2-33 回復
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寮を同室の友人たちと一緒に片付け、私はハンス教官の自宅に居を移すことになった。
「俺の不手際でもある」
なんてハンス教官は言っていたけど、ハンス教官からすればあと少し早く駆けつければ私を助けられたとはいえ、私からすれば十分にハンス教官の行動は迅速だった。
トリトーン夫人が私の面倒を見てくれて、病院にも付き添ってくれた。
体の動きを取り戻す訓練と、薬物による治療が続けられたけど、いつの間にか私の体は痩せ細り、弱々しくなっていた。
「まだ若いんですから、大丈夫よ」
トリトーン夫人が慰めてくれる。その言葉にすがるしかなかった。
ハンス教官は王立騎士学校を辞め、どうなるかと思ったら、貴族の家に剣術指南役として雇われていた。ガナッシュ家からの追及や妨害を防ぐには格好の盾らしい。それと同時に、ハンス教官を招いた貴族は、自分たちが正しい評価を下す存在である、とアピールできるということもありそうだ。
日々はつつがなく過ぎていき、私の体は動きを取り戻していった。
ただし、目はよく見えないまま、回復しなかった。視力があまりにも落ちていて、それは例えば、目を細めたりしても、何も変わらない。杖は必要ないが、細かな字は読めないし、遠くも見えない。
寮の仲間たち、三人の少女はそれぞれの道を進んでいる。
エマは故郷を治める子爵の元で守備兵をやっている。ミリカも同じように故郷に戻って、こちらは武術の訓練を行う道場のようなところで働きながら、領主の男爵にも個人的に招かれていると伝え聞いている。
エマなんかは、ミリカは顔が可愛いから得をしている、などと手紙の最後に漏らしていたけど。
ユリアは一年間、王立騎士学校を離れていたせいで、まだ六年生で王都にいる。たまに訪ねてきて、ハンス教官に王立騎士学校の様子を話していく。
そこはウォルフォン教官からも情報が来る。どうやら王立騎士学校では貴族の発言権が弱まり、独立性が少しだけ取り戻されたようだった。それでもまだ、シルバストン朝大陸王国の王族と貴族と平民の間にある極端な格差は、まだ何も変わっていないのだ。
「特権は蜜の味でな、一度、味わうと忘れられないのさ」
ウォルフォン教官と酒を飲みながら、ハンス教官が顔をしかめていた。
「金を奪い、娘を奪い、暴力を振るい、しかし誰もそれを咎めない。何の苦労をせず、他人の苦労の報酬を掠め取って生きていける。悪くない世界だろうな、連中からすれば」
「悪くない貴族もいますよ、あなた」
トリトーン夫人が口を挟むと、ハンス教官は表情を整える。
「確かに俺を雇うような貴族もいる。このまま変な旗印にされちゃあ、たまらんが」
「それにはウォルの方が向いていますよ、あなたよりはね」
そう言葉を向けられたウォルフォン教官は苦笑いしていた。
私はそんな大人たちの様子に、今のこの国は力があるもの同士が暗闘を繰り広げる、密かな内紛状態にあるのではないか、という感を抱いていた。
地方を治める貴族たちの私兵の話もある。権力闘争は今はさほど強くはないが、それが表立ってくれば、次にやってくるのは、新勢力の武力による権力の奪取か、今の権力者が新しい形で力を再確立させる段階のはずだ。
再確認の過程をまとめていくのが王であろうけど、ジャニアス三世は、どれほどの関心を払っているのか、わからない。
「陛下は賢明でいらっしゃる。いずれ手綱を引くだろうと思うがね」
ウォルフォン教官がそう言って、杯を傾けた。
季節は過ぎていき、この年は酷暑になった。王都では季節外れの風邪が蔓延し、私も病院に行っていたせいでそれをもらってしまった。トリトーン夫人の看病で回復したけれど、毒のせいでまだ体は力を取り戻していないのが実感できた。
体力を取り戻すために、まだ暑さが残る王都を走り、余裕があればハンス教官が働いている貴族の家を訪ねた。そこで訓練を共にするのだけど、当の貴族に変に勧誘されて、大変だった。
老人の侯爵が私に笑みを見せてこう言うのだ。
「皇太子殿下の覚えもめでたいとか。どうかな、うちに仕官しないかね」
病人ですので、とか、未熟者ですから、とか、かわしているけれど、これではハンス教官の前では本当の稽古ができそうになかった。
私はウォルフォン教官に頼み込んで、同時にユリアの筋からも口添えをしてもらって、王立騎士学校を利用させてもらうことにした。
学校が侯爵の次期当主と揉め事を起こした卒業生を招くのには抵抗があっただろうけど、最後には学校が根負けして、私は敷地へ入ることを許され、ウォルフォン教官の指導を受けることができた。
指導と言っても私は技を習得しているので、体力を取り戻し、感覚を取り戻すことを意味する。
本当に習得するべきは、弱くなってしまった視力で戦う方法だった。
今まで、視覚に頼ることばかりだった私には、この焦点を結ばない世界は、別世界に近い。相手の打撃を、立ち位置を、視線の先を、何も知ることができない。直感はあっても、それはともすると願望になり、そして最適からは逆に遠ざかることもある。
私が磨いてきた技は、極端に最適化された、無駄がないか、管理された無駄で相手を崩すという、言ってみれば研ぎ澄まされた針の先のような、細い上に細い技だった。
秋になった頃、休憩の間にウォルフォン教官が控えめな口調で話し始めたことが、この時には伸び悩んでいた私に新鮮な風を吹き込んだ。どうやらウォルフォン教官も色々と調べていたらしい。
「伝説の上では、ということになるが、大昔に隆盛を誇った魔法使いたちの生き残りが、今も生きている場所がある」
「魔法使い、ですか?」
「そう。魔法使いなら、お前に新しい目を与えられる可能性がある」
私が彼を見ると、ウォルフォン教官が視線を向けてくる。
「ガザ島だよ、知っているな?」
「蛮族が住む島ですね? 蛮族が魔法を継承しているとも思えませんが」
ガザ島は大陸王国の領地の東海岸にほど近いところにある島で、自治権が認められているというのが、表向きの形だ。実際には自治権というより、極端な税を課して、封じこんでいるといつか、座学の中や噂で聞いたことがある。
「太古よりの特殊な魔法は蛮族の信仰に関わるらしい。行ってみたらどうだ?」
「魔法で眼が治るでしょうか」
「わからないよ、行ってみなくては。しかし今の医療では治らないだろう?」
「それは、そうですが……」
冬は海が荒れる、という言葉でウォルフォン教官は話を打ち切った。春までに決めろと言っているのは、もう長い付き合いなので、私にはわかる。
そうして冬がやってきて、私は体力作りを続け、春が来た。
蕾が一つ二つと花開く頃に、私は出立を決めた。
ガザ島へ、向かうのだ。
(続く)




