90. 競ナレース 〈裏〉
「やりやがった……ッ!」
ナリヒラは目を見開いた。
先頭を走る7番の馬が第2コーナーに入ったところで異変は起きた。
その直前、突然、遠くの水平線から大きな高波が押し寄せてくるのが見えた。その波は急速に迫り、まるで大自然の力が目の前で炸裂するかのようにナーガ達にぶつかっていき、甲板上の人々の視線を一瞬で釘付けにする。
「アアッ! しかし、第2コーナーを回るあたりで異変が起こります。急に荒波が……! なんということだ。波が崩れるように集団が散っていきます。シナンの海には魔物がいるのか。各馬が震えるその中で、2番の馬が徐々にスピードを上げ始めました! 2番強い、2番強い。高波に怯むことなく、勇者のように己の身体一つで斬り進んでいきます!」
情熱的なアナウンスを行いながら、目の前と複数のモニターを確認したアナウンサーが素早く観月宮席に視線を送った。水系高能力者達が集まる席に。
(サザーランドのおっさん、無能力者って聞いてたけどすげぇな!)
ナリヒラは戦慄した。
観客の中で、高能力者を除けば彼の他に今何が起きたのか瞬時に理解できている者はいないだろう。
約3メートルという大きな身体を持つ屈強なナーガ達を揺らした荒波が、船に届いていないという不自然な状況に。
混沌とした状況でアナウンサーは冷静に素早く情報を整理し、表面的に伝える情報と伝えないものを切り分けた。彼の目は鋭く、戦況を読み解く力が際立っていた。
それに気づいたのはナリヒラだけではない。セミマルと麟五も、サザーランドの迅速な対応と冷静さに感嘆し、瞬く間に信頼を深めていく。
視界の中ではゲラン公が1着と予想した2番馬が駆け上がっていく。
「奴ら、波だけじゃない。風も使っている。2番だけ追い風だ」
戦況を分析した麟五が黒面布を素早く外した。その瞳には紅の星、選ばれた者だけに与えられる至高の護芒星が輝く。
「どうする! リンゴ君!」
ナリヒラがじっとりと汗ばむ掌を握りしめた。
「セミマル、以後カグヤ殿の警備はお前1人とする」
「ハッ!」
麟五は視線を海上とモニターを行き来させ、最前列にナリヒラの袖を掴んで駆け降りていった。
「時間がない。俺があいつらの風操作を無効化する。お前はあいつらの波に抵抗しろ」
「な、波!?」
この膨大な海の波をどうしろというのか。
青ざめた少年の頭を麟五が叩く。
そして首根を掴んで海面を見せた。各馬は今、船の裏手を走っている。ナリヒラの視界ではすぐ左の王のボックス前の海上にあるスタートラインを示した白い光の壁しか見えない。
「よく見ろ!!」
それでも上官の指示に視力を波に集中させると「何もねぇ!」とナリヒラは目を見開いて叫んだ。
そう、そこに作為的な力は何もなかった。
「そうだ、導き出されるのは?」
「奴らは2番と3番の身体のすぐ下の波しか操作してない!」
「コーナーを回ってきたらお前はそれを逆転させろ。ありったけの力を注ぎ込め。力が尽きたら俺が……」
「大丈夫! 母ちゃんのストックがある!」
ナリヒラは左腕に巻きつけた魔宝石の数珠を揺らした。
宿年の大敵、ゲラン公との直接対決だ。
絶対に何か仕掛けてくる。
そう考えたホタルは2級という自身の能力が許す限り、文字通り命を削ってストック魔石を作り続けた。
その量、およそ3万。
特級能力者3名分という破格の魔力が込められた魔石が誇らしげに輝く。
手薄になったホタルのために、タイヨウを通じてノーマン夫人から秘蔵の水系魔石が届いた。彼女の魔力は純度が高く、非常に価値が高い。魔石は対価なくやり取りされるものではないし、本来特級の魔力は国に捧げるべきだとされている。それを押し除けて贈られた魔宝石を、母が拝むように手で包み込んで泣いていた姿が過ぎる。
「ぜってぇ、ぶっ潰す!!」
ナリヒラが眦を喫した瞬間、先頭を駆ける2番の馬がコーナーを回ってきた。
目を凝らせば見える。
その金がかった特徴的な身体のすぐ下の波が、まるで意思を持った生き物のように追い波になっている様子が。
おかげでイメージがしやすい。
ナリヒラは波を調伏するように渾身の魔力を放った。横で麟五も風を操っているはずだが、2番の馬はすぐに失速しない。ここまで追い波で一周分余力を溜めてきたのだ。だがこのまま逆波と逆風をかけ続ければいずれ落ちるだろう。
安堵したのも束の間、ナリヒラはコーナーに入ってきた3番の姿を見て驚愕した。
「リンゴ君!!」
傍目にはわからないだろう。
だが観月宮が選んだナーガは今や波と風で失速しているのではなかった。
「あいつ、血が抜かれてるよ!!」ナリヒラが幾重にも張られた悪意に青ざめた。
如何なる術によるものか、3番のナーガの体内の血が今この瞬間も少しずつ減り続けていた。
「治しゃいい」麟五は左手で複雑な印を切ると、3番馬を指差した。たちまちナーガの目の色が蘇る。
「そして第3コーナー、ここで3番だーッ!!! 突如3番の馬が、まるで風を切るように、引き離されていた中団から前方へと進んでいきます。3番の馬がさらに加速! まさに驚異的なスピードです! 」
サザーランドの声が響き渡ると、観客席から歓声が上がった。
だが麟五の顔に笑みはない。
圧倒的な力を振るう彼は無数の敵に対して冷静かつ的確な対処を行い、その存在感はまさに戦場の主であった。隣に立つナリヒラはその光景に圧倒され、ひたすらに畏怖の念を抱いていた。
「まさかの、まさかの展開! ここで2番が失速していく!! 第2コーナーの勇者が落ちる、落ちる、たちまち中団に飲み込まれていきます。勇者散る! なんというレースだ!」
サザーランドの声でナリヒラは“仕事”の手を止めた。
数珠は最後の球まで色を失っていた。自身の魔力も含めれば、4万弱を使用したことになる。
息は上がり、汗が額から流れ落ちていたが、麟五を窺えば涼しい顔でレースを見ているだけだった。戦場の苛烈さとリーダーシップの偉大さを身をもって実感し、隣に立つ男に対する深い敬意を刻み込んで深く息を吐いた。
俺達の3番は船の裏手を走っている。
元々走力がずば抜けていた3番だ。まるで一頭だけ、凡人に混ざった特級能力者のように。
奴なら1着で戻ってくるはずだ。
特級の力を見せてくれ。
「2番手に上がった3番の馬が、先頭を走る7番の馬に迫ります。7番の馬も全力で逃げようとしますが、3番の馬の勢いはそれを上回ります!」
だろうな、と気を失いかけながらナリヒラは笑った。もう視線も定まらないが、レオンとリリガルドのいる方向をチラリと見た。
(凡馬にはここまでだ。後は頼んだ)
トン、と軽やかな音を立ててナリヒラの隣に降りてきたカグヤ妃が、倒れた少年の身体をそっと支えた。
左方を伺えば、やはりゲラン公も最前席まで降りてきていた。
喧騒の中、宿敵同士の目が交わる。まるで世界から音が消え去り、時間が止まったかのような静寂が訪れた。彼らの視線が鋭く絡み合い、長年の因縁と宿命が、言葉なき対話としてその場に漂った。
防音呪術により、声は届かない。
カグヤ妃は紅唇を読ませるように、アーシリア語でゆっくりと言った。
『――主、背中が煤けとりゃんすえ?』
ゲラン公の顔が歪んだ。
それを見て明るい太陽のような笑顔で破顔したカグヤ妃に、麟五が怪訝な顔をする。
「なんて?」
「なんでもないでありんす」
セミマルが涙を拭いながら息子を受け取り、健闘を讃えるようにその背を叩いた。
「ゴールまであとわずか! 3番の馬がさらに差を広げ、観客席からは大歓声が沸き起こります。フィニッシュラインを駆け抜けるその瞬間、3番の馬が見事に1着でゴールイン! 2分間の伝説が今ここに刻まれました!」
王は笑顔でタイヨウとサザーランドに手を振っている。
(呑気なもんじゃ。後で賭けのことを聞いたらどんな顔をするかの)
大役を終えたサザーランドとタイヨウは晴れやかな顔で締めに入っていた。
「結果は3番、7番、1番の順です! 3番の馬の驚異的な追い上げとスピードに、会場全体が熱狂しています。なんというレースでしょうか! この劇的な展開に、心が鷲掴みにされました! いかがでしたか? タイヨウ様」
「本当に素晴らしいレースでした。今後もこの3番の馬がどんな走りを見せるのか、ますます目が離せませんね。いえ、もう名前で呼びましょう。ウィンドグローブ。初代優勝馬の名前は一生忘れられません」
サザーランドが次の言葉を口にしようとした瞬間、彼らの背後でどぉっ!という音を立てて水柱が上がった。
3秒間でそれぞれの特級能力者が動いた。
10:30:03
まず傾ぎ始めた実況席ごとタイヨウが船内に転移。観月宮、およびゲラン領の特級能力者、そしてノーマン領の守護も担当するセバスがそれぞれのボックス席で強固な防御陣を展開した。
10:30:04
国王アグニ王、シュリ王女、ヴォルフガング翁を連れてアボット家当主ジョルジュが王城に帰還。
10:30:05
タイヨウが船内から海上に再転移。キランとリリガルドを伴い、ノーマン家ボックスに移動。
『総員、退避!』キランが海を睨みつけながらシナン語で背後の部下達に声を張った。
『タイヨウ! 俺んちに甲板の奴らを転移させろ!』
タイヨウが浮揚し、散らばる人数の端と端をとらえようとする様子に侍従達が青褪める。
『若!! なりませぬ!』
『タイヨウ、ナーガもだ! 俺は後から行く! お前らは早よ行け!』
果てしなく広がる青い海で、耳をつんざく轟音とともに水柱が天高く噴き上がる。その瞬間、巨大な背鰭が現れ、まるで刀の刃のように鋭く光った。次の瞬間、海が二つに裂け、波の壁が左右に分かれる。
その裂け目から現れたのは、全長数十メートルにも及ぶ巨大なシーサーペント。
『……リヴァイアサンだ!!』
叫ぶキランの眼が恐怖に揺れている。
灰色の鱗に覆われたその巨体は青白く輝き、過去数百年、挑んでは無念に散っていった術者達による無数の古代の紋様が刻まれていた。瞳は燃えるような赤で、まるで全てを見通すかのように鋭く輝いている。
リヴァイアサンはその巨大な頭部を高々と持ち上げ、咆哮を上げた。その声はいまや嵐のように荒れ狂う波をさらに激しくし、周囲の空気を震わせた。
まるで神話の中の一場面が現実となったかのように、リヴァイアサンはその威厳と恐怖をもって海を支配した。




