未練と嫉妬
夢で見た光景を元に、話を書いてみました。
突然、声を掛けられた。
私は帰宅ラッシュで賑わう駅のコンビニにいた。缶ビールを鞄の中に忍ばせていた時だった。遂にこの時が来たかと、半ば諦め、半ば抑えきれない怒りを鎮めようとして、立ったまま目を閉じ殻に閉じこもっていた。
「久しぶりだな」
どうやら咎められている訳では無いらしい。顔を向けると、どこかで知った顔があった。爽やかで自信に満ち溢れている。私とは正反対の位置にいる人の表情だ。
「俺だよ、俺」
そうは言っても私には友人はおろか、知り合いすらも少ない。一応、仕事と呼べるものに携わってはいるものの、一日に話をするのは大抵、二、三人だ。誰とも口を利かない日すらもある。誰とでも簡単に繋がることのできる現代は、私には過ぎたる利便の時代だ。
「忘れたか?高校の同じクラスの―」
私は「ああ」と相槌を打ち、脳の奥底で沈んでいた彼の名前と顔を引き上げた。何せ彼と話をした機会と言えば、新学期に浮足立つクラスでの自己紹介と、英語の授業での義務的な英会話の練習だけだった。
その程度の仲で高校を卒業後してからも覚えておいてくれとは、些かに図々しい気もする。私も記憶力には自信があったが、立場が逆であったなら第一声はまず、相手を伺う言葉を選んでいただろう。
「本当に久しぶりだ」私は親しさを装う。
「思い出してくれたか」
「まあ」思い出すほどの事は無く、すぐに歯切れの悪い返事をしてしまう。
「仕事か?」彼は私の鞄に視線を送る。
「ああ。結局、今日も家に持ち帰ることになったよ」まさか中身を見せてくれとは言わないだろうか。
「大変だな」
「そっちは?仕事か?」この会話を社交儀礼と呼ぶのは、まっとうな社会人には失礼だろう。
「いいや、違うよ。お前は誘われなかったのか?」
「なんの話だ」
「クラスの同窓会だよ。三十になる年の記念ってやつだ」
私が済む賃貸の郵便受けに葉書きもなければ、連絡も無かった。おそらくは実家にも届いていなかっただろうし、むしろ来れば私は驚いていただろう。所詮、クラスではその程度の立ち位置でしかなかった。
「話が来てはいたんだが、このところ忙しくて、行けないだろうと思って不参加にした」
私は大仰に肩をすくめ苦笑する。数少ない友人は嘘が下手だと、私を笑う。
「何だよ、冷たいんだな」
「そうじゃない。本当に忙しいんだ」
まとまった休みなど、ここ数年は取っていない。むしろ仕事が絶えることに恐怖を抱き、旅行などはともかく、両親にすらも顔を見せずにいた。三十という年を近くに迎えた私には、恐怖すらも好都合で口煩い両親から逃げ回る理由に成り得た。
「折角、再開できた訳だし、来ないか。別に一人くらい増えても平気だと思うぜ」
頭の片隅には、鞄の中で水滴を纏う缶ビールがあった。
彼の提案は私には好都合だった。彼を利用すれば、今の状況からは簡単に逃げ出せるだろう。ケチな犯罪で捕まって警察に説教を受けるよりも、居酒屋の片隅で時間を潰している方がよっぽど有意義だ。
「じゃあ、好意に甘えようか」この際、向こう側の気持ちは考えないことにした。
「そうこなくっちゃな」
彼と一緒にコンビニを出ると、確かに私と同じ年くらいの集団が改札の外に集まっていているのが見えた。皆、これから起きる楽しい時間が待ちきれない様子だった。私を見て態度を変える者などいない。そもそも眼中に無いのだろう。
盗んだ缶ビールは、スマートフォンに視線を落として歩く青年のトートバッグに入れておいた。
私は居酒屋を貸し切って行われる盛大な宴会の、最も端の席に座っていた。酒は人並みには飲めるので、酔ってしまえば時間の流れは速いはずだったが当てが外れた。
早々にジョッキを空にした同級生二人に絡まれていた。彼女たちもまた学生時代から、なんら変化は少ないのだろうが私の記憶には薄かった。
「趣味はあるの?」
「昔のゲームを買い漁っていて」
「昔って?どれくらい?」
「小学生の頃に遊べなかったゲーム。実物を中古品で買っている」
私の家は取り分けて貧しい訳でもなく、少年時代のそこそこの我儘を、両親は面白く無い顔をしながら受け入れてくれたが、やはり制限はあった。子供が勉強をしないのは、大人にとって何時の時代でも悩ましいのだろう。
「別に買い漁らなくても、今ならネットで配信しているでしょ」
彼女の言う通りだった。私が遊びたかったゲーム機のソフトウェアは、人気作ばかりで故に最新型のゲーム機を通して遊べるように配信されている。
ネットを嫌っているわけではないが、ただ実物が欲しかった。
「でも、分かる気がする。子供の時って、お小遣いの中でやり繰りしないといけないから、どうしても欲しいものが買えないんだよね」
「で、大人になって自分で稼げるようになると爆発するんだよね」
「分かるわー。あたしも、ライブに行ってばっかりだもん」
違うのだと思う。私が昔遊んだゲームソフトを買い漁っているのは、金銭的な余裕があるからではない。では何なのだと問い詰められると、それも分からない。
「気を利かせて偶に実家に帰ると、結婚はしないのかって五月蠅いんだもんね」
「結婚って言えばさ―」
新しい会話は私には無縁だったが、気にはなる内容だった。誰もが避けられない話題ではあるが、大いに沸く酒の肴でもある。
「三組の田中って、もう三人目らしいよ」
「早っ。結婚も早かったよね。しかも、お金持ちかぁ」
「あんたは結婚の予定はどうなの?」
「したいんだけど、彼のお母さんがさー」
勝手に盛り上がる方々に聞き耳を立てる。人は責任を取らない時こそ、大いに楽しめる。
「そう言えばさ、あんたの親友は、今日は仕事?」
声を掛けられたのは少し離れた場所に座る、茶色の大きい瞳の同級生の女性だった。耳が隠れる程の髪は明るい茶色に染められてある。メイクも濃く見えるが、私としては薄い方が好みだった。
「ああ、―のこと?」
心臓が跳ね上がった。本当のことを言えば、その名前すらも綺麗さっぱり忘れていたが、聞いただけで、抱えたままどうすることもなかった思いが蘇り、私の胸を容赦なく握りしめる。そんなはずは無いのだが、視線を落として確認してしまう。
「どうしても外せない仕事があるみたい。みんなによろしくって言ってたよ」
「最近、会ったりしてる?」
「会うも何も、この間、結婚したよ。私もちゃんとご祝儀を払いましたとも」
さらに胸が締め付けられた。
彼女の発した名前は、学生時代に好きだった同級生の名前だった。
運動部に所属していた彼女の魅力は眩しいほどの笑顔だった。決して私にだけ振りまいたものでは無かっただろう。私以外にも見惚れる生徒は多かったと聞いている。
「まじかー」
「俺、あの子のこと好きだったんだ」
男性陣が口々に続く。
「あー、やっぱり」親友だった子が言う。
「あいつのことが好きだった奴は、俺以外にも沢山いたよ」
正直に言って、この場から離れたかったが、相反する考えが私を縛り付ける。私に水を向けられる可能性は限りなく低いと踏みつつも、しかして、私は表情を押し殺しながら会話に耳を傾けてしまっている。
「モテてたんだねえ」
「惜しかったねえ、男子諸君。―は高校生の時は彼氏いなかったんだよ」
「うわー、マジか」男性陣が笑って天を仰いだ。
「どうして誰も、あたしに告ってくれなかったのぉー」
女子の嘆きに笑い声が巻き起こる。話は締めくくられ、皆思い思いに話を始めた。私は誰の会話に混じることもなかったが、安堵を強く感じていた。
宴もたけなわになると、幹事の一人が立ち上がった。どうやら二次会の場所に移動するらしい。私は彼に少し多めの御礼を渡すと店を後にした。
電車に乗ると、車窓から居酒屋を出発した一団が見えた。
私はネクタイに視線を落としている。誰も私の事など注目するはずがないのに、神経質にも形が不格好ではないかと、しきりに確認している。鏡があれば一日中だってネクタイを直していたに違いない。
私は巨大な芸術館にいた。
演劇などが行われる舞台も抱えた、著名な建築家による作品で、これから結婚式が行われる予定だった。実際に芸術館で結婚式が行われるのかは知らない。
よくもまあ、結婚式の招待状を送りつけたものだと憤慨し、よくもまあ、のこのことやって来たものだと自嘲する。
私自身、これは夢であると分かっているくせにだ。
夢という物は不思議なものだ。初めて来た場所なのに、予め決められていたかのように、驚かず、迷わず、疑いもしない。果たして現実では劇場で結婚式が行われるのか、見当もつかない。
誰の結婚式なのかというのは分かっていた。
放送があって、階段に立ちはだかっていたスーツ姿の係員が去ると、数えきれないほどの人々が劇場へと続く階段を上る。私の知り合いは一人としていない。意思を持った巨大な流れに身を任せていると、巨大なホールに到着した。
参加者は手元の招待状を見ながら、自分の席に着く。私も例外ではない。柔らかなクッションに腰を落とす。私は誰とも会話せずに落ち着きと中身の無い会話に耳を傾ける。
人々の耳元で行われる密やかな会話というのは、潮騒にも似ていると思う。波があり、意外にも心地が良く、大きな波が迫ると飲み込まれ消える。人の祖先が海から上がってきたという話なのだから、当然の事なのかもしれない。
「誰の結婚式なのか分かってるんでしょ」
居酒屋にいた茶色の大きな瞳の同級生だった。髪色は明るかったが化粧は控えめで、だが男性の私には、そちらの方が好みだった。彩られた笑顔もまた本心から親友の新たな旅立ちを祝おうとしている、そんな風に見えた。
「分かってる」
「どんな気持ち?」
「さあ。素直に嬉しいよ」とぼけて肩を竦めた。
嘘だった。嬉しさは微塵もない。では何も無いのかと問われると、それも嘘になる。
舞台の幕が引かれると、台上に花婿が現れ、拍手が沸く。花婿は強烈なスポットライトを浴びていて表情は分からない。悲痛な面持ちでいてくれれば私としては喜ばしい。
今か今かと花嫁の登場を待つ観客たちに、盛大なファンファーレが鳴らされて、音が潮を引くように去って行く。地球は海洋が七割で、人類も七割が体液だ。共通点は多い。周知の事実で何か論文が書けるかもしれない。
ホールの座席を二分する中央の長い花道に視線を送る。
「ほら、来たよ」
私は振り向かない。前を向いて待っていると、バージンロードを歩く純白のドレスの背中が見えた。腕を組んで隣を歩くのは父親か。
私が好きだった女性は今日までの思いと、これからの希望を抱いて歩を進めているのだろう。だが正面に回って、彼女の顔を見ようとは思わない。
どんな表情であったとしても私は認めない。そんな気がしている。
ふと、耳に届いていたホールの騒めきが遠くなっていることに気付く。頭が重く、視界に占める暗闇の部分が増え始めた。瞼を閉じると意識は帰って行く。
暗闇の中、意識が戻ってきた私は天井を眺めている。
戻ってきたとは不思議だが、しかし、それ以外の言葉も思いつかない。
夢と意識の境界線は曖昧だが、自由に超えることは出来ない。続きが見たいと願っても、いや願うほどに引き戻される。眠るという簡単な方法をもってしても、安易に夢を見ることは許されない。中々に辿り着けない歯がゆさは、まさに夢そのものだ。
何故、あんな夢を見たのか。
居酒屋で好きだった女性の話を聞いたのは間違いない。
普通の夢ならば、新しいステージに進む彼女に素直に拍手を送り、僅かばかりの失恋の痛みと共に目覚めるだけだ。
夢の中で、私が抱えていた気持ちは何か。
あの夢に嬉しさは微塵も無かった。
ベッドから起き上がり、テレビとゲーム機に電源を入れる。真っ暗な部屋をテレビの眩しさが照らし、私は目を細くする。
メーカーのロゴが現れて、今となってはチープな8ビットのメロディと共に荒いポリゴンのオープニング映像が流れる。ボタンを連打すると、映像が中断しタイトル画面へと移行する。カーソルを動かすのも迷いはない。セーブデータを選択し、冒険を再開する。
私の脳裏に小学生の頃の記憶がよみがえる。
当時、友人は買ってもらったばかりの新品のゲームを自慢するために、私を家に呼んだ。彼がコントローラーを握って遊ぶ横で、私はぽっかりと口を開けて眺めていた記憶が今も忘れられずにいる。
そうだ、私は忘れられないでいる。
棚を見る。買い漁ったゲームソフトたちは収められ、遊ばれる時を待っている。
あれらは過去に囚われている私の象徴だ。
コントローラーを床に置いた。
テレビ画面の中でキャラクターが動きを止め、敵キャラクターがぶつかる。キャラクターがライフを失いゲームオーバーになる。暗転した画面に悲壮感漂うキャラクターの後ろ姿が現れる。
ゲーム機の電源スイッチを押す。部屋が暗闇に包まれる。
夢に感じたのは嫉妬だ。私は学生時代に好きだった女性に嫉妬している。
なんとまあ、傍迷惑な話だろうか。私は自嘲する。過去への未練が経ちきれないばかりか、それを明らかにしてくれた同級生に嫉妬までしてしまうとは情けないにも程がある。
明日、ゲームを手放そう。
そして、何か新しいことに挑戦しよう。
そう思えた夜半過ぎだった。