第15話 ただの魔法使いだよ
「――なんだ、貴様は」
いつの間にか戻ってきたクァイエンが、ジンの隣に立ち睨みつけた。その鋭い目は彼を値踏みするかのように冷たく、周囲の空気が一気に張り詰める。
「あぁ。あんたがマスター・クァイエンか。俺はジンって言うんだ。この春からマスターをやることになった。ヨロシクな」
ジンが笑顔を浮かべて握手を求める。けれどクァイエンは渋い顔のまま、その手を無視した。
「貴様のような者は、見た事も聞いたことも無いが。このウィステリア・テイルでマスター職に就けるということは多少ならざる実績が必要なはずだが。……ここに来る前は何処で何をしていた?」
尋問のように重苦しい物言いに、ジンの飄々とした表情が一瞬困ったように固まる。それでもすぐに薄笑いを浮かべ直し、肩を竦めて答えた。
「そうだな……言うなれば、学者かな」
(学者? ……とてもそうは見えないけれど)
私が心の中で思ったのと同じなのか、クァイエンも眉間にシワを寄せて問い返した。
「学者? 貴様のような知性の欠片も無さそうな若造がか? ハッ。くだらん。ならば、専攻は何かね?」
「そうだな……」
ジンは少し考え込むように顎に手を当てたあと、あっさりと答えた。
「魔法学だ」
その返答に場が一瞬静まり返る。
――そして。
「ぶ、ブァハハハ!! 魔法学!?」
口を大きく開け、立派に蓄えた顎鬚を揺らしながらクァイエンが豪快に笑い出した。それに釣られて周りに居た彼の生徒たちも嘲笑を隠しきれずに笑い声を上げる。
「何がおかしい?」
ジンが真面目な顔で問い返す。その飄々とした態度は、嘲笑の渦中にあっても一切揺るがない。
「貴様、冗談のセンスは多少あるようだな。魔法など子供のおとぎ話に出て来るカビの生えた遺産だぞ。この魔鉱兵器の時代にそんな物を研究してどうする。そもそも、魔法など学問とも呼べん」
クァイエンは笑いながらジンの肩をバンバンと叩く。その威圧感に満ちた態度は、明らかにジンを見下している。
アイネは床に座ったまま、その様子を心配そうに見つめていた。
(あのバカ、クァイエンにあの態度……どうなっても知らないわよ。)
そんな私の心配をよそに、ジンは軽い調子で口を開く。
「――ちなみに、あんたは魔鉱兵器学の出身だったな。さっき論文を読ませてもらった、去年書かれた最新のやつ。あれは良く書けてたよ」
一瞬、場が静まり返った。豪快に笑っていたクァイエンの表情から、笑みがピタリと消える。
「生意気な事を言うな。貴様のような若造にあの論文が理解できるものか」
ずいと顔を近づけるクァイエン。その巨体から発せられる威圧感に周囲の空気が凍りつく。
「マナの微細結晶が魔力場内で相互反応を引き起こし、エーテル粒子の対消滅に伴って発生するスペクトル放射。これをエルダー力学の四次元位相解析を用いて観測し、フェルダリウム転移法によって魔力エネルギーに変換しようという話だろ。グローツ力場の可逆性を応用した着眼点は確かに鋭い」
驚くほど流暢に論文の内容を話すジン。クァイエンの生徒たちは、驚きの表情を隠せない。
(た、確かにあの論文はそんな内容だったわね。でも、難解すぎてマスター職でも殆ど理解でる人が居なかったって聞いたけど……)
「……ほぉ。多少は学んでおるようだな。関心だな、若造。」
鼻息を荒くするクァイエンに対して、ジンはあっけらかんと答える。
「……けど、あの論文。間違ってるぞ」
「――は?」
再び、クァイエンの顔に怒りが混ざる。
「そもそも、前提が間違ってる。あんたが酔狂のように論文の中で引用しまくってた“オルディナス理論"だったか。あれが間違ってる。」
その挑発的な言葉に、ついにクァイエンが激昂した。
「貴様! オルディナス理論は現代魔鉱学の礎になる絶対の真理だぞ! それに異を唱えるなど、学問を志す者として冗談にもならんぞ!!」
クァイエンは怒りに任せてジンの首元を掴み上げる。
「グェ。んなこと言ってもなぁ。あれ書いたとき酔っぱらってたし……」
ジンは揺さぶられながらも目を逸らし、クァイエンを挑発するかのような軽口を叩く。だが、その態度がさらにクァイエンの怒りに火を注いだ。
巨体を使ってジンを持ち上げると、近くのテーブルへ向かって軽々と放り投げる。食器やグラスが床に飛び散り、砕ける音が会場に響き渡った。
『キャー』
『な、何だ、喧嘩か?』
会場から悲鳴とどよめきが上がる。
「や、やめてください! これ以上は怪我じゃすまなくなります!」
慌てたアイネが両手を広げてクァイエンの前に立ちふさがる。さっきまで自分がどんな目に合わされていたのも忘れたのか、泣きそうな目で床に転がるジンの方を心配そうに横目で見る。
その小さな体を目にしても、クァイエンは怒りの炎を鎮める気配を見せなかった。
「……貴様、そもそも貴様がこのような場所におるからだろうが! ウィステリアの面汚しが、さっさと失せぬと叩き潰すぞ!!」
そう言って今度はアイネの胸倉を掴んで締め上げるクァイエン。
「――っつ、ぐっ!」
本気で首を絞められているのか、アイネの顔が苦悶に歪んでクァイエンの巨大な拳を必死に両手で掴んだ。
(ちょっと、これは流石に――!)
まわりもまずいと思ったのか、互いに顔を見合わせる。けれど、大罪人を庇って自らテイル屈指の実力者にたてつく者など誰もいなかった。
――たった一人を除いて。
「おいおい。うちの生徒になにするんだ。酔っぱらいもたいがいにしとけよ」
クァイエンの腕をがっしりと掴んだのは、ジンだった。
顔にはいつもの締まりのない笑顔を浮かべているが、その語気には明らかな苛立ちが含まれている。
「貴様こそ、先程から、いったいワシを誰だと思って口を聞いている!!」
そんなジンを見て怒号を上げるクァイエン。だが、その威圧的な声が響く中、ジンは小さく息を吸い、表情を一変させた。
「あんたこそ……」
その声には、普段の飄々とした態度からは想像できない冷たい鋭さが宿っていた。
「いい歳して、先輩に対する態度がなってないぞ」
ジンの目が光を放つように鋭くなり、その視線がクァイエンを射抜いた。さっきまで真っ赤だったクァイエンの顔が一瞬で青ざめ、握りしめていたアイネの胸倉をそっと解いた。
「……貴様、何者だ?」
声を震わせながらクァイエンが問いかける。その瞬間、周囲に重い沈黙が降りた。
「俺か?」
ジンは肩をすくめ、どこか余裕のある微笑みを浮かべる。
「ただの――魔法使いだよ」
全く笑いどころの分からない冗談を口にすると、軽く手をひらひらと振ってみせる。
会場全体が呆気に取られて言葉も出ないでいると……
「――ッ、クチュン」
突然アイネのくしゃみが響き渡る。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて手をバタバタして謝るアイネ。その様子を見て、ジンは可笑しそうに笑顔を浮かべた。
「おっと、大事な生徒が風邪引いたら大変だな。行くぞ」
「え、え、でも。私まだお返事を……」
戸惑うアイネを無視して、ジンは彼女の手を引いて会場の外へ向かって歩き出した。
その後――クァイエンは黙ってその場を去り、係員たちが散らかったテーブルの片付けを始める。
呆気に取られていた観衆も、やがて「私は無関係だ」と言わんばかりにそそくさとその場を離れていった。
(何なの、あいつ。……"魔法使い"?)
胸に言いようのない違和感を覚えたのは、私だけだろうか。




