16.アイドル爆誕
かつて柳田国男は言った。
『元来女性は、男性にはない感動しやすい習性、精緻なる感受性をもつがゆえに、巫女的な妹の力を得て、生きる力、幸福への道を伝えることができる』
この場合の「妹」とは、血縁や年少者を指す言葉ではない。より広い意味での“女性性”そのものを指す概念である。
彼の言葉は、古来より日本において女性が霊的な力を持つ存在とされ、その力を恃みにされてきた、という文化的事実を語っているに過ぎない。
だが現代において、この一節はしばしば別の文脈で引用される。
――すなわち、アイドルを語る言葉として。
もしハンナがこれを聞いたなら、きっと皮肉な笑みを浮かべてこう言っただろう。
「タイヨウ様、中身は男子ですけど。その場合はどうなるんです?」
答えは、今夜示される。
ノーマン公爵家の国立公園レベルの広大な庭に招待客が揃うと、楽団はしっとりとした調べへと曲調を変えた。
ノーマン家の登場を告げる合図だ。
波音と溶け合う静かなセレナーデとは裏腹に、観客の期待は目に見えて膨れ上がっていく。
庭に面した大きなテラスに、まずノーマン公爵夫妻が姿を現す。大貴族然とした佇まいに、会場は大きな拍手で応えた。
続いて長男レオンが、幼い弟クリスを抱いて登場する。その微笑ましい光景に、拍手はさらに温かみを帯びる。
そして――
ノーマン公爵夫妻と子供たちは、笑顔のまま左右へと分かれ、まるで花道をつくるように退いた。
次の瞬間、テラス全体の照明が落ちる。
中央にだけ、数方向から強い光が集められた。
放たれた大窓には、厚い黒地のカーテンが降りる。
無数の宝石が縫い込まれたそれは、スポットライトを反射し、夜空に星を散らしたように煌めいた。
いよいよだ。
期待に息を呑む会場で、楽隊がぴたりと演奏を止める。
「――その時の会場の熱気と言ったら……」
後に、バベル王国随一の戯曲作家ジェイクスピアは語っている。
「千人もの人間が、たった一人の少女の登場を待つ。その期待、興奮、高揚――あらゆる感情のエネルギーが、彼女を“人ならざる存在”へと押し上げていく。私は知ったのです。神が天使を作るのではない。人が、天使を作るのだと。だから私は、その存在をこう呼ぶようになりました。ーーー『神の偶像』と」
会場のざわめきは抑えきれず、上流階級の紳士淑女たちは、無意識のうちに足踏みを始めていた。
ドンッ、ドンッ、ドンッ――
地響きのような期待が重なった、その直後。
一瞬、すべての照明が消えた。
闇。
次の刹那、光が灯る。
そこにいた。
黒い衣装をまとった少女が、いつの間にか設置された高台の上で、右手を高く掲げて立っていた。
人々は、息を呑む。
誰も見たことのない装いだった。
軍服を思わせる中世的なトップス、フリルを重ねたミニスカート、編み上げのヒールブーツ。
背後には、ドレープレースで仕立てられた長いトレーン。
艶やかな黒髪には宝石が編み込まれ、黒い羽と黒薔薇のヘッドドレスが右の頭頂を飾る。
そして何より――
光の中に立つその美貌は、まさしく天使そのものだった。
だが、それだけではない。
その瞳には強い意志があり、人々を守らんとする慈愛が、隠しきれず宿っていた。
「暁けの女神だ……」
誰かが漏らしたその一言は、波紋のように会場を駆け巡る。
戦乱の時代、希望の象徴とされた女神の名。
その名は、この国の血を、誇りを、記憶を――強く揺り動かす。
「黒天使、万歳!!!」
天を破るような歓声が、夜空を震わせた。
◆◆◆
その少し前。
テラスに出る直前まで、マーレはタイヨウを捕まえて離さなかった。
「いい? タイヨウちゃん。ママたちが全員舞台に出たら、照明が一度中央以外落ちるの。そこが合図よ」
ぎゅっと両手を握り、まるで舞台監督のような目で娘を見据える。
「その瞬間、貴女は中央に出る。スポットライトが当たるから、立ち止まって、ゆっくり顔を上げて」
息継ぎもせずに続ける。
「『皆さまお集まりいただきありがとうございます。ソーレ・タイヨウ・ノーマンです。今夜は楽しんでいってくださいませ』――ここは笑顔で、でも控えめに。完璧よ」
マーレは満足そうにうなずいた。
「その後、パパがエスコートしてダンスホールへ。そこでファーストダンスを申し入れる殿方を待つの。申し込みがあればもちろん受けていいし、いなければパパかレオン。心配しなくていいわ」
――流れは、すべて決められている。
「母様……」
珍しく、タイヨウが口を挟んだ。
「流れは理解しましたが……その、少しお洋服が派手すぎませんか……?」
マーレの目が、かっと見開かれる。
「まだそんなことを言ってるの!? 今夜は、貴女が主役なの!!」
勢いよく振り返り、控えていた人物に声をかける。
「ねえ、マダム・バタフライ!!」
メイクアップを終え、最後の確認に控えていたマダム・バタフライとスタッフたちが一斉にうなずいた。
「天使を引き立てるために派手すぎる、などという概念は存在しません」
「お似合いです」
「いえ、無敵です」
「最強です」
スタッフ総出で次々と畳みかけられ、タイヨウは言葉を失う。
助けを求めるようにハンナを見ると、ハンナは無表情のまま、ゆっくり首を振った。
――諦めてください。
そう言われている気がした。
「さあ、我々の出番だ」
ノーマン公爵が朗らかに笑い、マーレの手を取る。
「タイヨウちゃん、会場で待ってるよ」
「じゃあ行ってきますわね!
ああもう、可愛い! 本当に可愛い!! わたくしの娘!!」
最後まで叫びながら、マーレは去っていった。
その直後、幼い弟クリスを抱いたレオンが駆け寄ってくる。
「姉上!」
「ダァ!」
「はい、なんでしょうレオンさん、クリスさん」
自然と微笑みがこぼれる。
「僕たちは、姉上が大好きです!」
「ダァイ!」
「困ったときは、必ず助けますから!」
約束ですよ、と言うように、レオンは強くうなずいた。
やがて二人もテラスの向こうへ消えていく。
残されたのは、タイヨウとハンナだけだった。
遠くから、会場のざわめきが聞こえる。
期待が膨れ、足踏みが始まり、地面が微かに揺れている。
(――僕は、ソーレさんじゃないのに)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(ニセモノの僕のために、こんなにも……)
皆を騙しているような気がした。
世界中の扉を叩いて、「ごめんなさい」と謝って回りたい衝動に駆られる。
その瞬間だった。
――バンッ。
鈍い音。
予定されていたはずのスポットライトが、突如として消えた。
「……?」
タイヨウとハンナが、同時に顔を上げる。
闇。
次の瞬間、ハンナが即座に目を閉じた。
その瞬間だった。
――バンッ。
鈍い音。
予定されていたはずのスポットライトが、突如として消えた。
「……?」
タイヨウとハンナが、同時に顔を上げる。
闇。
次の瞬間、ハンナが即座に目を閉じた。
「索敵、展開します」
空気が張り詰める。
「足踏みの振動で、両翼の照明が倒れました。
2時方向に10、10時方向に10。
このままでは、火災の恐れがあります」
その報告を聞いた瞬間、タイヨウの迷いが消えた。
「ハンナさん」
そう呼びながら、彼はクロスのかかった大テーブルへと跳び乗る。
――演出か、計画か、役割か。
そんなものは、この瞬間、どうでもよかった。
守らなければならないものが、目の前にある。




