3-14 力学
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授業が始まる前に、私はフォルタ・ブルレイドに声をかけた。
「珍しいですね、あなたが話しかけてくるなんて」
ニコニコと笑いながら、小柄な少年が応じる。だが瞳にあるのは親しげな色ではなく、どこか冷徹で、鋭い光だ。
「エモッカ公爵があなたの屋敷を訪ねたとか」
そう切り出されて、私は危うく呻きそうになった。そんな私をよそに、フォルタは話を続けている。
「それくらいの情報は入ってくるものですよ。モランスキー伯爵もやはり二流の貴族ということですか。今の貴族は、遠くを見る目と、小さな音を聴く耳と、そして長い手を持っているものですよ。これは善意で教えておきます」
「ありがとうございます」
やっとの事でそれだけ答えると、フォルタが頷く。
「で、エモッカの彼を黙らせて欲しいですね? それもグリーズ様の力で」
「その通りです」
嫌な予感を感じながら、どうにか答えた。
「あなたは何を差し出すのですか?」
予感が現実のものとなる。事前に想定していたことだが、この少年の様子は実際に相対して見ると、まるで何才も年上の大人を相手にしているような気持ちになる。動かない壁を動かそうとしている気がした。
金を払う、という旨を伝えると、少年は軽蔑する視線を向けてくる。
「その程度の金で動くのは傭兵のやること。そして僕も家も、金は必要としていない」
「では、何がよろしいですか?」
フォルタが目を細めて、何かを考えたようだった。
「エモッカ公爵は、財務尚書の右腕ですからね、その仕事を混乱させられますか」
「どういうことですか、それは」
「金銭的な問題がオルガン様の取り巻きにある、という可能性です」
絶句するしかなかった。
貴族たちは子弟同士でも激しく衝突しているのだ。誰にも見えないところで、誰にも気づかれないように。
「モランスキー伯爵の腕の長さでは、届きませんか?」
私は、努力します、としか言えなかった。
その日の夕方、屋敷に帰った私は使用人を統べている執事を呼び出した。私が観察して作ったオルガン・グレンの派閥の生徒の名前の一覧を手渡す。
「この中で、くみしやすいものを探り出して」
「お嬢様、それは」
「黙ってやって。必要なことなの」
執事は黙って頭を下げ、部屋を出て行った。
私自身に出来ることは、ほとんどない。
それでもエモッカ公爵の屋敷へ出向き、謝罪する意思を見せたが、エモッカ公爵も、ケーニッヒも顔を出さず、使用人の中でも身分の低そうなものが、私を追い払っただけの結果しかなかった。
王立騎士学校ではできるだけ目立たないようにしたが、オルガン派の生徒たちは教官をいいように操縦し、私は稽古という名義で木刀で叩き伏せられたこともあった。
そうして三日もした時、執事が情報を持ってきた。
「トルソン・オーレールという生徒の父親である、オーレール伯爵には、人身売買の記録が見つかりました」
人身売買。それもまた、シルバストン朝大陸王国が禁止していることだ。
「密告して。こちらの素性がわからないように」
「本当によろしいのですか、お嬢様」
「仕方ないわ」
執事は一礼して、部屋を出て行った。私の私室には沈黙が降りてきたが、いつになく重苦しい空気を伴っていた。
それからさらに三日が過ぎると、王都ではオーレール伯爵の人身売買が取りざたされ、オーレール伯爵は貴族の犯罪を取り締まる近衛騎士団の中の部署に拘束され、屋敷も捜索された。
「意外に長い手がありましたね」
教室で、そんな風にフォルタが声をかけてくる。やはり感情を上手く隠した表情で、笑顔なのに本心で笑っているかわからない、そんな顔だった。
「グリーズ様には、あなたのことを紹介しておきましょう。それで少しは、風向きも変わるはずです」
「ありがとうございます」
頭を下げると、フォルタが一層、声を潜めて、囁いてきた。
「僕はいつまでも、この立場でいるつもりはありません。あなたはどういうつもりですか?」
わずかに顔を上げると、そこには今までなかった真剣な表情の少年がいる。
「自分こそが上に立つ、という気概がないのですか」
私はどう答えることもできなかった。
ないわけがない。しかし今、それを見せるのは危険だと本能も理性も、声高に主張していた。今の私には、野心や野望を見せることさえ許されないのだ。
「ブルレイド公爵家をお助けできれば、と思います」
私の返事を受けても、少年は真剣な顔をしていたが、ふっと表情を緩める。
その日の昼間に、一部の貴族たちが使う個室でのサロンに招かれ、私は間近にグリーズ・ポルメタスという少年と接した。
椅子にだらしなく腰掛け、気だるげに私を見て、それから彼はフォルタを見た。
「使える? 使えない?」
断片的すぎて、何を言っているかわからないが、それは私だけらしい。部屋にいる貴族の子弟五人ほどがクスクスと笑っている。
真面目くさった様子で、フォルタが答える。
「使えると思います」
そうか、とグリーズが体を起こし、手を差し伸べてくる。握手しよう、ということらしい。
彼の手を握ると、どこかぬるっとしていて、不快な気持ちになった。表情には浮かべないように、努力した。
「よろしく、モランスキーさん」
私は、はい、と短く答えて首を垂れた。
周囲からの貴族の子どもたちの視線に不吉なものを感じながら、私は勧められた椅子に座り、彼らの雑談に集中した。
私はもう、踏み込んでしまったのだ。
暗闘の舞台に。
(続く)




