24.5【幕間】フォルクスとキラン
「どうして誰も来ないんだ!!」
先日五歳になったキランは、自室のベッドルームで肥満体を揺らし、地団駄を踏んだ。
昼寝から暑さで目覚めたら、部屋に控えているはずの下女たちの姿が一人も見えない。屋敷は静まり返っていた。
喉がカラカラだ。冷たいジュースと果物が欲しい。汗に濡れた身体も気持ち悪い。
南国の夜は遅い。夕刻であっても、まだ昼のように明るかった。
シナン諸島の本島、クムダ島は連日異常な暑さが続き、窓越しに見えるブーゲンビリアの花でさえ萎れている。大量のセミだけが脳を揺らすように鳴いていた。
「誰もおらんのかっ!」
ああ、腹が立つ。最初に現れた奴は誰であっても血が出るまでムチで叩いてやるからな!
止まらない汗と、やり場のない憤りに、キランの呼吸が荒くなる。
年老いた王の第九妾妃の王子――それがキランだった。
すでに上には十人もの兄がおり、期待も注目もされない末の男児。
王室の末端として最小限の体裁を整えられた館で、下女に傅かれ、生まれた時から甘やかされる日々に揺蕩っていた。
芸妓だった母は、少女のような年齢でキランを産むと、日夜宴を繰り返すばかりで息子は顧みない。
まるで生きている金券のように扱った。金を引き出す道具。叱られたこともないが、抱きしめられたこともない。
欲するだけ与えられる甘い果実や果実水、菓子で育ったキランは、肉体と歪んだ自尊心をひたすら肥大化させ、今ではすっかり周りの者たちの手を焼かせていた。
これではいけないのではないか――と思うことがないわけではない。
だがこの国は暑すぎて、難しいことを五秒も考え続けられないのだ。
暑い国でも哲学者は生まれるのだろうか。無理だろうな、とキランは常々思っていた。
「豚ァ! 出てこい!!」
キランが下女を呼ぶ。
豚肉を食べないシナン諸島連邦で「豚」はこの上ない蔑称だった。
先月からキラン付きになった、田舎から出てきたばかりだという垢抜けない下女は、豚と言われるたびに微かに顔を歪ませた。
殴られても蹴られても反応すらせず、辞めていくだけの下女たちに飽きていたキランにとって、その反応は久しぶりの“当たり”だった。
ワクワクする玩具を与えられたような気分になる。
その時、窓の外からのんびりとしたバベル語が響いた。
「――豚? 自己紹介か?」
窓から、白髪と蒼い眼を持つ異国の精悍な軍人が覗き込んでいた。
驚きと恐怖でキランが飛び上がる。
ここは三階だ。しかも、その窓にバルコニーはない。
泥棒か幽鬼か。どちらにしろ、良いものであるはずがない。
「あー、バベル語わかるか? 言葉、わかる?」
男は軽々と窓から侵入し、こちらへ近づいてくる。
その足元の靴を見て、キランがムッとする。出てけ、と言いたい。
だが恐怖が勝ち、言葉は喉で引っかかって出てこない。血の気が引き、冷え切った手足をどうにか動かして、キランは壁際へ逃げた。
「ストップ! 今通訳できる奴が登って来るから。動くな。わかる?」
わざとらしい笑顔と大袈裟な身振りで男が指示する。
威風堂々とした佇まいと無駄のない所作に、父王の護衛たちが脳裏をよぎったキランは、『父上……』とシナン語で呟いた。
涙を落とす幼子を見て、男がワシワシと自分の白髪をかきむしる。
「何が“館には誰もいない”だ。こんなガキ1人置いてくなんて、あのくそアマ、やっぱりクソだったな」
そう言うと男は腰につけたボトルから水を飲んだ。
喉が渇ききっていたキランは、その様子にゴクンと生唾を飲みこむ。
その音に気づいた男が、ボトルと少年の顔を見比べて笑った。
「飲むか? 水だが」
コクコクと猛スピードで頷き、走り寄ったキランにボトルが渡される。
キランはどっかりとその場に座り込み、喉を通る水の美味しさに夢中になった。
こんな美味しいもの、飲んだことがない!
この体験が功を奏して、後にキランは水にハマって減量に大成功するのだが――この時は知る由もない。
キランのベッドルームには天蓋付きの低く大きなベッドの他に、カラフルな藺草を円形に編んだマットが敷かれていた。
窓辺にはクワズイモの鉢植えが並び、天井では静かにファンが回っている。
ドア脇にはバーカウンターまで設置された、豪奢な部屋だった。
心地よさそうな空間ではある。だが――子供の寝室ではない。
男は部屋を見回し、小さくため息をついた。
客間のように冷たく、個性のない調度。そこに、この屋敷の女主人の浅薄さと冷たさが滲んでいる気がした。
どろりと、心中に苦い水が広がったような思いがする。
「……俺はフォルクス。バベルの人間だ。見ての通り、軍人だ」
フォルクスの穏やかな声音に、口元を濡らしたキランが反応する。
長い脚で胡座をかき、頬杖をつく男は、非力な少年など瞬殺できるであろう太い腕と、床に置いた刀の恐ろしさを持ちながらも、それをかき消すほど人好きのする笑顔を浮かべていた。
「シナン語が使える人間がもうすぐ到着する。言葉はわからないと思うが、暇だから話すぞ。喋りでもしてないと、暑くてどうかなりそうなんだ!」
バベル王国騎士団の黒い隊服の上着を脱ぎつつ、フォルクスは言う。
「今このシナン王国では未知の熱病が流行り、既に国民の1/3が死亡している。王室の人間も罹患を免れず、感染経路となっている使用人たちに急遽暇を取らせる法ができた。そして、第3位までの王位継承者を一時的に同盟国であるバベル王国へ疎開させるという決定も下された。だから俺たちは君を迎えに来たんだ」
聞き取れはした。だが、突然すぎる衝撃に頭が追いつかない。
キランはぽかんとフォルクスを見つめた。
第3位まで……?
俺の継承順位は第10位のはずだ。どういうことなんだ。
「……君の母親は、自分は疎開できないと知るとどこかへ消えたよ。キラン・クムダ・シナン。この災禍で第2王子に繰り上がった、君を置いてな。度し難い女だ……王室の女は苦手だ! 俺の姉さんも王室奉公に上がったと思ったら“死んだ”とだけ連絡がきてなあ。どこぞの王室女の地雷でも踏んだのか……。殺しても死なない自信はあったんだがなあ」
フォルクスの呟きは、欠けていたパズルのピースのように胸に落ちた。
この数日、肌の奥に貼りついていた違和感が、霧散していく。
五歳という幼さがそうさせたのか。元来、悩み続けない性質だったのか。あるいは両方かもしれない。
キランの頭に浮かんだのは――「自由だ!」という、圧倒的な開放感だった。
豚は俺だ。
家畜のように繋がれ、ただ肥えさせられ、飼い主の私腹を肥やすためだけに生きる存在。
それが今日、突然終わったのだということが、幼子にも理解できた。
「――行こう、フォルクス」
立ち上がったキランはバベル語で言った。
小さいながらパンパンに肥った身体は、かつてないほど凛とした王族の気品に満ちていた。
「なんだ、バベル語話せるのか。早く言えよ」
照れたようにキランの頭をこづくフォルクスに、少年はニヤリと笑う。
こんなふうに触れられるのも初めてだ。これから、こんな“初めて”がいくつも待っているのだろう。
「この国は土足厳禁でな。土足で寝室に入られて少々ムカついてたんだが……許す」
少年は歩き出した。
窓の外には夕陽が差していた。けれどそれは、まるで朝日のようだと思った。
――その感覚を、彼は生涯忘れなかった。
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