夏が残した物語
(SIDE:アキラ)
ユキと会ったのは高校一年生の夏だった。遠い国で戦争が始まったというのがニュースで報道されたのを背中に聞きながら、夏祭りに出かけたのが懐かしい。あのころは、戦争なんて、俺たちの日常から、かけ離れたところにあったから。
中学時代の同級生同士で集まったところに、来ていたのがユキだった。白色の浴衣を着て、緊張したように両手を握っていた。長い黒髪はアップヘアにして、おくれ毛が、うなじに触れている。俺は、運命なんて信じない。人間は理性的であるべきだと思う。
「初めまして……。ユキ、です」
その俺が、ひとめぼれなんて、理論で導き出せないモノをするなんて、思ってもみなかった。でも、花火を背負ったユキを見た時、俺は、この世界が祝福したくなるほど美しいものに思えたんだ。
それからは、早かった。中学時代の同級生女子に連絡先を聞いて、何度もメッセージを送った。怖がられないように、慎重に。ユキは、恋人がいたことはなく、勉強漬けの中学時代だったらしい。
高校も女子校だったから、男と話をするのも、苦手だった。だから、すぐにデートに行く、なんてできなかった。俺とユキが再会したのは、花火大会から二か月も経ってからのこと。夏休み明けのテストを直前に控えて、一緒に勉強しようという口実だった。
「やった!」
デート……とは言えないけれど、二人で会えることになって、俺は思わずガッツポーズを決めた。だって、そうだろう? 誰だって、好きな女の子と会えることになったらーーしかも二人きりでーー、そんな風になるだろう?
いつも静かで大人しいって言われる俺だって、そうなっても仕方ないだろう?
喫茶店にきたユキは、夏祭りの時とはまるで違った。
「久しぶり……」
「うん……。今日もかわいいね」
「アキラ君って、女の子にはみんなにそういうの?」
「えっ。違うよ」
「だって、言い慣れてる」
そういって、すこし拗ねるような口元をしたユキは、夏祭りの時よりも、もっと可愛く見えた。
長い髪をおろして、メイクも薄かった。夏祭りのときは、お母さんにやってもらったらしい。でも、図書室の静けさにあうようなナチュラルな化粧が、いっそうユキの可愛さを引き立てていたように思う。
「ユキだけだよ……」
そう呟いたけれど、きっと聞こえてはいなかっただろう。俺の前を歩いて図書館に向かうユキは、大好きな本のにおいを嗅いで嬉しそうだった。
俺は、ユキに会えると分かってから、毎日ファッション雑誌とにらめっこしていた。高校で知り合ったお洒落な友達と、ユニクロとかしまむらに行って、コーディネートしてもらったりもした。
でも、お洒落なんて、俺には分からない。
結局のところ、その友人が3セットくらい、「まともに見える服」を選んでくれて、それをそのまま着まわしている昨今だ。前よりはお洒落に見えているんだから、それでよしとしよう。
それから、毎日図書館で待ち合わせをした。
俺にとっては、ユキの地元の図書館は、すこし遠い。
でも、「周りに勉強を教えてくれる人がいなくて」とか「塾に行きたいけどお金がなくて」とか理由をつけて、土曜日の夕方には必ずユキと会った。
そんな生活が半年も過ぎて、雪がちらつくころ……俺は、ついに告白した。
「……あの……」
「うん……」
「……好き、です」
本当は、もっと沢山、いろんな言葉を考えて来たのに。
俺の口から出てきたのは、そんな一番、幼稚な言葉だった。
言ってしまってから、「もっとカッコよく決めたかった」と思ったけれど、もう遅い。
ユキからの返事を聞く時間は、とても長く感じた。
「私も……好き、です」
その瞬間、世界がまた、パアッと輝いたんだ。
夏祭りのひとめぼれ、図書室で築いた絆、そして、成功した告白。
すべてが、俺たちを祝福しているように思えた。この世界は、俺たちが出逢うためにあるんだとすら思った。
俺は喜びのあまり、ユキを抱き上げて、くるくる回ってしまった。
ユキは、「きゃあ!」と言いながらも、笑い返してくれた。
――幸福だった。
今までは、嘘みたいに、幸福だった。
戦争が飛び火してきたのは、高校三年の夏だった。
十八歳の俺たちも、戦争に行くことになったのだ。
叔父さんや、おじいちゃんや、従兄弟たちが出征しても、それはどこか遠い世界の話の気がしていた。毎日、戦場から届く悲惨なニュースを聞いても、まだリアリティはなかった。
でも、十八歳以上が出征対象になったということは、来年の夏には、俺も出征するかもしれないということだった。そして……ユキも。
「ねえ、アキラ君は、戦争で人を殺せる?」
と、ユキが図書館で聞いてきたことがある。
すでに人はほとんどいなかった。知識人層は、外国に逃げたり、諜報機関で採用されたりしていていたから。
「分からない。ユキは?」
「私は……無理だと思う。だって、その人にも家族がいたんでしょう。友達がいたんでしょう。そんな人のことを……」
殺せないよ、という言葉を、ユキは呑み込んだ。
だって、やらなければ、死ぬのは自分なのだから。
そのころの俺たちは、毎日悩んでいたと思う。普通の高校三年生が悩むのとは、違う。
大学に行く人は減った。大学に行っても、行かなくても、動員されることに変わりはないからだ。だったら、高校を卒業してすぐに就職したほうが、『遺族』に金を残せると考える人も多かった。
「俺たちも、すぐに働くのかな」
「分からないよ。今は、高校を出たら、みんなすぐに戦争に送られるでしょ。働く時間もあるかどうか」
女性たちが戦場に出るようになってから、出生率は、さらに下がった。
そんな時代だから、妊娠した女性は、優遇されるようになった。
出産したら一千万が支給されるようになり、学費も医療費も、すべて無料になった。不妊治療費も一割負担になったし、子どもを守るために、見守りサービスも充実した。
「ユキ、結婚しようよ」
俺の言葉に、ユキは目を丸くした。
図書館にわずかに残っていた知識人も、俺たちの方をみた。
「子どもができれば、ユキは、戦争に行かなくて済むんだよ」
「でも……私たち、まだ高校生だよ」
「そうだね。来年には戦争に行ける年だ。だから……いまのうちに」
ユキは、息をのんだ。俺の口調から、冗談ではないことを悟ったらしい。
「うん……わかった……」
それから半年後、ユキが妊娠した。高校三年生の卒業式直前。
高校を卒業すれば出征届が届く同級生も多い。そんななかでの妊娠に、俺は安堵した。
ユキが生き残るなら、俺はどんな道だって選んでやる。
つわりが酷くて、卒業式に来られなかったユキのために、俺は卒業証書をもっていった。
それからは、しばらくの間、平和な時間がつづいた。
ユキのお腹のなかに赤ん坊がいる限りは、ユキは安全なのだ。育児のためにも、三年間は戦争に行かなくていい。そしてユキも、安堵していた。俺が「育児休業免除」で二年間、兵役を逃れたから。
「ねえ、ユウト君。戦争に行ったって」
「なあ、カノコっていただろ。あいつも戦争に行くことになったって」
俺たちの間で、そんな言葉が飛び交うようになった。
十八歳、十九歳、二十歳の命が、若くして消えていく。
でも、親たちは泣いていなかった。だって、その親たちも、もう死んでいたから。
「この先、どうなるんだろうな」
と、俺は、ユキのお腹をなでながら呟いた。
ユキも、臨月の体を横たえながら、不安そうな顔をしていた。
「十八歳って、昔は守ってもらえる存在だったらしいよ」
「昔って?」
「二年前くらい」
俺はそういって、ユキの胸のなかにもぐりこんだ。
布団をかけて、現実から逃れるように。
「なんで、こうなっちゃったんだろうな」
ユキは答えない。誰にも答えられない。それを知っているのは、もしかしたら、世界には一人もいないのかもしれなかった。大人たちも、えらいひとも、誰も、こんなふうになった理由を知らないのかもしれなかった。
産まれた子どもの名前は、優奈と名付けた。男の子だったら優。女の子だったら優奈。安直かもしれないけれど、優しい子になってほしかった。
たぶん、いま、一番世の中に足りてないものだから。
「……ありがとう、ユキ」
「どういたしまして、アキラ君」
ユキは、長い初産を経て、疲れ切った顔で微笑んだ。
出産で命を落とすこともありますから、と何度も医者には、くぎを刺された。
低年齢で出産することが増えたため、前よりも死産率や母体死亡率は上がったらしい。どれだけ愛し合っていても、死は平等に訪れる。陣痛の来たユキが運ばれていく間中、俺は何度も、愛してる、好きだよ、ずっと一緒だよと叫んでいた。
今、言わなくちゃ、一生伝わらないかもしれない、と思ったから。
馬鹿な俺にも、わかったことがある。
毎日数字で伝えられる死者にも、家族がいたこと。
ユキが、そんなニュースを見て、毎日泣いていること。
そして、
戦争に行った人。
戦争に行かなかった人。
みんなが、不幸になったこと。
戦火は拡大していった。
二つの国の争いは、やがて世界中を巻き込む大戦になった。
日本が参戦してから三年、まだ決着はついていなかった。
正確にいえば、一生、続くのかもしれなかった。
そして、やがてーー。
子どものいる父親たちにも、召集令状が届き始めた。
「いや……!」
その赤い紙が届いた時、ユキは泣きながらそう叫んだ。
「どうして……! どうして、アキラ君が……!」
優奈が生まれて一年目。まだまだ、夜泣きが激しくて、ユキも俺も憔悴していた。
そんななか、届いた召集令状――別名、赤紙。
「泣かないで、ユキ。しょうがないよ」
「おかしいよ! おかしいよ、こんなの!」
「ユキ……」
「私、優奈を生むのに死にそうになったんだよ。育てるの、こんなに大変なんだよ? なのに、どうして、簡単に殺すの!」
ユキはそう言って、しゃがみこんだ。
「行っちゃだめだよ、こんなの。みんなが行かないって言えば、きっと戦争なんてなくなるよ……!」
泣き叫ぶユキをみて、俺は、どうしていいか分からなかった。どんな声掛けをして、どんな風に慰めればいいのか。何一つ分からなかった。
だって、戦争の時の対処法なんて、義務教育で習わないだろう?
好きな人と引き裂かれたときにどうしたらいいかなんて、親は教えないだろう?
涙を流すユキと、呼応するように泣く優奈を前に、ただ、呆然とするしかなかった。
――ユキ、元気ですか。
俺はそう、手紙に書き募る。
戦場に来て、二週間が経った。召集令状が届いたら、二か月間の訓練を経て、戦場に送り出される。ユキはきっと、今頃、また泣いているんだろうな、と思った。
俺の命は、もう尽きるかもしれない。
それでも……それでも、ユキ。
俺は、君に会えたことが嬉しい。
君と話せて、君と子どもを残せたことが嬉しい。
――だから……。
たとえ、俺が死んだとしても、君には笑っていてほしい。
それが無理なお願いだとしても……どうか……幸福に……。
*********************
(SIDE:ユキ)
「どうか……幸せに……」
アキラ君からの手紙は、そこで切れていた。
血痕が残っている理由は、考えないことにした。
だって、まだ、アキラ君が死んだ、とは言われていない。
きっとまだ、どこかで戦っているはず……。
「アキラ君も、誰かを殺したのかな」
戦うということは、そういうことだ。
生き残るということは、誰かの命を犠牲にしたことだ。
ごくり、と唾をのんで、手紙を握る。その手が震えていることに気づいて、怯えてしまった。
遠くにいるアキラ君が、私の知らない人みたいに思えたのだ。
それでも、救いの手は差し伸べられる。
三歳になる優奈が泣き始めて、私の思考は中断されたのだ。
「優奈、どうしたの?」
駆け寄ると、優奈の前で、積み木が崩れていた。
優奈は可愛い子だった。
アキラ君の二重の眼と、私のいつも笑っているような唇を受け継いでくれた。
――こんなに可愛い子は、そういないよ!
――優奈は、世界一かわいいよ!
そういってくれたアキラ君はいないけれど、優奈は、今も目の前にいる。
「こわれちゃったの」
と、優奈は涙ながらに訴えた。
「大丈夫。また一緒にママと作ろう。ね?」
そうだ。積み木の家は、何度でも作り直せるのだから。
壊れたら、崩れたら、もう一度、やり直せばいいだけなのだから。
「ねえ。ママも、センソー、いくの?」
夕食の席で、優奈はそう聞いてきた。
私は息をのんで、優奈をみつめる。優奈は、きょとんとして母親の私をみつめていた。
「カナちゃんのおばちゃんがね、センソー、行くんだって。ママも、行くの?」
「……ママは、まだ、行かないと思う。まだ、ね」
私はそう言って、優奈の前に、麦飯を置く。
戦争に入ってから、海外産の小麦は貴重品になってしまった。
普通の一般市民は、国内産のお米やもち麦を食べるようになった。
「優奈ちゃんを育てないといけないから、まだ、戦争にはいかなくていいんだよ」
「ふうん?」
そう言ってしまってから、どきりとした。優奈は、今年で四歳になる。
三歳までの子どもをもつ親は、兵役免除になる。でも、四歳以上は、兵役免除という話は聞かない。もしかしたら来年には、私は優奈を残して、戦場に旅立っているのかもしれない。
「ママ、どうしたの?」
思わず、優奈を抱きしめていた。
「ママはね、優奈のことが大好きだからね」
「うん、知ってるよ?」
「パパもね、優奈のことが大好きだったからね」
「なんども聞いたよー」
優奈は、くすぐったそうに笑った。そうだ、毎日のように伝えた。
だって、優奈には父親の記憶がないのだから。話をしてあげるのは、母親の私の義務だと思ったから。
「だから、どんなことになっても、絶対に、優奈は愛されていたんだよ」
「えー?」
「それだけは、忘れないでね」
優奈は、きょとんとして私を見つめる。
三歳の子どもには、まだ早すぎる言葉かもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
いつか、二人でいられる時期も終わるかもしれないから。
その日が来る前に、愛情はすべて、伝えなくてはいけないから。
優奈が眠ってから、私はスマートフォンを見つめる。
そこには、トップニュースで芸能人が出征したと書かれていた。
それと同時に、戦地のどこが陥落した、とか、戦地のどこで病気が発生した、とかが描かれている。そのすべての場所が、アキラ君のいる場所じゃなくて安心してしまった。
そんな自分に、幻滅してしまう。
陥落した土地にも、病気が広まっている土地にも、誰かの友達や家族がいるのだ。
それなのに、アキラ君がかかわっていないならいい、と思ってしまえる自分が、ひどい人間に思えた。
前だったら、ここで自分を叱咤激励しただろう。
でも、今は無理だ。アキラ君さえ元気ならいいと思ってしまう。
それが酷いことだとは分かっていても、自分の身近な人の無事を祈ってしまう。
それが、戦争になって、一番に失ったものだった。
私は、もっとニュースを探る。
戦場の写真に、アキラ君が映っていないか……。戦場のニュースに、アキラ君のインタビューが載っていないか……。
毎日の検索が、癖のようになっていた。
隣で、優奈が寝返りを打つ。布団が、はがれたのをみて、掛けなおしてやると、優奈は幸せそうに笑った。
私も微笑んで、そんな優奈を抱きしめる。
優奈はすこし身じろぎをしてから、また寝息を立て始めた。
――アキラ君、今、どこにいるの?
――こんなに可愛い子を置いて、どこに行ってしまったの?
――ねえ、本当に、生きているの? 元気に……しているの?
そんなことを考えるけれど、結論は出るわけがない。
死んだ兵士の数は、正しいものが公表されていない、とSNSが言っていた。
戦意喪失するから、死んでいたとしても、死体も戻さないし、死んだことも伝えないらしい。代わりに、手紙や遺品を渡すことで「察して」もらうのだという。
そんなことは、今の時代には常識だ。
けれど、私は認めたくない。
それを認めたら、アキラ君の手紙が届いた時点で……。
アキラ君は、死んだことになってしまうから。
「……生きている、よね?」
私は窓から見える夜に、声をかける。
「アキラ君、向こうの国で、まだ戦ってるよね?」
夜は返事をしない。ただ、風が窓際のカーテンを揺らすだけだ。
「アキラ君が生きててくれれば、私はそれだけで……」
そう言ってから、私は顔を伏せた。
それ以上の言葉は、告げられなかった。
口にしたら、大声で泣き叫びたくなってしまうから。
一度、泣き叫んでしまったら、壊れてしまう気がしたから。
壊れてしまったら二度と、立ち直れないし、立ち上がれない気がしたから。
立ち上がれなくなったら、誰が優奈を育ててくれるのか。男も女も、減ったこの日本で。
生き残っているのは、要介護の高齢者か、十七歳以下の子どもだけの、この日本で。
私は政治家じゃないから、この国がこの先、どうなるかは分からない。
でも、これだけ人間が減ってしまって、どうやって戦争が終わった後に復興するのかが分からない。
昔の戦争なら、そんなに沢山の人は死ななかったのだ、と社会科の先生が言っていた。
最近の戦争は、兵器の力があがったために、沢山の人が死ぬようになったのだ、と。
だったら、どうして戦争なんてするんだろう。
だったら、どうして戦争なんかに参加したんだろう。
最初は二つの国の戦争だったんだから、参加しなきゃいいじゃないか。
そう思った自分自身に、私はまた、怒りを覚える。
自分たちじゃない他人なら、戦争してもいいと思ってしまっている自分に……。
「アキラ君……」
もう一度、小さな声でつぶやく。
まるで、それは、祈りのようだった。
アキラ君の名前を呼ぶときだけ、自分の輪郭がはっきりする。
こんなふうになってしまった私でも、生きていていい気がするのだ。
優奈が、すぅすぅと、寝息を立てている。
この眠りを守りたい、この平和を守りたい。
子どもたちを守ることだけが、平和につながるのだ。
けれど、そんな思いは、戦争兵器の前には無力だと私は知っている。
どれだけ、祈っても、願っても、かなわないことがある。
そのことを、いまの時代の人は、みんな知っているのだ。誰よりも、深く。
そのニュースが訪れたのは、早朝のことだった。
まだ夜明け前、風鈴が、しずかに鳴っていた。
『大規模な軍事作戦が実行され、多数の犠牲者がーー』
『政府は被害者の総数を割り出していますが、まだ明確にはーー』
そんな言葉が、仰々しく流れていた。
そこは、アキラ君が向かったはずの戦地だった。
「ママー? どうしたのー?」
私の異様な姿に、優奈も起きて来た。
けれど、私には、それに返答する余力はなかった。
「ママ?」
「優奈ちゃん、まだ寝てていいのよ」
「でも、ママ、変な顔してる」
「お願い。寝てて」
「でも」
「いいから!」
思わず、大声で叫んでしまった。
優奈は、きょとんとしてから、ワッと火がついたように泣き出した。
今までの人生で、誰かにこんなに大きな声を出したことはない。
優奈がいたずらしたときにも、しずかに諭してきた。
けれど、今の私には、そんな余裕はひとかけらもないのだ。
「……ごめん……。ごめん、優奈……」
そういって抱き留めても、幼子は、ただ泣き叫ぶだけだった。
泣いて体温のあがった優奈は、夏の朝焼けの中で、火傷するように熱かった。
「ごめんね……」
そう告げても、一度ついた火が消えないように、優奈の泣き声が朝に反射する。
――私も、こんなふうに泣けたら……。
心からそう考えた。
――アキラ君は無事なの?
――でも、手紙のときには死んでいたかもしれないよね。
――もし生きてたとしても、化学兵器を使ったあとで生きていられるの?
沢山の疑問が、浮かんでは消えていく。
風鈴が、辻風にあおられて、強く鳴った。
――ああ、もうだめかもしれない。
アキラ君は、戻ってこないかもしれない。
そのことが、胸に迫るように、実感として「理解」できた。
この世界は、もう壊れてしまったのだ。前の、平和な、穏やかな世界には、戻らないのだ。だって、あの時代に帰れるわけがない。こんなに傷ついて、こんなに沢山の人が死んで、こんなにみんなが傷ついているのに。
あの平和な時代に、どうしてもっと、日々を謳歌しなかったのだろう。
あの平和な日常を、どうしてもっと、貴重なものだと思わなかったのだろう。
いつか壊れる「当たり前の生活」を、怠惰に過ごしてしまったのだろう。
いくつもの後悔が、頬を流れていく。
風鈴が、もう一度、鳴った。その音は強く、激しい。
まるで泣き叫んでいるように、私には、聞こえたのだった。
*********************
(SIDE:ユキ 数年後)
天国があるとしたら、こんな場所かもしれない、とユキは思った。
そこは、夏の夕暮れだった。涼やかな川の流れに、蛍が明るく光っている。
どこかから、風鈴の音がした。
――あの人が往ってしまったのも、こんな日だった。
そう、ユキは思い返す。
夫のアキラが出征したのは、明るい朝。
暁の光のなかで、戦地へと向かったのだ。
それが、たとえば遊園地や、会社に行くのだとしたら、ユキは笑って見送れただろう。
けれど、その時、私は出産してすぐだった。体中が痛かったし、優奈は夜泣きが続いていた。戦争のニュースばかりが流れて、心も体もボロボロだった。
そんな状態のユキは、夫が出征することも耐えられなかった。
だから、軍服姿のアキラの胸に顔をうずめて、ただ泣くだけだった。
暁のなか、去っていくアキラの姿は、まるで旅人だ。
放浪し、逍遥し、二度と戻ってはこない旅人だ。
――アキラ君!
その出征する背中に、私は何度も叫んだ。
――アキラ君、アキラ君……!
行かないで、とは言えなかった。
兵役は義務だ。脱走しても、無理やり連行されるだけ。
待遇も、普通よりずっと悪くなる。だったら、行くしかないのだ。
――アキラ君、生きて帰ってきてね……!
そう願って叫びながら、その願いはかなわないだろうとも思った。
アキラ君とすごした図書館での日々。
アキラ君とすごした公園やコンビニでの日々。
それらの夏の物語も、記憶から段々に消えていくだろうと思った。
また、いつか会える日を待ちわびていても、きっと、それは叶わないのだろうと……。
「ユキ、こっちだよ」
その声に、思わず、私は振り向いた。
まぎれもなく、アキラの声だった。ずっと、ずっと求めていた声だった。
「ユキ、どうした? 俺の顔を忘れたのか?」
「アキラ君……?」
「そうだよ。ほら、せっかく会えたんだ。笑ってよ」
軍服姿のアキラが、そこにいた。
私は目を見張ってから、自分の頬を、温かいものが流れるのを感じる。
「どうして……」
「なにが?」
「どうして、早く帰ってこなかったの。ずっと、ずっと待ってたんだよ!」
そう言って、アキラの軍服の胸に、顔をうずめた。
あの暁の日に、出征するアキラを見送ったように。
軍服に顔をうずめると、アキラの手が、頭をなでてくれる。
「ごめんな。連絡取れなくて」
「ほんとだよ。ずっと待ってたのに!」
「ごめんな。あ、でも手紙、一通は届いただろ?」
「血がついててびっくりしたよ。けがはしてない?」
「ああ、ぴんぴんしてるよ。さあ、行こう」
アキラ君はそう言って、私に手を差し伸べた。
「え? どこに?」
「決まってるだろ。戦争が終わったら、遊園地に行こうって約束してたじゃないか」
「そんなの、したっけ」
「したよ。まったく、ユキは忘れん坊なんだから」
くしゃりと楽しそうに笑って、アキラ君が私の手を握る。
どうしてここにアキラ君がいるのか。
どうして私は、高校生の制服を着ているのか。
まるで分からなかった。それでもよかった。
この、夢のような時間を、喪いたくなかったから。
「うん。行こう!」
そう言って、アキラ君の手をとって、走り出す。
アキラ君は嬉しそうに笑いながら、同じように走る。
その先に、夏の虹が、美しく広がっていた。
まるで、私たちを祝福するかのように。
*********************
(SIDE:優奈 70年後)
「おばあちゃん、よかったね。最後は笑って逝けて」
孫娘の言葉に、私は、小さくうなずいた。
目の前には、八十八歳の母・ユキがいる。
最後まで、父・アキラの面影を追い続けた人だった。
そのお葬式が終わってから、私は、自宅に戻っていた。
息子と、嫁と、その子どもである孫娘と、同居しているのだ。
「戦争って、大変だったんだね」
と、孫娘が告げる。思わずその顔をみると、孫娘は、最新のファッションに身を包みながら、興味なさそうにしていた。
「あ、あたし、今日ごはん、いらないから」
「どうして?」
「友達とごはん! ちょっと気になる男の子も来るからさ。楽しみなんだ」
へへっと笑う孫娘に、私は、小さく微笑む。
母と父にも、かつて、こんな時代があったのだろう。
当たり前に平和を享受し、当たり前に平和な日常を過ごしていた時代が……。
そう思うと、胸が詰まった。
「じゃ、行ってくるね!」
と、孫娘は元気よく家を出ていく。その背中には、希望しかなかった。
「永遠に……平和であれ……」
と、私はつぶやく。
「父と母のように……互いを求め続けて泣き続けることのないように……」
そう告げてから、目をつむった。
私は知っている。そんな風に、平和が長続きしないことを。
それでも、願ってしまう。いま、平和な時代を生きている人は、その一瞬ずつを大事にしてほしい、と。その日々は、ある日、唐突に崩れるものだから……と。
父も母も、またいつか会える日を待ちわびていた。
現実では会えなかった彼らは、天国で会えているだろうか。
そうだといいけれど……と思って、目をつむる。
風鈴の音だけが、ただ悲しそうに、響き渡り続けていた。
(了)