2-38 知らせ
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密林の中を駆け抜け、足を止めると同時に前方を走る鹿へ矢を射る。
ハズレだ。しかし私が本命ではない。
横手から甲高い音を立てて飛んだ矢が、鹿の首から入り、腹の下から抜けた。鹿は鳴くこともできずに絶命し、倒れこんだ。遠くで指笛がして、私もそれに返す。
私の視界の中では、強弓を背中に回してルドがゆっくりと鹿へ歩み寄るのがわかる。私もそちらへ向かった。
先に鹿にたどり着いたルドは、もう縄で縛りあげ、担ぎ上げようとしている。鹿も大きいのだが、ルドの剛力の前では形無しだった。
「へい、フランジュ、遅かったな」
「もう仕留めたしね」
蛮族の言葉で話しかけられ、私は蛮族の言葉で答える。
すでに一年以上をガザ島で過ごし、自然と蛮族の言葉を覚えたのだ。ユリアがいてくれたことも大きな力になった。大陸の言語と擦り合わせられるので、関係性がよくわかる。
鹿を背負ったルドに続いて、二人で集落へ向かう。
「フランジュ、俺を大陸へ連れて行ってくれることは、どうなった?」
そんなことを言うルドは、体格や技術的には何の問題もないけど、重大な問題がある。
「だってルド、あなた、言葉が喋れないでしょ」
「できる、言葉、問題、ない」
大陸王国の言葉を話すルドだが、あまりも拙くて、笑ってしまう。ジロリと睨みつけられても、笑うしかない。
私にとって蛮族との生活は新鮮なものだった。動物の皮を身にまとい、狩猟と採集で日々を過ごす。外部との関係は極端に少なく、港にすら行かないのだ。氏族だけですべてが完結する、小さすぎる世界。
その居心地のいい場所に、私の方も新しい風を吹かせたようだった。
シーヴァが繰り返し嘆くのは、若い戦士たちが大陸に行きたいと言い出している、ということだ。
蛮族の男たちには私がここへ来たことで、世界に大きな可能性があり、自分たちが成功する夢を持つ資格がある、という当たり前を教えてしまったようだった。
まぁ、ルドを筆頭に、何人かは傭兵として生きていける技量があるし、もしかしたら大陸王国の中心、王国軍や騎士団に入団する余地もある。
それでもやっぱり、言語の壁は高すぎる。
「もっと流暢に喋りなさいね、ルド」
「お前とユリアが教えてくれれば問題はない」
「もうそう言いだして半年が過ぎているけどね」
密林の中には涼しげな風が吹いていて、夏はとうに過ぎ去り、長い夏さえも終わろうとしているのは、感慨がある。
ルドと戦士たちは、私を敬うことはなく、身近に接してくれる。一部の女性やシーヴァとのその教え子の二人の神官たちは、私を騎士殿と呼んでいて、そちらの方は今でも違和感がある。
私は日々の中で、自分に身についた視力の確認を続け、今では本来の目では視認不可能な遠くまで、見通すことができる。鹿や熊を仕留める時、これが役立つので、狩猟を受け持つ戦士たちからすれば、伝説の覇気の騎士の生まれ変わりの能力も、狩猟の道具の一つになってしまうわけだった。
集落へ戻ると、ルドはすぐに鹿を解体し始める。今度は私が生徒になって、彼の手際を観察する。あまりにも鮮やかで、熟練の業者にも見える。血液さえ無駄にしないのだから、すごいものだ。
女たちに算術を教えているユリアの声が聞こえる。彼女は週に三日は私と共にいくつかの氏族と接触して、何かの統計を取り、聞き取りをする他は、ホルド族の集落で教師をやっているのだ。意外に似合ってる。
平和で、穏やかな毎日だ。こんな日々がいつまでも続けば、いいはずなのに、私は結局は異邦人で、ここは私が生まれた場所でも、育った場所でもない。それが悲しい。そして寂しい。
私もどこかに落ち着く場所を探し出す必要がある。
十七歳を過ぎた私は、何度目かわからない決断の影を身近に感じ、しかしまだ大丈夫、と先送りにしていた。
その日の夜、鹿肉を食べている途中に、密林をかき分けてやってきたものがいる。
それはキュロル商会の男性で、最初に私とユリアをここへ連れてきた人だ。名前は、オルキという。オルキが何かの書状を、ユリアに差し出す。ユリアが目を丸くして、すぐに中を検めた。
読み終わった彼女がため息を吐く様は、明らかに不吉だった。
「フランジュ、これを読んでみて」
差し出された便箋を受け取り、目を走らせる。大陸王国の言葉が綴られていて、読み進めるうちに、そんなことがあるのかと、我が目を疑った。
大陸王国の首都で、貴族の一部が武装し、私兵を集め始めているという。この手紙を書いたのはキュロル商会の中でも穀物の輸送に関する仕事についているもののようで、大陸王国の各地で兵糧としての買い占めも起こっているようだ、と書かれていた。
「どういうことかしら」
ユリアの投げかける疑問に、私はどう答えるべきか、迷った。
「反乱、ではないでしょうけど、武装蜂起をチラつかせて、何かを陛下に飲ませるつもりかも」
「こんなところにいるわけにはいかないかな」
私たちはこの時、大陸王国の言葉で話していた。ルドがヌッとやってくる。
「何かあったようだな」
ええ、まあ、などと答えて、結局、彼らには関係ないからと全てを話した。
「反乱か。なら武力がいるだろう」
「武力?」
「俺たちだ」
ルドが声をかけると、二人の男がやってくる。その二人はルドより二つほど年少の、しかし有望な戦士だ。
「あのね、ルド、二人が三人になっても五人になっても、どうにもならないわよ」
「俺たちは一騎当千だ。わかるだろう?」
一騎当千は過剰だとしても、ルドは一人で並の剣士なら四人は相手取って渡り合えるだろう、とは思う。しかし五人、六人とぶつけて潰すのが、集団戦の定石でもある。
「もう少し言葉がうまくなってからね」
いつものやり口で彼らを下がらせ、私はシーヴァに正直に話した。もうここにいるような余裕はない、というしかなかった。
蛮族の島で過ごしても、結局は私は蛮族ではないし、大陸王国には知り合いが大勢いるのだ。
「悪を討伐するのが、お前の使命だよ」
今でもまだ、シーヴァは覇気の騎士の伝説を信じているのだ。
「やるべきことをやるのみです、騎士殿」
「私に奇跡を見せてくれて、ありがとう」
私は彼女に深く頭を下げた。
翌日の朝には、私は蛮族流の動物の毛皮の服を脱ぎ捨て、大切に保管していたここに来た時の服に着替えた。ユリアも本来の格好に戻り、蛮族たちに別れを告げた。
「また会えることを願う、覇気の騎士殿」
シーヴァがそう言った途端、蛮族たちは奇声を上げて、踊りを始めた。去る者を祝福する踊りだと、私もユリアも知っていた。
こうして私は一年と少しの、蛮族との生活に終止符を打った。
もう歩き慣れた密林の中を抜けていくうちに、小さな喪失感があった。蛮族たちのように生きられれば、また少し、私の人生も変わったかもしれない。
でも私は今の場所に立つまでに、多くを経験しすぎた。
捨てられるものと、捨てられないものがある。
いつか、と思った。
いつか、この島へ戻ってこよう。
ホルド族の集落は見えなくなり、舞い踊る彼らの声も聞こえなくなった。
(続く)




