戦後の川西航空機
戦後の川西航空機
戦中に強風改や紫電改、二式飛行艇を製作した川西航空機は、夢の中よりも生産機数が多く、大分稼いだと思われる。
その実績からか利益を生かしてか、戦後まもなく川西はターボプロップ水上戦闘機を完成させた。
ターボプロップエンジンは戦中には形になっており、それを搭載した航空機の開発は終戦前より行われていた。
ターボプロップ水上戦闘機は、川西のやりたかった事を詰め込んだ水上戦闘機といえた。
二重反転プロペラを始め、格納できるフロートなど川西の集大成といえた。
胴体下のフロートは胴体に密着する形で格納され、翼下のフロートは翼端に持っていく事で空気抵抗を低減していた。
最高速度はプロペラ機の最高水準であり、運動性も高く格闘性能も良好だった。
武装は、従来の30ミリ機銃より弾頭重量が重く威力の高い、五式三十粍固定機銃を4挺装備しており、B29等の爆撃機やP51等の高性能レシプロ戦闘機に対処できる性能があった。
終戦前までなら活躍できた事だろう。
時代はジェット機の時代になっていた。
当然海軍の採用数は少なく、開発費の元が取れたとは思えなかった。
その後、川西が出してきたのはエンテ型のジェット水上戦闘機だった。
音速は超えないまでも、水上機としては当時の最高速度を出したようだ。
また、海水が吸気口に入り難いように改良が続けられた。
吸気口や機体形状の改良で、降下時ではあるが音速が超えられる機体になった。
ただ、誘導噴進弾などの爆装は、装着できない機体となってしまっていた。
改良が進み、ついに音速ジェット水上戦闘機にまでなった。
爆装ができないため、当然ながら需要は無いと思われる。
さらにこの頃イギリスで、垂直離着陸機が開発されてしまう。
川西は、次は超音速ジェット水上戦闘機だと思っていたかもしれないが、垂直離着陸機を前に方針を変えたようだ。
垂直離着陸機に影響を受けたのか、競合他社と被らない陸上戦闘機として、短距離離着陸が可能な超音速ジェット戦闘機を生み出す事になった。
まず音速ジェット水上戦闘機の、離着水装備を陸上用に改修してみるところから始まり、普通の超音速ジェット戦闘機が誕生する。
機体自体は、波打つ海面を滑走していた事から頑強に造られており、主脚もそれなりのものを装備したため荒れた飛行場でも離着陸は可能だった。
それでもこのままでは競合他社に埋もれてしまうので、短距離離着陸機を目指し改良を加えていく事になった。
前翼を大きくし揚力を増す事で、短距離離着陸機にはなったが速度が落ちてしまう等々ありつつも、短距離離着陸超音速ジェット戦闘機が完成する。
川西はまたしても、水上戦闘機から需要のある陸上戦闘機を生み出す事になった。
開発費は大丈夫だったのかと思ったが、海軍が関与していた機体開発にはちゃんと予算が出ていて、あとは戦略爆撃機の稼ぎ等から補填していたのではと考えられる。
ターボプロップエンジンの6発超大型飛行艇。
それが戦略爆撃機として採用されていたようだ。
通常の陸上基地で運用する戦略爆撃機の開発が遅れていたため、川西が開発していた二式飛行艇の大型発展版であるターボプロップ6基搭載の超大型飛行艇を、海軍が戦略爆撃機の繋ぎとして採用していたのだ。
元々多目的用途で使うことを前提に作られており、B29並に気密性が高く高高度での居住性能も良いことから戦略爆撃機として問題なく運用できたようだ。
B29の与圧キャビンは、日本本土に不時着したB29を徹底的に分解解析した事で知る事ができていた。
機密性の高い与圧室の再現は、終戦前には実現するに至る。
超大型飛行艇も、当然この与圧室を採用していた。
超大型飛行艇の戦略爆撃機としての運用は、本来の戦略爆撃機が完成するまでの繋ぎの予定であったが、海洋領域が広がった日本では使いやすい機体だったため予定外に長く使うことになった。
改良され続け予想外に長く運用され、川西に思わぬ利益をもたらした。
それが、独自に水上戦闘機開発を続けられた一因だったかもしれない。
結果として水上戦闘機開発が、短距離離着陸機開発に繋がり、現在も川西を戦闘機開発企業として成り立たせる切っ掛けになったといえよう。
なんだか似たような機体が北欧にあるが、川西の短距離離着陸超音速ジェット戦闘機は水上戦闘機から進化した機体なので、完全に別物である。
お読みいただきありがとうございました。
最終話は、戦後川西にSTOL機を作って欲しかっただけのお話でしたw
想定では、終戦前から索敵・哨戒・その他もろもろの目的で、超大型飛行艇が開発されていたとしています。航続距離も長大なものになったため、とりあえず海軍が繋ぎの戦略爆撃機として採用したとしました。
誤字報告ありがとうございました。令和7年11月5日修正しました。




