2-30 進む道
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近衛騎士は私の言葉に、わずかに眉をひそめた。
「入団しない? なぜ?」
私のすぐ横で、不思議と事務員が平然としている方が私には気になったけど、今はこの近衛騎士に答えなくてはいけない。
「見聞を広めたい、と思うからです」
「君はまだ幼いから、その、何か、勘違いをしている」
柔和な声で、近衛騎士が諭すように話し始めた。
「近衛騎士団はこの国で最高峰の使い手の集まりだ。そこには貴族だの財閥だのといった汚らわしいものは、全く影響しない。その上、日々の鍛錬で、より高みへ、より優れた人間になれるんだ」
「それは、ええ、わかっています。きっとすごい使い手がいるだろうと、私もわかっています。でも私は、成長する環境を変えたいのです」
「最上の環境ではないところにわざわざ進むのか?」
あまり生意気なことを言ってはいけないけど、ここできっぱりと口にすることで、私自身に対しても決断を下せる気がした。
私は私の決断を今、初めて試されていることになる。
「私は、しばらくどこにも属さないつもりです」
これには事務員が書類をから顔を上げたけど、やっぱりその女性の事務員は無言だった。近衛騎士は目を細めることで、先を促してくる。
「私はまだ未熟です。それを少しでも変えることができたら、その時にどこか、私を使ってくれるところを探します」
「君は何歳だったかな」
「十四歳です」
若すぎる、と近衛騎士が首を振る。しかし表情にはどこか嬉しそうな色があるのは、動きと感情、建前と本音の差がそこに現れているように見えた。
「十四歳で、野に下って、どうやって生きていく?」
「それはその場で考えます」
「私がこういうのもなんだが、社会は厳しいぞ、フランジュ。近衛騎士団なら、少なくとも最低限の保証を受けることはできる」
「私は広い社会に出るのなら、より広い社会、世界に出たいのです」
近衛騎士は黙り込み、事務員の方を救いを求めるように見た。事務員は無表情に戻っていて、淡々と答えた。
「子供とはこういうものです、夢と現実の区別がつかない」
私がチラッと視線を送ると、同じタイミングで彼女もこちらを見た。
不愉快そうな顔をしているかと思ったけど、彼女はわずかに口角を持ち上げていた。
「しかしそれが子供の特権です」
どうやら彼女は味方らしいと分かって、私は安堵していた。たった今から、最初の最初から誰にも理解されない、という悲しみと不安が少しだけでもやわらげられたからだ。
近衛騎士はさらに二回、私の希望を確認し、私が断る姿勢を変えないのに、諦めたようだった。「きみほどの使い手が闇の中に消えるとは思えないが、無事を祈っているよ。また会える日を心待ちにしている」
「ありがとうございます」
近衛騎士も最後には笑みを見せて、部屋を出て行った。事務員と二人になった時、書類をまとめた事務員がボソボソっと喋った。
「近衛騎士団に入団するのを断った生徒は初めてですが、あなたにはそう選択するだけの力があるのですよ、フランジュ」
詳しく聞き返そうとする前に、事務員は席を立ち、部屋を出て行ってしまった。
言葉の意味を吟味しながら防寒具をまとって、私は部屋を出て王立騎士学校の職員に礼を言ってから、外へ出た。
今にも雪が降りそうな、真っ黒い重い雲が垂れ込めていて、空気は肌を刺すように冷たい。
武道場で二人の教官が待っているはずだ。今の話をしないといけないのは気が重いようで、私自身はどうやら重荷を降ろした気持ちになっているようだった。
進路が決まったし、自分がやりたいことも定まったような気がした。
ならもう何も考える必要はない。残された時間でウォルフォン教官とハンス教官から、受け取れる限りを受け取って、そして学校を飛び出したら、限界までやれることをすればいい。
どんな可能性があるだろう。剣術を使って生きていくのか、もっと平凡な、誰でもできる仕事をして生きていくのか。肉体労働? それとも接客? どこか辺境で、小作人に加えてもらうのだろうか?
とにかく全てを知りたい自分がいる。この社会、この世界がどういうものなのか。
王立騎士学校が私に注ぎ込んだのは、武術を極めるという崇高な行いと、権力さえあれば全てが自由になる人間社会の暗部だった。
どちらか片一方しか知らなければ、私はおめでたい人間か、もしくは全てに期待を持てない鬱屈とした人間になったはずだ。
でも現実には、その二つが私の中に共存し、社会というものの大まかな輪郭を生み出している。正しいだけの場所などなく、汚れきった場所もないのではないか。
近衛騎士団はきっと澄み渡った水のようなところだろう、と思う一方で、その中にも大なり小なりの闇があるとも、想像していた。失礼なことかもしれないけど、人間と闇を切り離すことはできないとも、すでに私は悟るというか、諦めていた。
泥水の中で生きていけるようになれれば、少しは楽だろうか。
闇を見ないふりをするのではなく、闇の中に踏み込んで、それでも真っ直ぐに立っているような、そういう生き方は、私には最善に思える。
闇に、泥に足を取られても、立っていられるようになるために私は、この学校から外へと飛び出すんだ。
武道場へ歩くまでの間、そんなことを考えていた。
だからそれに気づかなかった。
すでに葉の落ちた木の影から飛び出してきた誰かの手元で、刃が光る。
私は目を見開いて、それを見ていた。
白刃が、翻った。
至近距離だ。
(続く)




