もしも二歩だけ届くなら
58作目です。夏が来ますね。まだ生きます。
「例えばの話をしよう」
「例えばの話?」
「もしも、本来は来る筈の電車が定刻に大幅に遅れる、或いは何とも面の皮が厚いことか、電車がバックレてしまったら、私たちはここで何をして時間を潰そうか?」
彼女はゆったりとした青白いスカートから伸びた白い足をぞんざいに上へ下へ振りながら言った。そうやって六月半ばの大気を切ると、湿ったような低い音がした。
「そうだね、僕なら……まず、ホームの端で我関せずと佇んでいる自動販売機を訪ねる。ウィンドウショッピングに過ぎなくてもいい。訪ねることに意味があるんだから。でも、僕は折角だから、飲み物を買うと思う。きっと、下段には缶の類があって、それらの端っこにコーヒーなんかが用意されていると思うんだ。僕はそれを買って、蓋を開けて、仄かに漂い出すコーヒーの少しばかり酸い匂いに眼を閉じるよ」
僕はホームの端にひっそり置かれた自動販売機に眼を遣りながら言った。彼女も自動販売機の方に顔を向けている。
「君はそうするんだ。そうだなぁ、私もそれに肖るとするなら、同じように自動販売機を訪ねます、そうしたら、最上段でペットボトルのお茶を買うでしょう……何故かと言えば、ペットボトルは蓋が閉まりますね? そう、合理的。必要なのは合理性。夏は熱で渇いてしまうから、なるべく後のことを考えておくべき。君なんかは生き急ぎがちだから、考えないかもしれないけれどね」
彼女は微笑みながら言った。
「さて、君に訊ねよう」
「うん」
「私が最上段の飲み物を選ぶ根元的な理由は何だろう?」
「眼の高さに近いから? いや、最上段は君より高い。そうなると何だろう。仮に、僕が最上段を選ぶとして、合理性を抜きにしたなら、そこに好きなフレーバーが置かれているか、或いは一種の憧憬の終着点?」
「うんうん。及第点……いや、正解かな」
彼女はそう言うなり立ち上がって、少しぎこちなく一周くるりと回転した。スカートが逡巡したようにふわりと膨らみ、萎んだ。シックな色合いのポシェットも僅かに浮き上がって、落ち着いた。彼女は何も言わなかったが、眼は僕にも立つように促していた。なので仕方なく僕は立ち上がった。彼女のスカートに劣らない膨らみを備えたロングスカートに足を引っ掛けないようにして慎重に。
僕は彼女の足元に眼を遣ると、だらしなく伸びた紐が見えた。
「解けてるよ、靴紐」
「あらま、いつの間に」
彼女は屈んで紐を結び始めた。
「靴紐っていつの間にか解けていてさ、その度に、何もかもが下らなく思えてしまうんだよ。こんなことに時間を費やすために生きているんじゃない、ってね。だったら、放置しておけばいいじゃないか、って話になるかもしれないけれど、転ぶために生きているわけでもないから、予後のことを考えたら、結んでおくべきなんだよね」
「靴紐がない靴を履けばいいんだよ」
「それは少し欠損を感じちゃう。我儘な話だけれどね。君だって、靴紐のある靴、好きでしょ?」
僕は自分の履いているブーツを見た。彼女の靴よりも重厚に紐が結ばれ、重なっていた。確かに紐のある靴が好きだった。
「さてさて、行きましょう」
彼女は紐を結び終えると、軽やかに立ち上がり、自動販売機に向かって足を踏み出した。僕はその後に続いた。
この山間の無人駅には誰もいなくて、何処からか届く鳥の声や、風が植物を揺らす音や吹き抜ける音、気が早い蝉の独唱が重なって、ひとつの夏めいた音として仕上がっており、遮蔽物すらまともにない無人駅に、それらの音は必要以上に届いていた。しかしながら、それらが煩いなどと感じるようなことはなく、在るべくして在る音なのだと僕は感じていた。
半ば曇ったような窓の向こうにカラフルなラインナップがあって、下段には予想したように缶類が置かれていて、上段にはペットボトルの飲み物がメインで並んでいた。
僕は柔らかな白のバッグから財布を取り出して、その中から鈍い百円玉とくすんだ数枚の十円玉を取り出し、自動販売機に投入した。機械が金額を認識すると同時に赤いランプが光った。誰が教えなくとも、点灯した場所のものが買えるのだと認識できる。それはきっと人間だからだろう、と僕は無糖の缶コーヒーを選びながら考える。
缶がガタンガタンと転げ落ちてきて、僕はそれを手にする。缶は異質なほどに冷却されていて、それを手の熱で緩和してしまうのが勿体ないような感じさえした。
「君はブラック派だよね」
「うん。砂糖が入っていると飲めないから」
「君のように嫋やかな子が、真っ黒な缶を胸の前で大事そうに両手で持っているのは、極めて異質な感じがして心地好いね。そういうアンバランスな要素が人間的な魅力を作り出していくんだと思う。でも、私は私のイメージに準じたものを選ぶよ。ただし、主観に過ぎないけどね」
彼女は少し背伸びし、踵を浮かせながらペットボトルのカフェオレを選択した。軽薄にピッという音がして、ガトンガトンと缶よりも鈍い音をしながら五百ミリリットルのペットボトルが転げ落ちてきた。
彼女はそれを手にするなり蓋を開けると、力強く口をつけて液体を喉に流し込んだ。それを見て僕も何となく合わせなければいけないような気がして、いそいそと蓋を開け、口をつけた。
「どう? 客観的に見て」
「概ね想定通りだった。君は苦いものが苦手な印象があるし、炭酸のような刺激的なものも避けるような気がしたから。でも、お茶なんかを選ぶと、それはそれでイメージとの乖離があって、最終的に消去法で厳選したら、カフェオレかオレンジジュースかな、って」
「鋭い考察、それまた概ね正解。私をよく見ているね。その通り、コーヒーや炭酸は私の不得手とする種類の飲料だし、お茶は個人的に取っ付き難くて、確かに最後の二択は君の予想した通りだったけど、君がコーヒーを選んだから、近いものにしたんだ」
彼女はペットボトルを持った左手をだらりと下げて笑った。額に滲んでいた汗を右手で拭うと「日陰に戻ろうか」と言った。
まだまだ電車が来る気配はない。
「はっきりとした四季はこの国の魅力で、その色の違いにはうっとりするものがあるよね。でも、夏が暑過ぎるよ」
彼女は日陰のベンチに戻るなりそう言った。勢いよく腰掛けたら、スカートがふんわりと浮き上がった。僕は彼女の横に静かに腰掛け、コーヒーに口をつけた。手の熱で温くなってきているような感じがあった。
「君は夏が好きなんだよね」
彼女は黒い地味なバレッタで髪を留めて、カフェオレを飲んだ。
「私は十六回の夏を経験したけれど、特別な印象はないかな。ただ、夏は万物が生き生きしているような気だけはする。生きているものも、生きていないものも関係なく、ね。空に浮かぶ雲とかさ。私は、それがとても美しいことだと思うよ。そういうものを見る時、生きているんだなって、ある種の幸せなんだなって感じるんだろうね」
彼女は半ば金属的な展性すら持ち、無限に広がる錯覚を促すような青い青い空に眼を遣りながら言った。
僕も空を見ていた。意識が抜け出しそうな感じがした。髪と耳の隙間を吹き抜ける風がピアスを揺らした。眺めていたら、眩しくて少しだけ眩暈がした。だから、視線を下に、駅のコンクリートに戻した。白線が日向と日陰の境界線となっていた。
「あっち見てよ」
彼女が指差して、僕は左側に顔を向けた。
「大人しくしな」
彼女は声を落としてそう言うと、僕の髪に触れた。
「君は今死んだ。私が悪人だったら、撃ち抜かれていたんだから。いつもいつも、何処か抜けているんだよね、君」
彼女は僕の髪に指を通し、優しく纏めて、自分と同じようにバレッタで留めた。そして、彼女は「死んでも構わない?」と訊ねた。
「別に」
僕は言った。
「君が撃ったとして、それはそれで僕に悔いなんて残らないよ。君じゃなかったら少し嫌だけれど……でも、撃たれてもいい。そこで死んだとしても、きっと、すっきりする」
「相変わらずって感じ。君は全ての時間が重なっていると思ってる。宇宙の始まりから終わりまでひとつの時で成り立っていると。たった今、私が口にした音のひとつ前の音さえも、宇宙レベルから見たら疾うに破棄された時間のことで、過去と未来は現在と繋がりがなく、どの時間も重なってはいるけれど、独立したものであって、だから、いつ死んでも影響はないと、そう思っている」
「それは、建前のひとつに過ぎないよ」
僕は彼女の方を向いて言った。
「うん、知ってる」
彼女は微笑んで言った。
僕は彼女を凝と眺めた。
「もう、そんなに見ないでよ。見詰められると恥ずかしいし、そんな猜疑の眼をしていたら、色白の可愛い顔が台無しだよ」
彼女がそう言うので、僕は眼の遣り場に困り、結果的にそっぽを向いた。俄に、雨の匂いが何処からか漂ってきて、僕の鼻を擽った。僕はカーディガンの指に至るほど長い袖を顔に近付け、軽く擦った。
「例えばの話をしようか」
「うん」
「もしも、君が時を跨ぐ力を持っていたとして、戻るならいつ、どのような時に戻るだろう?」
「進むという選択肢はないの?」
「設定してもいいけど、無意味でしょ? 未来はたった一秒先でさえ確定していないんだし、考えるだけ無駄なんだから」
「戻るなら……ねぇ、それって訊くまでもないことでしょ? 君は、自分が予想した答えが返ってきて、それで楽しい?」
「つまらないってこともないよ。投げ掛けた質問に予想の範疇の回答がきたら、それは相手を自分の思考の内側に閉じ込めてしまったようなものだから。人間は支配的な生き物で、だからこそ、弱肉強食なんて概念を作り出した。食うか食われるか、なんて、態々考えなくてもいい些末なことなのにね。私もこう見えて、些細なことを支配したがるし、君だって、支配されたい人間ではないよね」
彼女は澱みのない口調で言い、最後に「それでさ、君はいつ何処に戻るのかな。教えて?」と言った。
「戻るなら……やっぱり、君の前で言いたくはないよ。今更なことだろ、って笑うかもしれないけれど、そんな軽々しく言いたくはないよ。戻ったところで、僕には何もできないし」
「過去を改変してはならない、ということに忠実なの?」
「そうじゃないけれど……でも、変えてはいけないとは思う。漠然としていて、はっきりした理由なんてないけれど、僕は戻らない。そもそも、君が言う僕の時間の解釈に則れば、僕が過去を顧みることに意味なんて生じ得ないんだから……戻るなんて万にひとつもないよ。確かに『戻れるならば戻りたいような気がする』時間はあって、答えるまでもないことだと思うのだけれど……僕は戻らない」
「もしも、明日世界が終わっても?」
彼女はそう訊ねた。浜木綿の花を思わせる優しげな口調だった。
「それもわかっていて訊いているんだよね?」
僕は彼女の方に顔を向けて言った。
「それは、日々願って願って止まない、そうであるならどれだけ嬉しいだろう、ってことなのに」
彼女は微笑みながらカフェオレを飲んだ。
僕は少しむっとして立ち上がり、態とらしく毅然とした態度で歩き、ホームの白線で止まった。錆びた線路が、老いたように横たわっていた。あと幾何続くかもわからないような廃れ気味の路線である。
「例えばの話なんだけれど」
不意に近くで声がして、振り返ってみれば、彼女が立っていた。陽に照らされた彼女は絵の中のナポレオンのように立派に映った。
「もしも、この路線が廃止されたとして、ここに敷かれた線路やこの駅はどうなるんだろう? 人里から逸れた文明の遺構として末永く残るのだろうか? それとも解体されて、何もなかったかのように偽装される?」
「残ると思うよ。これらを全部剥がして、壊してなんかしたらお金が掛かる。廃止されるということは維持するだけの余裕がなくなったから。先見の明で切り捨てたとしても、そこにありったけの余裕なんてないし。だから、君の言うように、線路も無人駅も、文明の具体的な痕跡として長く長く残って、終いには自然に覆われてしまう」
「そうだね。私も同意見」
彼女はそう言うと僕の横に並んで立った。
「でも、それって美しいと思わない?」
「うん。美しいと思う」
「どうして、壊れていくものに美しさを感じてしまうんだろう? 生誕や完成なんかのビギニングより、死滅や破壊なんかのエンディングが美しいと思ってしまう。ドミノなんかもそう。倒れていく様が完成形」
「それは、僕にはわからない」
「私もわからない」
彼女は一歩前へ、白線の外側に出た。
「何が美しいんだろう?」
「わからない」
「うん。ね、手を強く握り過ぎだよ。いくら君の孅い腕力でも、爪を立てたら痛いんだから」
僕はいつの間にか彼女の腕を力いっぱい引っ張っていた。彼女にそれを指摘され、慌てて手を離した。その様子を見て彼女が柔和な笑みを浮かべた。僕は自分の心拍数が乱高下しているような、精神が乾いて糸のように解れていくような、何にせよ極めて不安定な感覚に陥っていた。
「もしも、君が私のファンだとして、私が駅を駆け抜ける電車に飛び込んで、肉片を四方八方に散らしたとして、その肉片をファンサービスだと受け取ってくれるかな?」
「肉片……」
「そう、肉片。血、筋肉、内臓、神経、骨、皮膚、毛髪。私を形作る色々。君は受け取ってくれる?」
僕は彼女の肩に手を乗せる。自分の中で血の気が引いているのがよくわかった。その光景を想像した時、グロテスクだとか、悲惨だとか、そういうイメージは浮かばず、ただ、真っ赤な花弁が、はらりはらりと舞うイメージだけが鮮明に映像化されていた。僕は両の手をくっつけて、彼女の飛び散った欠片を受け取り、それが手の上でまだ細かに動いている様を恍惚とした表情で眺めている。
「冗談だよ」
彼女は言った。
「悪い冗談だった。ごめんね。私、もう前後左右を失くしてしまったから。君に酷いことを言っちゃった。冗談なんかじゃないよね、君にとっては。あのね、君はまだ君だけじゃないんだよ。前も後ろも、左も右も、まだ君にはあるんだから」
彼女は白線の内側に戻ってきて、僕の頭を撫でた。
あまり変わらない背丈。
僕の方が髪が長い。
彼女の口は弧を描き、僕の口は縫い止められて。
彼女の眼は鴉の羽ほどに黒く艶やかなガラス玉で、僕の眼は出来損ないのくすんだ真珠のよう。
途端に酸素が薄くなる。
彼女が僕の背中を撫でる。痩せぎすの身体を撫でる。
熱っぽくなって、頭が緩やかに回り始めて、それは杜撰な設計の観覧車のようにふらふらと、その回転は宙の遥かに浮かぶ天王星のように奇を衒って、少女然とした細い足は夜の香を秘めた人跡未踏の砂浜に突き刺さって、遠方より来ては砕け散る波に洗われて、これまた遠方より到来したガラス玉のような流星の落下に伴う青白い光に照らされて、激しい眩暈が生じて、夏の点景に過ぎない僕は嘔吐した。そして、緩やかに落下するように意識との接続を断った。
そして、暗い暗い深海のようなドーム状の世界の中空の船の上、僕は紫の大輪の花を胸にして、仰向けになっていた。
やがて、僕は沈んでいく。だから歌った。それはオフィーリアのような最期に期待しての安っぽい真似事だった。
幽かな振動が僕を攪拌していた。
「眼が醒めた?」
彼女が僕に言った。眩暈の残滓に頭を振って、視界が判然としてから周囲を見回すと、何でもないデザインの金網と吊革があって、窓の外の景色が刻一刻と変化していて、今は電車の中にいるのだと悟った。意識と断絶している間に電車が来たようだ。
彼女は僕の向かいに座っていた。
「おはよう」
「うん」
「電車の中だよ」
「うん、わかるよ」
僕は白いロングのワンピースから伸びた足を組み、窓の向こうに眼を遣った。車内の冷房が効き過ぎていて、サマーコートを羽織っていても、それは有効な防御として働かなかった。
車窓には茫然とした海が映っていて、遥かには膨張した白い雲が点在していて、それぞれが海原に影を作り出していた。あのような雲なら乗ることが叶うだろう、と僕は想像して、自分の相変わらずの幼稚さに辟易しつつ、可笑しく思えてきて思わず笑ってしまった。
「もう、ひとりで笑って……どうしたの?」
「ちょっと、シュールだったの」
「何が?」
「僕」
「あぁ……」
「同意しないでよ」
「自分で言うのだってシュールなんだもん。ちょっとシニカルだし、リザインドな感じもするよ。でも、大きな視点にシフトしてみれば、人間ってシュールな生き物だよ。人間は、現在の生きている自分たちが世界の中心にいると思っている。過去とも未来とも離れて、それは君の思う時間のような感じでさ、それこそ、事象を都合よく解釈する」
「そうだね。人間ってそうやって歴史を作ってきたんだから。今に合致すれば何でもいいって風にして」
僕は一纏めにした三つ編みを、前に持ってきて弄りながら言った。
「でもさ、僕たちもその人間なんだよね」
「そう。何を言っても自分たちに返ってくる」
「人間を辞めてしまおうって思う時があるよ。僕には人間らしく生きることが難しいから」
「そうだね、君は下手だもんね。でもね、それでいいと思うんだ。無理に人間らしくって努めなくても、君は何処まで行こうと君であって、君以外にはなり得ないんだから。どれだけ荒んでも、ね」
「ねぇ、もしも……」
僕は言い掛けて言葉に詰まった。
「何?」
「何でもない」
「もしも話がしたい?」
「……うん」
「それなら、オーソドックスに、もしも、明日になるとともに死んでしまうとしたら、今日の夜は何を食べたい?」
彼女は穏やかな表情で言った。濃紺のサマーベストに緑色の蝶ネクタイが映えていた。肩から伸びた白いワイシャツの袖の皺の陰影が、不思議と蠱惑的に見えた。
「君から」
「私はね、甘いスイーツでも食べるよ。甘い夢の中で」
そう言って彼女は手を振る仕草をした。
「君は?」
「僕はその時に食べたいと思うものだろうから……今食べたいものを挙げるなら、僕はミルフィーユがいいかな」
「どうしてミルフィーユ?」
「ミルフィーユってたくさん重なっているでしょ? だから、その時が来るまで、一枚一枚丁寧に剥がして食べるの。無意味に思われるかもしれない。よりにもよって最後の最後に、って思われるかもしれない。会いたい人に会うでもいいし、やり残したことをやってもいい。でも、所詮は意味のない人生なのに、最後に意味のあることをしようなんて、意地が汚いと思わない? 最後に自分を美化しようとしているようで、下らないと思ってしまう。それはきっと僕が捻くれているからで、周りのみんなが意味のあることをするから、自分はそれに倣いたくないって天邪鬼な精神なんだ。だから、もしも、もしもね、自殺するなら、とびっきり意味のあることをしてからがいい」
僕は長々とそう言った。喉の奥が少し熱を帯びた。ふたつほど咳払いして、組んでいた足を解いて伸ばした。不器用に靴紐が結ばれた黒いスニーカーは、悪癖のために踵が草臥れている。
彼女は僅かに足を動かし、ローファーを僕と彼女のちょうど半分の距離に持ってきた。
それを見て僕はスニーカーの爪先を彼女のローファーの爪先にくっつけた。小さな恥じらいの種が鳳仙花の実のように弾けて、僕と彼女の間には和やかで冷ややかで、純粋無垢な空気が優しく渦巻いていた。
彼女が鞄から徐に単語帳を取り出して開いたので、僕は窓の向こうに眼を遣った。さっきまでは清かな蒼穹が箱庭のように展開され、そこには無数の綿雲が、一定の湿潤的な質量を備えて浮かんでいたが、今はそれらが結合して、灰色になって、より質量を蓄えて、低く低くうねっていた。
水面に小さな穿孔がアンニュメラブルに浮かんだと思ったら、やがては車窓を叩きつけるほどに降り出した。
「例えばの話ね」
彼女が不意に言った。彼女は単語帳を腿の上に置き、眼を窓の向こう、鈍重な灰色雲に向けていた。
「自分で死ぬ日を選べたとして、君はどんな空の下がいい?」
「僕は、何でもないような、ただ漠然としていて空虚な星もない濃紺の夜の下がいい。或いは、夏の午前四時半過ぎ、東で幽かに火が焚かれ始めた空の下がいい。君は?」
「私はどんな空がよかったかな」
「確か、晴れていたね。星はあった?」
「田舎だからね、あったかもしれない。けれど、見慣れてしまっていて気にもしなかった。もっと気にしないといけないことがたくさんあって、それらに気を取られていて、今思えば、何だったんだろうって」
彼女は小さく笑みを浮かべて言った。
「私たちは、何もないようで何もかもがある現実と、何もかもがあるようで何もない夢を行き来して、日々の釣り合いを保っていてね、それが時々壊れることがあるんだ。この世には完全なものなんてないから仕方のないことではあるけれど。釣り合いが壊れたら、現実が夢に侵されて、夢が現実に侵されて、酷くふわふわする。ふわふわ浮くように歩いていたら、射抜かれるんだ。間引かれるようにね」
「誰が撃ったの?」
「そんなのわからないよ。現実の誰かかもしれないし、神様のような妄想染みた代理の存在かもしれないし、自分自身かもしれない」
「自分自身ではないと断言できないの?」
「君は自分を何処まで知っているの? 君が靴の踵を踏む癖とか、爪を噛む癖とか、自分嫌いなところとか、君が自分について知っているのは、表面的な部分に過ぎないんだよ。君は気付いていないかもしれないけれど、君の釣り合いはもう壊れているの」
彼女は僕に手を伸ばして言った。手は僕の眼の前で止まって、僕はその手に縋るように両手で握った。
「君は自分がとても精神的に強いと思っている。そう思い込んでいる。でも、そうじゃない。本当に強いのなら、私はここにいないから」
彼女は微笑んだ。
釣られて僕も微笑んだ。
電車がトンネルに入った。車内のルクスが不足気味の人工的な白い灯りが彼女の表情を照らした。長い長いトンネルを進むうちに、僕は気不味くなって俯いた。気味の悪いほどの静穏が怖かった。
「例えばの話、もしも、今も私がいたら、君は違ったのかな」
「わからない」
「同じ道を辿ってしまうのかな。全部が失敗だったと思い込んでしまうのかな。ぼんやりとした未来にずっと不安を感じているのかな。そして、死んでしまうのかな」
彼女は言った。
「たくさんの文字を紡いで、想いを形にして、それでも不足で、理想には遠くて、常に終わりの在り方を探してしまう」
「病気なのかな」
「正常ではないよ。病的なまでの二面性が君の中にあって、君をずっと苛んでいるんだよ。壊れたのはいつ? ずっとずっと前のこと?」
「憶えていないよ」
「君のそれは潮解したみたい。君にとって望ましくないものと接し過ぎた結果、君は形を失くした」
彼女は身体を動かして、僕が掴んでいない方の手で僕の頬に触れた。
「君の中での私のイメージは刻々と変わっているんだと思う。今の私は理想化? 或いはもう形骸化してしまった姿? あのね、私は、記憶の中の私が君を苛む毒になり得るようなことがあって欲しくはないんだ。せめて、記憶の中では綺麗なまま、君の助けになれたらいい。記憶というものが大概は毒を放つものであることはわかっているよ。でも、だからこそ、私はそうでありたくないの」
彼女はゆったりとした口調で諭すようにそう言った。
「今の世界は君を歓迎しないかもしれない。でも、だから何? 君は悪いことをしたわけでもないんだから、堂々と生きていればいいんだよ。きっと、これは君の言葉なんだろうけれど……君は今のままの華奢な女の子でいいんだよ。今までもこれからも」
「……僕は、相変わらずエンケラドゥスが好きだよ」
「うん、それでいいんだよ」
彼女は微笑んで言った。
電車が長い長いトンネルを抜けた。電車は海沿いの高台を走っている。僕は立ち上がって、通路を挟んだ反対側へ移動し、そこから景色を見下ろした。眼下にはジオラマのように街があり、灰色の少々弓形の一本線を挟んで砂浜があった。
線路沿いには浜木綿が火花のような白い花を見せていたり、梅花空木が小さくて清廉な白い花を無数に開かせていた。
車内にアナウンスが流れる。
僕は眼を閉じる。
花を摘むイメージ。
海を描くイメージ。
傾く。
どうして、頭の中では走れないのだろう。
どうして、それが愛しいのだろう。
無数の世界が創られて亡んで、涙の雫のように枯れて、行き着く先は何処かの夜、項垂れる少女然としたシルエット。
「君が君であるのなら、私は君の一部のままだよ」
電車が速度を落とす。金属の軋む音。いつかは廃れて遠くなっていく。そして、緩やかに景色が止まる。
「もしも、君が生きることを選ぶのなら」
「うん」
「それでいいよ」
「うん」
ドアが開き、僕は電車から降りる。途端に蒸し暑くて息が詰まるような大気が僕を包んだ。空を見たら、眩暈がするほどの光が僕を射抜いた。
やがて、ドアが閉まり、電車は発進する。
車窓に君はいない。
僕は手を振る。
電車はみるみるうちに遠くなっていく。
僕はスキニージーンズの生地を摘まんで離す。梅雨時の湿気とは相性があまりよくないようだ。
ホームの端の自動販売機でカフェオレを買って、誰もいない廃墟のような駅舎の、罅割れたベンチに腰掛けた。
空は快晴。風雲がゆっくりと流れている。
線路の向こうで梔子の花が咲いている。
直に日が暮れ始めて、ここはすっかり闇に溶け落ちてしまうだろう。ここには目ぼしい灯りなどない。しかし、そうなったら星が綺麗に灯るかもしれない。ひとりで星を繋ぐのは寂しいだろうし、僕には星座がわからないから、きっと、幼稚な架空の星座を作り出してしまうだろう。けれども、星座とは何処まで行っても空想の域を出ないものであるとも思う。
そんなことを考えていたら、昼の終わりの優しい風が木々を抜けて届き、僕の髪を揺らした。何だか、ここにいてはいけないような気がして、僕は駅を後にした。
こうして、十九回目の夏が始まりを迎える。