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「総理!」
四十代の男性であるA氏が話しかけた。
「当然ご承知のことと思いますが、アメリカが事実上死刑を廃止し、今や先進国で死刑を続けているのは日本だけとなりました。この現状を日本のトップとして恥じ、今こそ行動するときではないですか?」
「いいえ。そうは思いません」
Xが答えた。
A氏は続けた。
「なぜです? 国連をはじめ、多くの国やNGOなど、あらゆる方面から死刑が存続していることに批判が寄せられ、廃止するよう促されています。死刑は明らかに現在の国際常識から外れています」
「常識とおっしゃいますけれども、周りがやっているとか、いないとかで、判断することを私は好みません。少数のほうが正しく、多数のほうが間違っている場合もあります。私自身、女性であるがゆえ、常識という名のさまざまな差別や偏見に遭ってきましたしね」
彼女、Xは、日本初の女性の総理大臣だ。左派の民主リベラル党が政権を獲り、誕生した。A氏が述べたように、死刑のイメージが強かったアメリカのすべての州で、死刑が廃止もしくは停止状態になったタイミングと重なり、日本国内の死刑に反対する人々は今しかないとばかりに団結し、Xと話し合う場を取りつけて、廃止を迫った。
この直前まで、説得する必要などなく、Xは自ら進んで死刑の廃止を明言するのではという楽観論もあったが、ご覧の通り、その期待は見事に打ち砕かれたのだった。
「そんなこと言って、世論を気にしているのではないですか?」
いらだったB氏が話しだした。六十代の男性だ。
「世論調査で死刑について尋ねると、決まって反対よりも賛成のほうが相当多くなる。だから廃止を決行すれば国民の反感を買って、支持率が急降下すると。ですがね……」
Xが、B氏が言い終える前にしゃべり始めた。
「おっしゃりたいことはわかっています。現在死刑を廃止している国々でも、元は死刑賛成の声のほうが多数だった。なので、批判はされるにしても、政権運営に支障をきたすまでにはならない。違いますか?」
「……そうだが」
「ですから支持率を意識しての判断ではありません。そもそも私は政策を行ううえで、どれだけ評価されているかをほとんど考慮に入れません。申し上げましたように、少数のほうが正しい場合もあると思っていますので」
「それじゃあ民主主義の否定じゃないのか?」
「いいえ。もちろん主権者である国民の皆さんの声に耳を傾けますが、数の論理はおかしいと言っているのです。そして数の論理でいっても、死刑賛成に軍配が上がるわけですから」
「では、このことはご存知ですか?」
代わって、三十代女性のC氏が話しかけた。
「死刑は犯罪の抑止にはならない。死刑をなくしても、殺人の件数などはほとんど変わらないんです」
「知っていますとも。ですから死刑を廃止した国々はそれを維持できているんですよね。治安が悪化すれば、やっぱり必要だとなりますので。ただ、私は死刑を抑止目的では考えていません。日本では人を殺さない限り死刑になることはなく、殺人という許されない罪に釣り合う罰は死刑以外にはあり得ない、だから必要だと考えます」
「しかしですよ、殺人を犯した人のなかには、死刑になりたいからやったんだと口にする人もいます。そうなると、死刑が殺人を誘発する材料になっていると言えるのではないですか?」
「確かに、『自殺をしようとしたけれど、できなかったから、死刑になりたくて』などと殺人の動機を語る人がいますね。ですが、私はその言い分に疑念を抱いています。うまくいかないことがあり、自暴自棄になり、『死刑になっても構わない』と思って、そうした行動に出た可能性はあると思いますけれども、『死刑になりたかったから』というのは、犯行を行ってしまい、もう引き返せない状況で、そういった気持ちだったと思い込もうとしての発言ではないのかと。つまり、犯行前は、死刑になるかもしれないし、それでもいいという意識もあるものの、本音は死刑になんかなりたくないのです。だって、おかしいと思いませんか? 死刑は、裁判でそう判決が下されても、いつ執行されるかわからない。それこそ、いずれは廃止されるかもしれない。少し考えれば、自分の希望が入る余地はまったくないし、本当に死ねるのかすら怪しいと気づくはずです。言って良い発言ではないとわかっていますが敢えて口にさせていただくと、自殺は怖くてできないといっても、本気で考えたり探したりすれば、苦しまずに実行する方法など、なんとかやりようは見つかるはずです。ですから、死刑が殺人の誘発には、実際にはなっていないと思います」
「素晴らしいですね、Xさん。さすが女性で初めて首相になられただけあって、並の政治家ではない。非の打ち所のないお考えで、感服いたします」
今度はD氏だ。五十代の女性で、Xと近い年齢でもある。
「Xさん。殺人は善くないですよね? 許されないことですよね?」
「もちろんです」
「それならば、死刑だって殺人ではないですか。許されない行いをした人と同じことをするのですか? 矛盾していませんか?」
「矛盾はしていません。あなたのようなことをおっしゃる人はよくおられますが、私には理解できない。一があるから、二はあるのです。一なくして二はあり得ないですし、だからこそ一と二は性質が異なるものです。殺人があるから死刑があるのであって、殺人がなければ死刑もない。死刑が先にくることはなく、どうしたら同じと言えるのか不思議でなりません。だいたい、死刑以外に殺人の罪を償える方法があるのか、うかがいたいです。例えは悪いでしょうけれども、お金を借りる際、きちんと約束や礼儀を踏まえても、利子のぶん、多く返します。もし盗んだならば、それ以上のお金を相手に渡すべきでしょう。人を殺した場合、死刑でもイーブンまでにしかならない。遺族が民事で訴えて、多額の賠償金を得られるとしても、死刑になる加害者にお金は意味がないものですし、被害者当人はすでに死んでいるわけで、実質的に加害者と被害者は同じ状態にまでしかならないですよね。そう考えればはっきりわかる通り、死刑でも不十分なはずなのに、廃止して、いったい何で埋め合わせができるというのですか? 被害者の命を軽く考え過ぎではないですか? 加害者が更生することが罪を償うことだなんて言わないでください。被害者はそれを望んでおらず、むしろ腹立たしいかもしれないのですから」
「冤罪はいかがお考えになりますか?」
二十代の女性のE氏が問いかけた。
「死刑に関して、何よりも懸念されるのは冤罪の問題です。他の刑罰でも許されませんが、死刑は取り返しがつきません。この場合に執行された死刑は、殺人とは違うという言い分を貫くことは無理があると思いますけれども、その点について、どうお答えいただけますか?」
「そうですね。それはあってはならないし、そのケースでは国が殺人を犯したと言えると思います。万が一にも起こらないように考えないといけない。しかし、だからといって死刑を廃止するということにはなりません」
「なぜですか? 人間に百パーセントはあり得ない。廃止しなければ、冤罪による死刑は起こりますよ」
「ですから方法を考えると言っているではありませんか。それに、なくしてしまえば、確実に犯行を犯した者まで裁けなくなるのですよ」
「死刑以外の刑罰を与えればいいじゃないですか。総理、『疑わしきは罰せず』という言葉がありますね。司法において、いろはの『い』にあたると言える言葉です。なぜその言葉が重んじられるのかというと、人間には誰かを罰することで事を収めたい心理があるとわかっているからでしょう。それでいて、なおも冤罪は起きています。無理なんですよ、どう頑張っても、人間から冤罪をなくすのは。世間の誰もが関心を持つような殺人事件が発生して、容疑者の心象が悪くて、他に犯人がいるとは思えないが、決定的な証拠はないという場合なんて、絶対に死刑の判決が下るはずです。後でやっぱりその人が犯人だったと判明するかもしれないですし、遺族や世間からのものすごいプレッシャーのなか、無罪にするのは不可能でしょう」
「わかりました。法律やさまざまな分野の有識者を集めて、冤罪を起こさないようにする策を導きだす会議を行うと約束いたしましょう。今思いついたのですけれども、死刑が執行され、もしそれが冤罪だとわかった場合、その判決にした裁判官や裁判員を重罰に処するなどとすれば、確実に犯人でなければ死刑判決を下さないようになるのではないでしょうか。またそうなれば、誰も死刑にしなかった人たちを責めはしないでしょう。あくまで一案ですが」
「ところであなた、先ほど死刑をお金の損得勘定で表現しましたね。不謹慎ではないですか?」
F氏が言った。七十代の女性だ。
「好ましくないのは承知のうえでの例え話です。そう断ったではありませんか」
「いいえ。そこにあなたの価値観が体現されているんです。いいですか、殺害された方の遺族が犯人に死刑を望むのは仕方のないことです。私自身、死刑反対を訴えておきながら、遺族の立場に置かれたら、死刑を期待してしまうかもしれない。ですが、いくら死刑判決が出て、刑が執行されても、遺族の心は晴れないんです。当然ですよね。死んでしまった大切な家族は戻ってこないのですから。しかも多くの場合、犯人への怒りなど負の感情は大きくなるばかりで、それをぶつけるところもない。ずっと苦しむだけです。ならば、誰の何のための死刑でしょう。その遺族の心を少しでも癒やす方法として、加害者と対話するというのがあるんです。加害者は単なる悪い人間ではありません。誰が、好き好んで世間から非難され、重い刑罰を受けたいと思うでしょう。彼らがそういうことをしてしまうのは、幼少期にひどい虐待やいじめに遭うなどして、暴力的な感情を抑えられないようになってしまったからなのです。そうした加害者の背景、苦しみや、事件について犯行当時や現在、どう思っていたか、いるかなどを知ることで、遺族は完全でなくても心の整理ができて、前に進もうという気にもなっていくんです。罰からは何も生まれないのですよ」
「なるほど。いいでしょう。遺族が望むのであれば、できる限り加害者と対話できるようにもいたしましょう。しかし、死刑で心が晴れなくても、死刑がなければもっと心の傷が深くなる遺族もいらっしゃるのではないですか? また、加害者と対話しても心の晴れない方もいれば、死刑によって区切りをつけて、自分の人生を歩みだせる方もいらっしゃらないとは限りません。結局のところ、あなた、いえ、あなた方全員が一番おっしゃりたいのはおそらく、どんな人をも許すのが大事だということなのだと思います。許すことは確かに立派で素晴らしい行為です。被害に遭われた方が許すというのであれば、私がとやかく言う問題ではないかもしれません。ですが殺人の場合、被害者は死んでしまっているわけで、気持ちを訊くことはできないのです。そうである以上、たとえ遺族が死刑を望まないとおっしゃっても、私はその言葉を尊重できないと考えます。ですから、遺族の心のケアはもちろん必要ですが、遺族がどうだから死刑をなくすんだということにはなりません」
F氏は落胆した様子で、それ以上しゃべろうとはしなかった。
そこで一時休憩となった。死刑反対派の人々はXから離れ、今後の協議をするために別の部屋に集まった。
「それにしても、なんと頭の固い」
「ああ言えばこう言う、だな」
「あれでもリベラルな政党の人間か?」
「まったく」
「どうします? これから」
「粘り強く説得するしかないか」
「そうですね。諦めずにこちらからいろいろ意見を言っているうち、考えが変わるかもしれない。頑張れば、きっとわかってくれますよ」
「無駄ですよ」
三十代の男性であるG氏が口を開いた。
「無駄?」
人々は一斉にG氏に視線を向けた。
「そうです。彼女は党内では保守派ですし、過去、右に近い政党に所属していたこともあります。彼女がどういう人物か事前に調べたんですけれど、学生時代等これまで、政治家になるだけあってリーダーやまとめ役になることが多かったようですが、当時を知る人たちは、彼女の考えや行動にあまり一貫性は感じなかった、何を考えているのかよくわからない人だ、などと言っていました。つまり、そのとき都合の良さそうなほうへ動く、政治家らしい政治家なんですよ。彼女が女性初の総理大臣になれたのは、優秀だからでもなんでもなく、世渡りが上手だったからにほかならない。なんだかんだ口にしていましたけれども、要は死刑を廃止するよりも現状のままでいるほうが自分にプラスだと踏んでいるんでしょう。いくらこっちが真面目に議論を投げかけても、結論は決まっているのだから、この後どれだけさらなる説得を試みても無駄ってもんです」
「では、死刑廃止は諦めろと言うのですか?」
「いえ。彼女が死刑を廃止するほうがプラスだと思えるよう、死刑反対の国民を増やすといった努力をするんです」
「それじゃあ今までと何も変わらないじゃないか」
「確かに。でも仕方がない、ああいう人なんですから。そういうことで、今日はもう引き下がりましょう。時間を浪費するだけですからね」
「くそ~」
彼らは落ち込み、少しして部屋から出てきた。そして、四十代女性のH氏がXに告げた。
「お忙しいなか、ありがとうございました。そちらの考えを理解することができましたし、今日のところはこれで終わりにさせていただきます」
「そうですか? 残念です。皆さんともっと議論や意見交換をしたかったのに」
「しらじらしい」
反対派の誰かが言った。
「それでは、失礼いたします」
悪くなった空気を変えるようにH氏は笑顔でそう述べ、深く頭を下げた。
彼らはその場を離れかけた。そこへ、一人の外国人男性が急ぎ足で向かってきた。