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「水晶の魔女」の魔法塾

白い鳳、黒い狼

作者: 蒼久斎

「水晶の魔女」の魔法塾、番外編。

物騒なオッサンこと曹文宣の結社から、新たに二人が日本にやって来る。

ちなみに男子と男子のカップルなんだぜ。

殺伐とした結社育ちの二人は、やっぱり物騒なのだった。






「足跡をつけるようなヘマをしたら、怒りますからね」

 電話口の向こうから、幾分か直接聴くよりも温かみの削げた声が届く。嗚呼、遠い。

「もちろんだよ。君のためにも、そんな愚行はしないさ……」

 電話口の向こうにいるだろう顔を思い浮かべて、柔らかく微笑んで答える。

「信じておきますよ。ああ、目的地は分かっていますよね?」

「うん、こっちは福岡経由で新幹線を使う予定だ」

「私は成田経由です。まぁ、近づけば各々アプリで相手の位置を知るでしょうし」

 ああ、そうなのか、と頷き、向こうが自分を気にかけてくれていることを喜ぶ。

「うん。そうだね。合流後は案内を頼むよ。忙しい君と一緒に過ごせる時間を得られて、本当に嬉しい」

「……仕事で構えないことも、あるとは思いますけどね」

 どこか拗ねたような声色に、あはははは、と声を立てずに笑いながら、別れの挨拶をする。


再見ツァイチェン







「いつまで居座る気でらっしゃるんですかね、ツァオ大人ターレン

 リョウは、そ知らぬ顔で連日店に顔を出す男に、そろそろ限界を訴えた。


 ツァオ文宣ブンシュアン。道教系結社の大幹部かつ骨董商などという、ちょっとどころでなく胡散臭いオッサンである。さらに先日より「十七国計画」などという、血なまぐさいプロジェクトを開始した人物でもある。

 高めに見積もって160cmという身長は、180cmあるリョウからすると、間違いなく小さい。しかし、小柄な見た目とは裏腹に、やたらと存在感がデカいのである。

 傍にいることの多い第一師匠・リウ貴深グイシェンは、本日は一緒ではない。

 齢五十をとっくに数えるだろうに、まるで三十路の坂すら超えていないような美貌の女師匠は、中国語の「愛人アイレン」ではなく、日本語での「愛人あいじん」のように見られることも多い。しかも二人揃って、それを面白がりこそすれ否定もせず、ベタベタくっついている。

 腐れ縁ではあるのだろうな、と思う。今は亡き先代「天文の魔女」ソン高明ガオミンがいなければ、また別の方向に転がっていたかもしれない。


 それはそうと、あまり近辺をウロチョロされると……否、この存在感はウロチョロというレベルではなく、のしのし、と形容すべきかもしれないが……例の人物を脱出させるのも厳しくなる。

 「未生の魔道士」シンヤ。

 元は曹大人の結社の所属だったが、妻アヤの最新の弟子たる「姫巫女ヒメミコ」マイの存在を知ったことをきっかけに、ネジか何かが吹っ飛んで反逆。表向きには死んだことになり、かの「未知の魔女」エリカの禁術で運命まで書き換えて、今は別人という設定の男である。

 その設定になってから、まだ数日しか経っていないが。

 そして、そいつはまだ、妻の弟子軍団との戦闘の傷が癒えきらず、この店の裏にあるリョウの自宅の「何でも部屋」で療養中なのだが。


「そうつれないことを言うな。お前は美々(メイメイ)の弟子でもあるのだから、わしにとっても半ばは弟子のようなものだ」

「んなわけないでしょう」

「ははははは」


 いや、わりと切実に帰って欲しいのだ。

 本日は「水晶の魔女」一門の中でもトップクラスの実力者、「医療の魔女」アユミが来ているのである。本当に、彼女の到着があと十五分遅かったら、鉢合わせしていたのではなかろうか。

 鉢合わせしたからといって戦闘になるわけではない。しかし、この物騒な人物に、一門トップクラスの回復術師の「回路」をまるっと鑑定されるのは、今後のことを考えると避けたい。

 店の菓子の中でも自信作のシフォンケーキを、こともあろうに全種注文したオッサンは、台湾紅茶を笑顔で味わいながら、梃子でも動く気配を見せない。一杯目をじっくり堪能した後、失礼、と一声をかけて、カップの裏を確認する。


「これは珍しい」

「骨董商がそれを仰いますかね」

「わしの店は中国骨董が専門だぞ。オールドノリタケなど基本扱わん」

 しかもこれは"OCCUPIED JAPAN"、つまり占領期の品だ。

「中国人に出すカップとしては、なかなか慎ましいではないか」

大人ターレン、『慎ましい』の語について、辞書で確認されることをおすすめしますよ。あと別に他意はないんです。今日のお召し物に似合うと思っただけで」

「わしの日本語は孫兄仕込みだぞ。孫兄の日本語が間違っているはずがあるまい。植民地時代生まれなのだからな」


 ぐうの音も出せない言い回しを使われた。

 故・孫高明は、台湾出身の本省人であった。齢六十あたりな曹文宣の「兄貴分」であった彼は、普通に日本語を操る世代が身近にいた時代の人である。つまり、台湾が日本の植民地であった時代の。 (※本作の時代は2010年代です)

 孫高明は長らく日本で暮らしていたので、彼の日本語が植民地仕込みと断言はできないのだが、そこを突っつくほど、リョウはふてぶてしくなれない。

 孫高明が生まれたのは、日本の敗戦間際のことじゃないか、とも言えない。

 うん、これは「慎ましい」という表現で、正解なのだろうか。

 なまじな日本人より日本語の達者なオッサンは、抹茶のシフォンケーキを食べ終え、蜜柑のシロップ漬けにぐさりとフォークを突き刺した。ちょいちょい、とホイップクリームを突いて、少しだけつけて食べるのが、彼の好みらしい。


「わしはこの店の茶も菓子も好きなのだ。美味いと思う店に通って悪いか?」


 ぺろ、と実に幸せそうに蜜柑を食べてから、彼は見た目の威厳にいささかそぐわない、子どもっぽく拗ねた口調で言った。

 あああああ、ちくしょう、オッサンのくせに可愛いな!!

 彼は辣腕の商人であり、自分の息子や娘さえ「計画」の駒にする冷酷さも持ち合わせているが、変なところでこのような稚気を見せる。

 多分、このギャップに撃墜された人間が何人もいるはずだ。

 自分は撃墜はされていない、とリョウは信じたい。


「まぁ、美味しいと言っていただけるのは、店主冥利に尽きますが……」

「であろう?!」


 得意げにふんすと鼻を鳴らして、オッサンはいちごのシフォンケーキに取り掛かった。薄く均一にホイップクリームを塗りつけ、一口サイズに切っていく。

 おそらく今日も、仕事がらみの会食などあるのだろうが、いわく「シフォンケーキはほぼ空気なので、おやつに入らない」らしい。なんだその屁理屈。小学生か。あと目を輝かせて「であろう」とか言うな。いや、孫先生の口癖だったらしいので、うつっただけなのだろうが。


「ちなみに今日は、グイ老師せんせいは?」

「エステに行くとか言っておったな。シュエが護衛についているはずだ」

 あの美貌は、仙術的な神秘だけで保たれているのではないらしい。

「……エステとか、行くんですね」

「面白いらしい。行かんでも綺麗だとは思うが、楽しんでいるのなら止めるのも悪かろう」

 さらっと「綺麗」とか言うんである。

 本人は恥ずかしいことを言ったなど、微塵も思っていない。もくもくといちごのシフォンケーキを平らげている。シメに添えたフルーツの方のいちごに、またちょんちょんとクリームをつけて食べる。そして紅茶のお代わりを所望した。


「まぁまだ数日は来るぞ。骨董市が始まるまではな」

「あー……」

 元手がないので見るだけだが、リョウもこの類のイベントは大好きである。イギリスのゴールドスミス一門にいた際、熱弁を振るう同門たちに、ティータイムや茶器について徹底的にしごき倒されたのも、今となっては多分いい思い出である。多分。

 オッサンの顔に、にたぁ、と何かを思いついたような性悪な笑みが浮かべられる。


「お前好みの銀器でも仕入れてきてやろうか?」

「遠慮します」

「対価はエリカの作った装備でいいぞ。もちろん『裏』にあるやつだが」

「お断りします。絶対に拒否します」

「妙なところで警戒が固いな」

「ユウさんの装備で遊んでてください」

「伯祐のは、あれ用に調節され過ぎていて、わしには使えんのだ」


 むぅ、と拗ねる。オッサンのくせに、可愛げがひどい。

 曹伯祐。文宣の四男。日本のサブカル、もっというとファンタジー系ゲームが大好きで、似非シーフエルフ装備で活動している。1980年生まれのギリッギリ八〇后(バーリンホー)、つまり三十をとっくに過ぎている。童顔で現実を粉飾決算しているが、冷静に考えるとエルフ耳イヤーフックに短弓装備の三十代というわけだ。なんと若々しい。

 リョウは、眼前のオッサンにあの装備をちょっと重ね、ないな、ないわ、と脳内で繰り返した。似合わなさ過ぎて、もはや視覚へのテロである。

 ティーカップを、やや拗ねたようにもてあそびながら、オッサンは話を変えた。


「あぁ、そうだ。多分そろそろ、もう一人『白鳳パイフォン』の部下が来る」

「は?!」

「日本語が堪能でな。日本での仕入れはよく手伝わせるのだが、もうそろそろこの店も教えてやっても良いだろうと思って」

「いやいやいや……うち一応、物騒なお客はお断りなんですよ?」


 曹文宣が、ほとんど私物化に成功した「結社」において、その私兵として時に非合法あるいは完全な違法行為を行っているのが、『白鳳パイフォン』と『黒狼ヘイラン』である。違いは、前者は戸籍があり、後者は無戸籍という点だけである。それが決定的な差でもあるのだが、やっている内容に大きな差はない。いや、若干『黒狼ヘイラン』の方が後ろ暗いかもしれないが。


「まぁ物騒な奴だということはわしも否定せんが、ひどく頭の切れる男だ。見境のないことは基本的にせんから、大丈夫だろう」

「『基本的に』っていう注釈が気になるんですが」

愛人アイレンに関わることについては、狂っている以外の評価が出せん」

「それアカンやつですよ。っていうかグイ老師せんせいとどういう関係……」


 言いかけた言葉を、相手がぽかんとしているのに気が付いて、引っ込める。一瞬遅れて、曹文宣はリョウの勘違いを理解し、はははと大声で笑った。

 つまり、曹の言った「愛人アイレン」という語を、リョウは曹文宣にとっての劉貴深のことだと理解した。その『白鳳パイフォン』の男自身の「愛人アイレン」のことだったのに。

 オッサンは、うくくく、と腹を抱えて、なおも笑う。ひとしきり笑ったところで、涙まで拭いながら、紅茶を飲んで切り替えた。いや、切り替え過ぎである。もう目が笑っていない。


「わしと美々(メイメイ)の仲を、そう理解していたか」

「いや、えっと、その……」

「下手な誤魔化しはよせ」

 曹文宣は、トントン、と右の目の下を人差し指で叩いた。見破る、の意だ。

「いや、適正な表現ではないとは思うんですがね。貴方と老師せんせいの仲は、そんな言葉で形容するものじゃないでしょうから」

「ふん。妙なところはしっかり分かっておるな」


 レモンを入れた氷水のグラスを、からんからん、と回して鳴らす。おかわりを催促するべく差し出されたグラスを受け取り、リョウは新たな水を注ぎ入れる。

 先程の大笑いが嘘のような、厳しい顔である。


「『あれ』はな、あやつの唯一無二だ。万が一何かがあったなら、発狂だなんて表現では足りんだろうよ。とはいえ『あれ』も『黒狼ヘイラン』上位……いや『元』上位だからな。まぁ滅多なことでは後手は取らん男だが」


 うん?


「えーっと……『白鳳パイフォン』の人は男で、聞き間違いでなければ、その元『黒狼ヘイラン』の人も男、のようですが」

「だから何だ? あ、ひょっとして、男女でなければならんという主義か?」

「いやいやいや! それはもう個々人の心に従えばいいのではと!」

「ふん」

「ただ……ツァオ大人さんの『結社』で、同性愛の方の話を聞くのは初めてで……」

「別に言いふらすものでもなかろう。それこそ、個人のことだ。ただまぁ……あやつは少々度外れたところがあるので、先に知らせておこうと思ったまでだ」


 血なまぐさいことも割と平気なはずの曹文宣が、とくに「度外れた」と言うだなんて、どんなやばい人物なのか、恐ろしさしか感じない。

 しれっとした顔で、オッサンは最後のココアシフォンケーキに取り掛かっている。クリームを塗った一口に、入念に粉砂糖をこすりつけつつ、爆弾発言を追加してくれた。


「当局に目を付けられるのも面倒だからな」

「はい???」

「しばらく日本に隔離しておこうという考えもある」

「ちょっ……いや、いやいや、それは……」

「先日、上海で派手にやってしまったようだし」

「何を?!」

「知りたいのか?」

「……いえ、やっぱり今のナシで」

「賢明だ」


 シフォンケーキを食べ終えると、たいそう満足げに紙ナプキンで口元を拭い、スマホを取り出す。いくつかの操作をした後、こいつだ、と一枚の写真を示された。何かの証明写真なのか、上半身だけ写った男の目は、真っ直ぐにこちらを見ている。

 北東アジア系にしては、彫が深めの顔立ちだ。服装もさりながら、長めの前髪のセットなどが実にファッショナブルで、お洒落に気を使う人なんだろうな、という印象である。

 もっとも、目を見れば洒落者なんて言葉は台無しだった。

 垂れ目というのは基本、柔和な印象を与えるものだと思っていたが、写真の男からは棘とか毒とか、そんな気配しか感じない。写っているのは真面目な顔なのに、皮肉たっぷりにせせら笑う様すら思い浮かぶ。さっき聞いた話のせいかもしれないが。

 たっぷり三呼吸してから、イケメンですね、とアホきわまりない感想を投げておく。


ファツァイエン……日本読みだと『ほう・しおん』かな? 『白鳳パイフォン』では第四席にあたる」

「めっちゃ上じゃないですか」

「そうか?」


 さすが、使い捨てる側は言うことが違う。

 さらにスマホが操作されて、別の男の、これもまたどう見ても証明写真のような画像が表示された。おさまりの悪い短い黒髪が好き勝手な方向に跳ね散らかし、わずかに垂れ気味の目が、言うことをきかない髪に困ったようにも見える。

 というか、何も知らなかったら、さっきの偲恩さんの方が、よっぽど『黒狼ヘイラン』に見える。こっちは、どこか自信なさげではあるが、温和そうな顔だ。


シュウジァンチェン。日本語読みだと『じょ・けんせい』だな。元『黒狼ヘイラン』第八席。十席から上になると、いくつかの報奨を認めるのだが、それで戸籍が欲しいと言ったので『黒狼ヘイラン』から抜けることになった」

「戸籍を欲さなかったら、もっと上位になった可能性があると?」

「うーん……まぁ行けて四席、といったところか? ちなみに先日迷惑をかけた『アレ』が第七席だ。お前の妻の弟子たちは、実に優秀だな」


 マジでか。そんな上位の相手を幻術で倒すなんて、エリカさんマジでエリカ様じゃねぇか!

 そして、そんな相手に高校生が戦う羽目になったという状況に、今更背筋が冷える。


「ちなみに、大人しそうな顔をしているが、こいつも頭がおかしい」

「……はい?」

「暗器の使い手なのだが、拷問にも通じていてな」

「……ちょっ、待って、聞きたくn」

「以前、偲恩に対して……」

「アーッやめて! やめてやめて! 聞きたくない!!」

「そうか? 生きたまま」

「やめろ下さい!!」


 笑顔でシフォンケーキ食っていたのと、これで同一人物なのである。

 油断するとつい絆されそうになるかもしれないが、たまにこういう残酷な面が出てくるので、やっぱり油断ならんと思い直せる。この状況で悠然と茶を飲んでるんじゃない。

 とりあえず、法偲恩さんと徐建成さんが、ネジの吹っ飛んだカップルらしいことは分かった。その先については、是非とも知らないでいたい。


「なんっちゅう物騒な人にうちの店を……」

「だからこうして、先にお知らせをしておるじゃないか。危険人物だぞと」

「そも危険人物を入国させないでくれますかね?!」

「まぁ、お互いが絡まなければ、そうそう悪い奴らではないんだ」

「絡んだ瞬間に凶悪無慈悲って意味ですよね?」

「うん。まぁお前は妻帯者だし子もおるし、大丈夫だろ」

「まるで心安らがない……」


 おかわりのティーポットを差し出しながら、うーんうーんと唸る。

 正直「この人」に「頭がおかしい」と言われるレベルなんて、放送禁止ものなのだろうな、ということしか想像できない。したくない。

 そりゃあ、向こうに魔術師として留学していた時には、向こうの黒魔術界隈のグロな話も散々聞かされたが、わざわざ赤裸々に関係者から聞きたいと思う趣味は無いのだ。

 諸悪の根源なオッサンは、うまいうまい、とおかわりの紅茶を入れている。


「当初は偲恩だけ日本に来させるつもりだったんだが、建成のやつが嫌がってなぁ。短期出張ならいいが、長期出張は許さないと、わしを殺しそうな勢いで食いかかってきて」

「うわぁ」

「偲恩が絡むと、わしの『威圧』も跳ね除けてきおる。もう面倒くさいので、新婚旅行と思って認めてやることにした。おかげで『アレ』がうるさいうるさい」


 トントン、と今度は左目を叩く仕草をしたので、「アレ」が誰かが分かった。

 左目に眼帯をしているのと、ツァオ氏の側近であるというので、三国志でおなじみの夏候かこうとんよばわりされることもある、シュアンユウである。

 先日の、弟のように目をかけていた例の「第七席」の離反事件で、ひどく落ち込み、舌鋒鋭きシュエこと、朱珪雪に「豆腐メンタル」と罵倒されていたそうだが、あれで実は『白鳳パイフォン』より上位の幹部なのである。


 なんだってあの豆腐がなぁ、とは曹伯祐の言であるが、まぁ何かがあるのだろう。このオッサンは、珍しい「鑑定」持ちである。一瞬で正解に辿り着き、素質と可能性を見抜く異能だ。

 まぁ、日頃からエリカと接していると、ついそれが珍しい能力であることを忘れそうになるが。しかも、エリカの話では、「星夜シンヤ」と名を変えたあの人物も「鑑定」持ちらしいし。

 本当に、珍しいとは何だったのか。思わず哲学しそうになるが、そういう人間ばかりが集まる構造なのだ。つまり、主に、妻たるアヤのせいで。

 オッサンもエリカも文句なしの規格外だし、シンヤも『黒狼ヘイラン』で第七席まで上り詰めた術師である。


 以前に伯祐から聞き出したところでは、『黒狼ヘイラン』の構成員は四桁近いという。人権を保障されない無戸籍者がそんなにもいるというのは、なんとも受け入れたくない現実であるが、その中で切磋琢磨という語も生温い競争を勝ち抜いて上位に入った者が、只者であるわけもないだろう。

 だが、伯祐やエリカが加勢しなければ、戦闘をも視野に入れて育てた弟子たちが総がかりで削るしかなかった「シンヤ」も、所詮は「第『七』席」でしかないわけだ。

 曹文宣が人間を見誤るとは思いにくい。少なくとも能力については。

 ということは、彼に「四席までは上がれた」と評されたシュウジァンチェンという人物は、シンヤと同等以上の能力を持つ術師ということになる。


「徐さんは、暗器の使い手とのことですが……」

「大っぴらに武器など持てんから、必然的にそうなるのだ。基本はナイフだが、(ヒョウ)を扱わせると特に手強い。しかも身体制御が巧い。周囲の風景を、コマ送りのスローモーションで見ながら戦える」

「そんな、カンフー映画の演出みたいな」

「まぁ脳に負荷はかかるらしいが」

「でなきゃおかしいですよ。けど、そんなことが出来ても、四席ですか」

「三席以上をやるには、指揮能力が足りんな。あれが動かせるのは、二百人が限界だろう」


 その二百人というのは、戸籍と共に、人権も与えられていないのだろうなぁ。

 そう思うと、出世より戸籍を求めた徐建成の選択も、なるほどなと頷ける。

 じゅじゅじゅじゅじゅ、と音がして見やると、オッサンはグラスに突っ込んだストローから、往生際悪く、最後の一滴の水まで吸い上げようとしていた。

 あれもなぁ、と小さな声が、ストローをくわえたままの口から洩れる。


「『あれ』とは、徐さんのことで?」

「偲恩の方だ。あいつはな、『恩を偲ぶ』なんて名前のくせに、人から恩を受けるというか、あれの言い方をすれば、借りをつくることが大嫌いでな。わしの所におるのも、まだ借りが返せておらんからだ。席次を上げられんのも、つまりはそういうことだ」

「清算が終わったら抜けるつもりだ、と……そんなこと、出来るんです?」

「本気で引退する気ならな」


 食べきってしまったことを惜しむように、フォークをくるくるもてあそびつつ、曹文宣は、実に曹文宣なセリフを続けた。


「呪詛の三つ四つで勘弁してやるとも」


 このオッサンに、真っ当な良心を期待した自分がばかだった。

 多分、エリカが解析した、あの呪詛だ。シンヤにかかっていた、あの。

 位置追跡とか、結社のことを話したら内臓がずたずたになるとか。

 黒いなんてもんじゃない。まっくろくろすけも驚きの黒さだ。もはや黒を通り越して暗黒。暗黒を通り越して、ダークサイドの果てに達しそうな闇である。


大人ターレン、『十七国計画』は、人生を賭ける価値がありますか」

「お前に理解されるとは思っておらんよ。日本人のお前にはな」

「他人の人生を、注ぎ込む価値がありますか」

「ばかをいえ。注ぎ込むのはわしだ。わしがやると決めた。やり抜くと」


 多分、曹文宣は、リョウの言いたいことは分かっている。分かっていて、日本語の曖昧さを逆手にとって、話が通じていないふりをした。

 リョウは「(それぞれに価値あるはずの)他人の人生を」と言ったつもりだった。人の命を突っ込むほど、重要なことなんですか、と。だが曹文宣はそれを、「注ぎ込む」主体の問題として答えた。やると決めたからやると。自分の決断であるから、口を挟むなと。大勢の人の命がかかわる問題を、自分の問題にすり替えたのだ。


 ああ、だからやっぱり、油断のならない恐ろしい人なのだ。

 そしてだからこそ、どうしてグイ老師せんせいが唯々諾々と「祀り」上げられているのか、理解できない。息子を今の政府当局に殺された、その復讐だと言っていた。自分の復讐のためなら、他の誰の命も投げ込めるような、そんな人だっただろうか?

 そこまで考えたリョウの脳裏に、ぼうっと炎のイメージが見えた。違う。受信した。

 はっとして顔を上げると、底意地の悪い笑みを浮かべる曹文宣と目が合った。


「やっぱりな。諸葛氏の回路のせいか。多少は『見せられる』ようだな」

「何のイメージですか?」

「何のために見せられたか、そこを自分で考えんか」

「生憎……曹氏と炎と諸葛氏というと、赤壁しか思い浮かびませんが」

「にくたらしいことを……お前の考えていたことなぞ、わしはお見通しだぞ。美々(メイメイ)……いや、貴深グイシェンのことだ。人の命を使うことを、あれは承諾するだろうか、と」


 だから見せてやったのだ、歴史の一端を。


「お前は炎のイメージを受信したな。なるほど、真っ先に赤壁の戦いを連想するのも無理はない。お前の諸葛氏の回路が残りカス過ぎて、炎だけしか見えなかったようだが……孫呉の行った火計は、赤壁だけか? お前が考えていた人物は、りゅう貴深きしんだろう? 劉氏と孫呉と火計。大きなものがもう一つあるはずだ」

「……夷陵の戦い」

「そうだ。その始まりは?」

「呉の荊州侵攻……」

「もう一つ、その結果引き起こされた、ひとりの最古参家臣の……」

「……関羽の、死」


 よくできました、と言わんばかりに、曹文宣はにたりとわらった。


「自分の個人的な復讐のために……演義でさえ、殊更に善性を強調されて描かれている、演義でさえ、自分の個人的な復讐のために、七十万の兵を死地に差し向けた。それが劉備という男だ。正史の彼はさらに激情家だぞ……わかるか? いや、わかったか?」

「……」

「それが劉備であり、りゅう貴深きしんが最も強く共鳴している歴史の対象だ。『あれ』は自分の復讐のために、億の民でも巻き込めるぞ。無限の怨嗟を受けると頭では理解しても、自分の心のままに暴走できる。その実りのないただの復讐に、わしは意味を与えたのだ。いや、大義か」

「大義?」

「『漢族の血統回路の完全復元』、『国を正しい姿に戻す』……甘言だと、あれは理解している。理解して、利用している。わしがあれを利用しているように、あれもわしを利用している。いわば、わしらは共犯者なのだ。同床異夢の、な」


 テーブルに肘をつき、絶対強者の威圧をまとい、曹文宣はせせら笑った。


「お前が知っている『第一師匠』のリウ貴深グイシェンは、孫兄にそれらすべての激情を封じられ、爪牙を奪い去られていた時の姿だ。お前の知っている姿こそが偽りなのだ。あれの本当の姿は、息子を殺されたことを嘆き悲しみ、世を呪う手負いの獣だぞ」



 リョウは返す言葉が出てこないまま、じっと相手を見つめた。

 第一師匠のような圧倒的な美貌などない。なんということもない小柄な中年男性。だが纏う空気は、この世を揺さぶる傑物のそれだ。英雄なんてものに会ったことはない。だが、この人物がそうでないのなら、誰が世を変えるほどの力を持つ存在だというのだろう。

 痛いほどの沈黙を破って、讃岐石サヌカイトのドアベルがかろんかろんと鳴った。びぃん、と一瞬、引っ搔くような違和感。


「おお、こわい。なんて店ですか」


 いっそ甘ったるいほどの、低い男の声がした。アクセントに、ほんの少しだが、非日本語ネイティブの癖がある。

 振り返ると、先程このオッサンから見せられた写真の人物が一人だけ、いた。

 ファツァイエン。『白鳳パイフォン』第四席。

 写真よりもイケメンだが、写真よりも毒気がある。サングラスでもした暁には、まったくもって、チャイニーズマフィアにしか見えないだろう。


「いらっしゃいませ」

「ええ。なかなか歓迎してくれるじゃありませんか」

「本店は、戦闘をお断りしております」


 笑顔をつくりながら、引き攣っていないだろうか、とリョウは内心に思った。この偲恩という人物は、ほぼ確実に、後ろ暗い修羅場を踏んでいる。敵意もないのにドアベルの迎撃術式が反応するということは、存在そのものに危険を感知されたということだ。

 フン、と鼻を鳴らして、偲恩は曹氏の隣に座る。仕草のいちいちが様になる。

 リョウは氷水を入れたグラスと、紙おしぼりの袋を差し出しながら、当店は禁煙です、と付け加えた。服から煙草のにおいがする。


「おすすめは?」

「コーヒー以外ですね」

偲恩ツァイエン、手を触られるのが嫌でなければ、店主に選んでもらえるぞ」

「は? 手を触る?」

「こっちの体調を読んでくれる。お前、ロス帰りだろう。時差は大丈夫か?」

「ああ……まぁあと四時間ぐらいは動けますよ」


 躊躇なく手を出されて、リョウの方がびっくりした。おそるおそる手に触れて、読む。ひどく熱い手だ。そして硬い。何かの鍛錬を詰んだ者特有の、胼胝たこがある。手のひらの動脈から伝わる拍。そのさらに向こう側……


「ハーブティーと紅茶、どちらになさいますか?」

「紅茶で。ああ、別にアレルギーではありません。できれば砂糖をたっぷり入れて構わないものを。ミルクもつけてもらえますか?」

「かしこまりました」

「その注文なら、読んでもらう必要はなかったかもしれんな」

「おや、そうなんですか?」

「甘いハーブティーが欲しいと仰るお客様には、ステビアを追加しておりますが」

「遠慮します。たっぷり、白い砂糖を入れたい気分なんです」


 まぁ一つ情報を抜き取れただけ、無駄ではなかったな、と思いながら、リョウは戸棚の中を漁る。ダージリンよりは、アッサムかセイロンか……いや、待てよ……

 取り出した茶の缶を、どんどんどん、とカウンターの上に並べた。


「候補は絞りました。まず『チッタゴン』……バングラデシュの紅茶です。次に『アンナム』……こちらはベトナム。こちらは『ミッチャナ』でウガンダ。そして『サウスボーン』……ジンバブエの紅茶です。香りを感じてからお決めください」

「へぇ。てっきりアッサムかセイロンが出てくると思いましたよ。メニューにはありませんでしたね?」

「数が入りませんので、メニューに出せないんですよ。特にジンバブエの『サウスボーン』は、これが完全に最後の分です」


 やっぱり、こっちを試していたか。おすすめを、と言ってきた時、どうもいやな目つきをしていると思ったのだ。

 偲恩は素知らぬ顔で、缶を開けてにおいを嗅いでいる。「アンナム」の時に、わずかに顔をしかめた。まぁ分からなくもない。独特の土のにおいがするのだ。


「サウスボーンでお願いします」

「かしこまりました」

「でも、アッサムやセイロンもよく揃えているんですね。今度はそれにしますよ」

「ありがとうございます。一番揃っているのは、フレーバードを除けば、ダージリンなんですがね」

「他に珍しい国の紅茶はあります?」

「どうでしょう? ルワンダとカメルーン、あとエクアドルと、マラウイとモザンビーク」

「いいな。私は珍しいお茶も好きなんです。シッキムは?」

「一種類だけあります。でもどうせなら、アルナチャル・プラデッシュ州の『ドーニイポロ』をおすすめしますよ。分かる方にしかお出ししないものですが」


 そう言うと、大変気分を良くした、という顔で、相手は頷いた。だんだん話についていけなくなっているらしい曹文宣だけが、いじいじと氷をつついている。


「いい店ですね、大人ターレン。こんなにお茶が揃っているなんて」

「緑茶は日本のものしかないがな」

「中国緑茶まで手を出したら、店の棚が壊れますよ。重みで」

「紅茶なのに祁門キームンもないだろうが」

「あれはね、私の好みの味じゃないので、入荷する気になれないんですよ。自分が美味しいと思わないものは出さない。この店の流儀です」

「ははっ。なるほど、骨董の取引に似ていますね」


 唇を尖らせる曹とは対照的に、偲恩の方は実に楽しそうだ。


「と仰いますと?」

「どれだけ市場で評価されようが、高値がついていようが、自分の目が『良い』と認めないものは、仕入れたって売れません。売り手が自信を持てなければ、必ず見透かされます。だから私は、自分の目が『良い』と思ったもの以外は、基本的に仕入れません」

「なるほど。良い仕事をなさっているんですね」

「『鑑定』を持っていれば、好みじゃないものでも押し売りできるんでしょうけど」

「わしのことを言っておるのか? そんな悪徳な商売はしておらんぞ」


 ぷんすこ、という形容が似合いそうな顔で、オッサンは抗議する。今度こそ、偲恩は腹を抱えて笑い出した。ひとしきり笑って、それから、そうそう競り落としましたよ、と言って、小さな包みを胸ポケットから取り出した。うむ、と無駄に重々しい顔でそれを受け取ったオッサンは、がさっと躊躇なく包みを開く。

 シロップをかけたような瑞々しい艶。鮮やかながらもけばけばしさのない、緑色。間違いなく、第一級品の翡翠である。精緻な彫刻を施された、ピアスだ。


「うん。良い品だ」

「予算、上回りましたよ」

「構わん」


 桁数を聞く気になれない。とりあえず、なかなかな価格だったのだろうな、という感想を抱きつつ、ティーコゼーをかけて蒸らしに入っていたポットから、一杯目をカップに注ぐ。クリーマーにミルクを注ぎ、シュガーポットにグラニュー糖を足し、そして順番に差し出す。


「景徳鎮、じゃ、ありませんね……伊万里焼ですか?」

「そうです。興味深い骨董の話を聞かせていただいたので、現代品ですが赤絵の古風なもので、出させていただきました」

「ずるいぞ。染付なんて滅多に出さんじゃないか」

「うちのカップを全部試す気ですか」

「そのとおりだ」

 拗ねた声に、思いついた問いをそのまま投げてみれば、自信満々に胸を張られた。

「……まぁ、割ったら弁償して下さるんでしょうけども」

「品を割って骨董商が務まるか」

「仰る通りで」


 話している間に、偲恩は香りを一度たっぷり吸いこんでから、遠慮なくミルクと砂糖を投下した。見た目に似合わない、強烈な甘党のようである。


「……うん、美味しい」


 こぼれるような稚い笑顔で、偲恩はそう言った。

 だが、次の瞬間にはもう噎せ返るような甘ったるい声で、毒々しく微笑んで言った。

「良い店ですね」

「……ありがとうございます」

「『あの人』も入れたらいいのですが」


 形容するなら、妖艶、という語がぴったりだ。そんな笑顔で、カップにもう二杯目の紅茶を注ぐ。まさか、と思って、リョウはドアの向こう側を見やった。

 ふ、ふふ……と、低い声が意地の悪い笑みをかみ殺した。

「まだ来ていませんよ。あの人は福岡から新幹線だと言っていました……でも来ても、この店のセキュリティに、引っかかってしまうかもしれませんね」

「わしが入れるんだ。建成も入れるだろう」

「だといいんですがね。巨悪と小悪党なら、小悪党の方が摘発されやすいでしょう?」


 無駄に艶やかな低音のせいで、言っている中身の失礼さに気が回るのが遅れた。偲恩の笑顔に、曹もまた笑顔を向けている。どっちも目は笑っていない。

 リョウは、カウンターの下にもぐって、紅茶の缶を整理し直した。関わりたくないにも程がある。

 スマホのバイブレーションが、小刻みにカウンターテーブルを打った。偲恩の方らしい。

 中国語でのやり取りについて、リョウはさっぱり分からない。分からないが、偲恩の声が、焦がし蜂蜜とメープルシロップを混ぜた上に砂糖をまぶしたぐらい甘くなったので、建成からの通話なんだろうなぁ、と察する。曹大人が「新婚旅行と思って」と言った理由がよく分かった。


 ちなみにアヤとリョウは、アヤが大学院を修了し、リョウがイギリス留学から帰ってきたタイミングで結婚した。新婚旅行の行き先は岩手県花巻。例の「野生の魔女」と認定する文豪ゆかりの地をめぐる、どこまでも魔法漬けの旅であった。

 まぁ? 今だって、どこに旅行に行ったって? 確実に魔法とか魔術がらみの痕跡にばっかり注目することになるだろうけど??

 しかし、朝から晩まで北上川の川原で石を拾いまくり、かと思えば延々と文学館の資料を調べ続けるというのは、新婚旅行でやることじゃなかっただろう、とは思う。文系の魔女なのだから、文学は気になって当然だし、「水晶の魔女」なのだから、石が気になるのも当然ではあるだろうが。

 ……思い出すのはやめよう。悲しくなってくる。


再見ツァイチェン


 とびっきり甘く蕩けた声で言って、偲恩は通話を終了した。

 あと十五分ほどで着くそうです、と、わざわざ日本語で言ってくれたのは、おそらく店主を慮ってのことなのだろう。だからって、セキュリティを甘くすることはしないが。

 偲恩はたっぷりと紅茶を味わった後、パンケーキを追加で注文した。蜂蜜とメープルシロップを両方つけてくれと言われ、やっぱり激烈な甘党だなと感じる。

 ふわふわパンケーキにトッピングを重ねていると、讃岐石サヌカイトのドアベルが鳴った。


 次の瞬間、閃光が走るようなイメージが、リョウの脳を叩いた。

 頭を抱えて悶絶していたのは、間違いなくシュウジァンチェンである。


「能进入店内吗?」

「或许能进入店内……认为看上去没被欢迎」

「在这家商店中、战斗被认为是禁止了」

「跟谁斗争?」

「现在、没有斗争的对方」


 すまないが何を言っているのか、さっぱり分からない。

 助けを求めて、リョウは曹文宣の方を見るが、通訳してくれる気はないらしい。ただニヤニヤ笑っているだけである。

 おそるおそる、と言った様子で、建成は左足を敷居の上にかざす。ぱりぱりと嫌な感触が、リョウの皮膚を這った。なるほど、危険人物。

 とはいえ、警告の一撃で理解はしてくれたらしく、二撃目の発動はなかった。滑り込むように店内に体を入れると、ほっと胸を撫でおろしている。


「あ、彼は日本語がほとんど出来ないので、私が通訳します」


 建成を隣に座らせ、偲恩は今までとは比較にならないほど甘ったるい笑顔で言った。なるほど、これが愛の……自分の妻(アヤ)のことを思い出すのはやめよう。うん。

 パンケーキを偲恩に差し出すと、チッタゴンをホットのミルクで、と注文された。ああ、さっき偲恩が選ばなかった紅茶だ。シェアするんですね、ははは。仲睦まじいことで……

 羨んでなんかいない。断じて羨んでなんかいない。


大人ターレン、そろそろ行かないと、今夜の会食に差し支えますよ」

「うーん、気が重いな……わし、あの人、苦手なんだけど」

「変に可愛い言い回しをなさらないで下さい。一人称『わし』のくせに」

ツァイエンは可愛くないのう」

「こちらも、大人ターレンには可愛いと思われなくて、一向に構いませんので」


 これ見よがしに彼氏の建成にべったりくっついて、偲恩はせせら笑った。チェシャ猫を連想する、なんとも人を食ったような笑い方である。似合い過ぎていてこわい。

 曹文宣は、あーもうこれだから、とばかりにちょっとだけ口を尖らせると、支払いのためにカードを出した。一人でぷらぷら歩いて帰るのかと思いながら、リョウが決済を進めていると、ぽちぽちとスマホをいじって、迎えを呼ぶ。

 そのやり取りが、当たり前だが中国語なので、本当に中国人なんだよなぁ、とばかみたいなことを改めて感じた。日本語が流暢すぎるのだ。


「支付了你们的分」

「谢谢」


 シエシエぐらいは分かるぞ。ということは、多分オッサンは「おごりだぞ」ぐらいなことを言ったんだろう。残る二人の分も払っていたし。ああ、そういえば、中国って目上の者が目下の者にご馳走する文化圏だったっけか。

 軽く頭を下げる建成の姿は、なんというか、少々頼りのないサラリーマンといった風情である。店の防衛システムから一発攻撃された『黒狼ヘイラン』元第八席、なんて、嘘にしか思えない。彼氏の偲恩の方が、よっぽどワルのような面構えである。

 二人は、リョウにはさっぱり分からない中国語で、にこやかに談笑している。

 案の定シェアした紅茶が、きれいさっぱり空になったタイミングで、二人は席を立った。


「また来ますよ。美味しかったです」

「ありがとうございます」

「ゴチソウサマ」


 つたない日本語でそう言って、建成はまたぺこりと頭を下げる。彼の方がシステムの反応が強かったというのが、まったくもって信じられない姿である。

 もっとも、背中を見送ったリョウには分からなかったのだ。

 店を出た瞬間に、建成の顔から、すっと表情が抜け落ちたということは。







「反応はどうだった?」

「何も。とは言っても、最後に探知してから、もう一週間は経ちますが」

 建成の問いに、偲恩は首を左右に振りつつ、そう答えた。

 そう、と短い答えの後、建成は突き刺すような鋭い視線を虚空に向けた。


「戦闘の後も生きていたのは、間違いないんだね?」

「Madamの依頼で星を読んだのは、私ですよ。それに妙でしょう? 『蠱毒の魔女』が、本当に『あいつ』を殺していたなら、『連盟』が重いペナルティを課すはずです。伯祐からは、そういう情報は一切入っていません」


 駅に向かって歩きながら、中国語での会話を続ける。それでも、分かる人間が周りにいる可能性を考慮してか、二人の声は低く、囁くように潜められている。

「……つまり、そういうことだね」

 建成は、心底から蔑むような目で、言った。


「星の運命を書き換える術は、一応、あります。普通、一日やそこらで行使できる術ではありませんが……大人ターレンいわく『蠱毒の魔女』は、三代『商』の回路を持つ、特級の魔術師とのこと。一般的な『常識』ではあり得ないことも、やってのけるのでしょうね」

「ふん……それで、綺麗な身になれたつもりなのかな」

「そうかもしれませんし、違うかもしれません」


 建成の声は、どこまでも冷たい。

 偲恩は、店にいた時とまるで別人のように冷酷な顔を、うっとりと眺める。


「……許せないなぁ。許せないよ」

「そうですか」

「俺が苦労してどうにもならなかった道を、反逆したくせに与えられるだなんて、ずるいにも程があるだろう? 許されちゃいけない」

「どうするんです? Madamからは、手出しをするなと言われていますが」

「その指示を受けたのは君であって、俺じゃないだろう?」


 うっそりと、建成がわらった。狂気じみてすらいる笑顔を、偲恩はどこかあきれたように、けれども微笑んで受け止める。


「それに……千万人もいる結社なんだ。全員を完璧に管理するのは不可能。そうだろう?」

「なるほど」

「どこでも事故は起きる。特に評価した十人であっても、ね」


 楽しそうに笑う建成を、蕩けるような笑みで見つめていた偲恩が、ふと眉根を寄せた。


「ああ、そういえば、シュウイン殿から連絡がありましてね……決まったそうですよ。本決まりだそうです」

「……それは困ったなぁ。『叔』相手じゃ分が悪い」

「可能な限り早めに動いた方が良いでしょう」

「そうだね……まぁ……」


 くるりと振り返り、建成は偲恩をぎゅっと抱き締めた。


「今日ぐらいは、楽しい時間を満喫したって、構わないだろう?」

「勿論……と、心の底から同意したいのですが、そろそろ眠気が……」

「ちょっと! そりゃないだろ?!」

「ロスと日本の時差が、何時間あると思ってるんです……」

「ああもう! 埋め合わせは絶対にしてもらうよ!」

「ええ勿論です……あふ……」

「せめてホテルまで持ち堪えてくれないか!?」


 その反応が面白くて、偲恩は恋人にもたれかかりながら、声を立てずに大笑いした。






法偲恩さんと徐建成さんの二人については、今後チラチラ出てくるとは思いつつ、あんまり深く突っ込んで書くとえらいことになりそうな予感がする。


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