18.ダンスフロアへ
ヒューがレッドカーペットを浮かせ、その上をノーマン公爵一家が会場へと歩みを進めている。その真下で、カザンもまた芝の庭を抜け、会場へと向かっていた。
騎士団の隊服に身を包んだ長身の王子の姿に気づいた人々は、はっと息を呑み、慌てて道を空ける。
――そうか。
今宵のパーティは、この二人のためのものだったのだ。
颯爽と歩く王子の姿を見送りながら、人々は確信する。
赤銅色の髪に、トパーズ色の瞳。
凛々しく引き締まったその横顔に、多くの女性たちが思わずため息をついた。
招待客の中には、娘や孫とカザンが結ばれるよう祈っていた者もいた。
それを無碍に断られ、苦々しい思いを抱えていた者も少なくない。
だが――
先ほどのタイヨウのダンスによって浄化された精神でこの光景を見てしまえば、文句を言う者など存在しようはずもなかった。
王位継承者でありながら救国の道を選んだ、最年少騎士団長の王子。
突如現れ、数々の奇跡を人々にもたらした天使。
なんという、調和のとれた二人であることか。
公爵家の娘と王子。
本来ならば、その関係に浮かぶはずの言葉は別のものだ。
だが人々の脳裏に浮かんだのは――
『降嫁』であった。
天から遣わされた奇跡の天使が、この国に愛と豊穣をもたらすため、王子のもとへ降り立つ。
国はますます栄え、子々孫々は、この奇跡の余韻を永きにわたり享受するだろう。
ランタンの幻想的な光の下で、今まさに出逢おうとしている二人に、人々は新たな神話を見出し、幸福に酔いしれた。
そして、今宵この場に立ち会えた幸運を、神に感謝する。
楽団が奏でる「劇的な出会い」を演出する曲がクライマックスを迎えた、その時。
レッドカーペットは、無数のランタンが浮かぶ野外ダンスホールへと到着した。
カザンが、三メートル上空に浮かぶレッドカーペットの終端へと駆け寄る。
ドラマは、最高潮を迎えていた。
ノーマン公爵にエスコートされたタイヨウが、
眼下のカザンを見つめ、アメジスト色の瞳を大きく見開く。
――時が、止まった。
互いの瞳には、互いしか映っていなかった。
その瞬間、カザンはすべてを忘れた。
責任も、権力も、懊悩も。
それらはすべて過去となり、ただ一つの未来だけが、はっきりと見えた。
次の刹那。
カザンは片膝をつき、左胸に手を置いた。
もはや、本能だけが彼の身体を動かしていた。
『心臓を捧げる』
バベル王国において、その最敬礼は――
プロポーズを意味する。
遅れて到着したギャラリーが、声にならないどよめきを漏らす。
それほどに、美しい光景だった。
多くの人間が両手を口に当て、
声が溢れぬよう必死に堪えている。
最敬礼を解き、立ち上がったカザンは、
優しさを湛えた瞳でタイヨウを受け止めようと、両手を差し出した。
少女が口を開きかけた、その瞬間。
すべてを飲み込んだ楽団が、一拍、演奏を止める。
この流れを理解できずして何がプロか――
コンサートマスターと指揮者が、静かに頷き合った。
すべてが、整っていた。
だが。
会場中の注目を一身に浴び、極度に緊張したタイヨウは、小首を傾げ、少し上擦った声で尋ねた。
「……ど、どちら様ですか?」
その瞬間――
会場を走った動揺は、もはや激震であった。
愛娘に言い寄る者は皆・即・斬と心に決めていたノーマン公爵も、
アイドルに結婚はまだ早いと眉をひそめていたマーレ夫人も、
姉上至上主義過激派のレオン・クリス兄弟ですら、いたたまれなさに目を逸らす。
その空気を敏感に察したタイヨウが、慌てて言葉を重ねる。
「もしかして、どこかでお会いしたことありましたか!? 有名な方でしたか!? すみません!! 僕、全然覚えてなくて……!」
そして――
三メートル上空から、介助もなく軽やかに飛び降りると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさいッッ!!」
それは、先ほどのプロポーズへの返事なのだろうか……?
そう、一同が胸の痛みに打ちのめされた、その時。
あからさまに軽薄な男の声が、会場に響き渡った。
『ギャハハッ!! なら、俺んとこに嫁に来るか? タイヨウとやら』
貴賓席から声を上げていたのは、南国風の衣装を纏った男だった。
褐色の肌。長い黒髪。
毛先と瞳は、海のような青。
胸元を大きくはだけ、眩いネックレスを揺らしながら立ち上がると、下に侍っていた長大な蛇が、するりと肩へ這い上がる。
整った顔立ちではある。
だが、派手な身なりと相まって、どうにも軽薄さが滲み出ていた。
彼の言葉はシナン語であり、意味のわからない者も多かった。
それでも――
自国の誇る王子が侮られ、奇跡の天使が軽んじられていることだけは、誰の目にも明らかだった。
「キラン! 君はどうしてそう……! ノーマン家の皆さん、お集まりの皆さん、申し訳ない。タイヨウさん、目の前のその男はカザン・ミカド・バベル。僕の弟だよ」
穏やかなバベル語で制したのは、
眼鏡をかけた茶髪の地味な男だった。
背はそれほど高くない。
三回見て、ようやく顔を覚えられる――
そう影で言われている、バベル王国第一王子である。
「レイ・アーシリア・バベル殿下、お越しいただきありがとうございます」
妻と子らを抱え、レッドカーペットから飛び降りたノーマン公爵一家が膝をつき、礼をする。
タイヨウもそれに倣い、カーテシーで挨拶した。
慌てて膝をつこうとする招待客たちに、第一王子は慌てて両手を振る。
「あー!! やめてください!! 今日はプライベートですし、ご挨拶だけして帰るつもりだったくらいなんで!! 立って、ほら会場に入りましょ。皆さんも、一回あちらの貴賓席に行きませんか?」
「ほら、キランも!」
そう促され、異国風の男は面倒くさそうに貴賓席のテントへと向かう。その様子から、バベル語も理解できているらしいことが知れた。
男が退くと同時に、カザンが喜色満面でレイ王子に駆け寄る。
「レイ兄、来てたのか! 兄上が来ると知っていれば……」
「知ってれば、どうだっていうんだ? 大方、内容も見ずにいつものように招待状を燃やしたんだろう。君から返事がないとノーマン公爵から連絡をいただいてね。国賓とのバランスを取るため、急遽僕が来ることになったんだ」
一呼吸置き、穏やかに続ける。
「こういうことは、きちんとしなくてはいけないよ、カザン。君ももう成人するのだから」
二人は、寄り添うように歩いていく。
頭ひとつ分背の高い、威風堂々たる軍人の弟。
その隣で、上質な夜会服を着てなお地味な兄が、優しく諭している。
弟の全身からは、抑えきれぬ親愛の情が溢れていた。
もし尻尾があったなら、振りちぎれんばかりに振っていただろう。
まるで――
動物園の大型獣と、
その誇り高き獣が唯一心を許す飼育員。
そんな、不思議な光景だった。




