれど、名前やお仕事のことは忘れてしまうくらいね。少なくともアボットとして生きられないと思うの。教えてくれたら、この数分間だけを忘れるようにしてあげる」
「そんなことが……?」
「できるわよ。私天才だもの」
『アボットとして生きられない』
それはハンナにとって、甘美な響きだった。
ここは自分の居場所ではないと思いながら、何も行動を起こさず流されてきた。
一族も嫌いだが、そんな弱い自分が一番嫌いだった。
ハンナ・アボットではなくなる。そんな夢のような話があるのか?
そもそも忘却術は強い感情を忘却させるものだ。戦士や犯罪被害者のPTSDを和らげるために使用されている。都合よく特定の記憶だけを消すというものではない。
だが、このバケモノにはそれが出来ると思わせる何かがあった。
「……禁書の場所はお教えします。その情報が正しいことが確認できたら、『アボットとして生きられない』ようにしていただくことはできますか? 出来れば記憶は残していただきたいのですが」
王家御庭番一族として滅私奉公を叩き込まれた自分の、人生で初めて口にした願いがこんなものになるとは。心臓がバクバクと鳴り、言葉が口から転げ落ちそうだった。
「――なるほど。あんたにも事情があるってわけね」
一瞬驚きに目を丸くした少女が、フンと鼻を鳴らし、顎をクイと持ち上げる。
言え、ということらしい。
「闇属性の禁術は『闇の章』というシリーズに纏められています。最上段が闇コーナーです。近年は闇の特級能力者はアボットにしかおりませんので、アボット系の禁術しか掲載されていないはずです」
特級能力者が編み出したカルマは国への報告が義務付けられ、死後禁術として記録され原則封じられる。悪用を防ぐためという名目だが、そもそも悪用できるほどの能力者は少ない。あくまでも永世中立国として諸外国へのポーズである。
だが連綿と闇能力者をつくってきたアボット家では、『たまたま同じカルマを思いついた』という強引な言い訳で複数のカルマを受け継いでいたりする。
少女がステッキを振り上げる。最上段の本が数十冊、するりと降りてきて――二人を包むように環状に浮遊した。
ふわり。少女の身体が宙へ浮く。
煌めく大きな瞳が、ハンナを見下ろす。
「どれ?」
「ここからここまでは索敵や認識阻害、鑑定、操心のアボット系列ですね」
「え、操心唆るぅ……」
頬を微かに染めて少女が微笑む。天使と見紛う美しさ。
だがハンナは騙されない。いつか恋する相手に……といった可愛らしい用途を、この規格外の生物兵器が想定しているはずもない。
「意識を操るという点で認識阻害と原理は同じですので、私如きに認識阻害が探知されている方には扱いにくいかと思われますよ?」
「チッ!」
(今はまだ)という言葉は飲み込んでおく。
魔力は二十歳の成人式頃まで成長すると言われている。十六歳の等級鑑定は暫定であり、二十歳の等級鑑定が確定診断となるのはそのためだ。
その「いつか」を、鈴のような声が叩き割る。
「私、興味ないものに全然やる気が湧かなくて……ねえ、あんたなら使える?」コテンと首を傾ける。
「はあ……一応アボット家なので。全ては流石に無理だと思いますが」
「じゃあこっからここまで、私の代わりにトライしてみない?」
「は!?」
ハンナの無表情の仮面が剥がれ、ぽかんと口が開く。
「ねえ、アボットってどうやって雇えばいいの? 王家じゃないとダメ? 私、15歳になったら四貴家の養女になることが決まってるの。それでもダメかしら?」
「は!? 人間だったのですか!? しかもバベルの貴族? 四貴家!?」
「意味わかんない。どっからどう見ても人間でしょうが」
肩をすくめ、「全部パクるとさすがにバレるかな……何回かに分けてコンビニでコピーしてくるか……」と、ハンナには理解できない言葉をブツブツ言いながら少女が円環の書籍をくるくる回す。
「――あの」
声をかけると、ん?と少女が腕組みをしたまま顔を向ける。
その幼さと顔に似合わない偉そうな態度に、思わず吹き出してしまった。
眉根を寄せる少女に、慌てて咳払いをし、ハンナは跪く。そして、その瞳を見上げた。
「失礼しました。私はハンナ・アボット。失礼ながら御名をお尋ねしてよろしいでしょうか?」
「私? ソーレ・ドゥフトだけど」
ドゥフト……。ハンナは記憶を手繰る。
確か、夭逝したノーマン家の長女が嫁いだ家名だ。
闇属性。夭逝。魔属大継承。ノーマン家。
すべてがつながり、ハンナは誰にも見せたことのない笑顔で笑った。
今まで一度も覚えたことのない感情が、胸の奥をざわめかせる。
この傲岸不遜極まりない少女と生きられるのなら――
花に生まれ変わる前に、私は笑える。
「――ソーレ・ドゥフト様。アボットの名において、この命を御名に捧げると誓います」




