2-31 愚者と愚者
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何か冷たいものが脇腹に差し込まれた。
そう気づく前に身を引いて、反射的に歩技で間合いを取った。
そこにいるのはガンダ・ガナッシュだった。珍しく一人だ。背ばっかり伸びて、心は矮小なままの、愚かな男子生徒。
その手にはナイフがある。血に濡れている。
脇腹の冷たさが灼熱に変わる。
こんな間抜け相手に手傷を負うなんて、情けない。
急にガンダが顔を歪めたので、怯えているかと思ったが、違う。醜い顔で、笑い出したのだ。バカ笑い、際限のない笑いだった。
「お前だ、お前が悪いんだぞ」
笑いの隙間でそんなことを言う。
「近衛騎士団にお前が入るなんて、ありえない、ありえないんだ、そこは、僕が入るべき、僕のための席だ、お前が、お前がそこに、入れるもんか!」
本当に頭がどうかしているようだ。
それもそうか、人を殺そうとするほど、この青年は追い詰められているわけだ。
冷静に考えて、そして自分を客観視すれば、ガンダの技量で近衛騎士団に入れるわけがない。親のコネを使っても、難しいだろう。入れたとしても、ついていけないのは目に見えている。
自分の実力を知らないものは、不幸かもしれない。
自分の本来的な力と、自分の中の純粋な願望がすれ違うのも、やっぱり不幸だ。
では、私はどうだろう。
与えられた最上の席を蹴って、何をしようとしている?
それはあるいは、望んでも叶えられない立場の誰かを、侮辱しているのか?
そこまで考えたところで、悪寒がして、左足が急に言うことを聞かなくなり、力が抜けた。何だ? 膝をついているのに、感覚がない。
まだガンダはゲラゲラと笑っている。
「死ね、死んでしまえ! フランジュ・クリーア、お前なんか、いなくなれ!」
私の名前を覚えているとは、ありがたくて涙が出るよ。
声を発することが、できなかった。体が重くなり、今度は軽くなる。まるで体がなくなり、地面が近づいてくる。倒れてしまう。手で体をかばっても、その手に力が入らない。
地面の匂いを感じながら、首をひねって、ガンダを見る。
狂気そのものの哄笑をあげながら、彼が近づいてくる。
魔技を使いたくてもその余裕もない。
青年の手の中でナイフが逆手に持ち変えられる。
こいつはどうも、致命的な一撃で私も終わりかもしれない。体は動かない、魔技も使えない。
ぼやけ始めた視界で、歪みに歪んだ顔で、ガンダが屈み込んだ、ナイフが振り上げられる。
終わった、と思わなかったのは、きっと私が楽天家だということになるかもしれない。
だから、目の前で誰かの膝がガンダの側頭部を痛打し、彼の姿を視界から消してしまった時、助かったとも思わなかった。なんとかなったな、という程度の安堵があった。
少年を蹴り飛ばしたのは、案の定、ハンス教官だった。しかしいつもの余裕はなくて、私を抱えあげる顔は真っ青だ。
「大丈夫か? フランジュ。今、校医が来る」
すぐそばに屈み込んだもう一人は、ウォルフォン教官だった。
礼を言おうとした途端、体が震えだして、それどころではなくなった。
毒だな、とウォルフォン教官が言ったのが遠くで聞こえた。もう意識は曖昧にぼやけた世界に沈み込み、何が現実で、何が錯覚か、境界線が消えていく。
体が揺さぶられているのか、それともただ一人でに震えているだけか。
体は冷え切っているのか、それとも逆に熱いのか、それもよくわからない。
時間の感覚が途切れがちにある。ただ意識を失っているだけか、もっと深刻に私は瀕死なのだろうか。
夢を見たのはほんの一瞬だ。
シアンが私の前に立っていて、何か話しかけてくる。
なんて言っている?
その姿がぼやける。声を発したいのに、やっぱり少しの声も出なかった。
唐突に視界に色が乱れた。複雑な反射の後、それは見慣れた王立騎士学校の医務室の天井だと理解できた。ただ像が滲んでいる。それも激しく滲んでいるので、自分でもよくここが医務室だと分かったものだ、と思いもする。
そんな感慨の後に、全身の痛みが知覚されて、同時に体が発熱していることが、遅れて意識に届いた。
視界に校医が現れるが、焦点が合わない。何か話しかけてくるけれど、聞こえない。首を振ろうとして、そんな自由さえも失われtれいるのが分かった。まるで私自身の体が、私のものではなくなった感じ。間違った器に、意識を移し替えられてしまったような、不自然さだった。
視界が暗くなっていき、やっと何か、校医が叫んでいるのが聞こえた。ただあまりにも反響して、言葉としては聞き取れなかった。
そうして幾重にも重なる音の中で、私は意識を失った。
それから繰り返し繰り返し、私は意識の回復と途絶を行ったり来たりしていた。目を覚ます度に熱と痛みが思考を埋め尽くし、それが意識を手放させる。ただ、目が覚めることを繰り返すうちに、少しずつ体が楽になっていくのはわかった。
助かったようだ、と思った時、部屋は薄暗く、夜だった。しかし明かりが灯され、珍しく校医の老人がそこにいるように見えた。私が首をひねると、その気配に気づいた彼がこちらを振り返り、寝台の横に立った。
その目に理解の色が浮かんだように見えた。
ただそう、校医の姿も、彼の瞳も、ぼんやりとしか見えないのだ。輪郭と、溶け合った色の中から、どうにかそうと理解するだけ。
「どうやら、戻ってきたな」
声が確かに聞こえた。
「今は、いつですか?」
どうにか絞り出した声は嗄れていた。
「昨日、年が変わったよ」
そう言われても、すぐに記憶を辿るのは不可能だった。そんな私に気づいたように、校医が言葉を続ける。
「きみは十日ほど、非常に危ない状態だった。どこか、異常があるなら言いなさい」
私は目元をこすりたかったけど、まだ体の動きが鈍い。視界のことを告げると、ゆっくりと回復すだろう、という返事だった。
私は眠りに落ちたけど、その眠りは、苦痛のない、しかしのっぺりとした泥のような眠りだった。
(続く)




