2-29 恥ずべきもの
◆
冬になろうかという時、ウォルフォン教官が構えを変えるようになった。
しかし打ち込んではこない。圧力がいやに増して、私も構えを変えるしかない。
退屈なんだろう、ハンス教官はここのところ、武道場の隅の椅子であくびばかりしている。この人みたいに無頓着になるのも、一つの選択肢のような気もするけど。
それは殺意を殺意と認識しない、不自然な精神構造を作り出す、といったところか。
どんな境地にどうやってハンス教官が入ったか知らないけど、想像するにウォルフォン教官とお互いが動けなくなるほどの訓練を、積み重ねたんだと思う。私より長い時間、二人が技を磨いたのは間違いない。
王立騎士学校で過ごす最後の冬がやってきた。
雪が舞う日で、武道場の中は冷え切っている。
その霊気の真ん中で、私は木刀を手に立ち、ウォルフォン教官と向かい合っている。
もう気に呑まれることはない。
冷静に、私は間合いを計り、呼吸を読んだ。それは相手もやっていること。お互いに公平な状態である。
ウォルフォン教官が一歩、踏み出す。
間合いを消すような動きではないのに、まるで壁が迫ってきたような錯覚がある。
気迫が私の周りを吹き荒れ、意志を挫こうとする。
打ち返せる。そう念じるように思った。
私はただ打ち倒されるだけじゃない。
私こそが、教官を、倒すんだ。
ウォルフォン教官がさらに一歩、前進。間合いは危険な狭さになり、圧力はいやが上にも強くなる。
打たれる、ということが、圧力の変化でよく分かった。
まるで針のようになった殺意が、私の中心を貫く。
ここだ。
私は自分の中の殺意を解き放った。
殺してやる、という無制限で、恥ずべき激情。
他人に向けるべきではない、愚かな発想。
だけど今だけは、この殺意だけが、戦いを終わらせることができる。
いつかの名前も知らない、ガンダ・ガナッシュの取り巻きが頭に浮かんだ。
剣を取らずとも、相手を倒せれば、それは最強ということ。
目の前で、ウォルフォン教官が木刀を振り上げ、動きを止めている。
私は正眼でそれに相対して、切っ先を動かさず、ただ目の前にいるウォルフォン教官を見る。
ふと気づくと、私の中の殺意はどこかへ去り、水を打ったような静けさ、静寂が自分の内にある。
ウォルフォン教官を恐れる自分が、消えている。
向かってくる強い気迫をやり過ごせる気がした。それに、ウォルフォン教官の打ち込みを、防げる気もした。
二人ともが動かない時間の中で、すっとウォルフォン教官が身を引いた。構えを解いた彼の表情には苦笑いがあった。
「不思議な気迫を持っているね、フランジュ」
どうやら訓練は私を一歩先へ、導いたらしい。
殺意を身につけることが、できたのだろうか。身につけたとして、それを自在に使えるのか。
私の魔技と同様の強すぎる力、暴力性のひとかけらが自分に備わってしまった気がして、恥じ入るような気分にもなった。
剣士に求められるのは強さだ。強ければ、相手を倒せれば、全てが許されるといってもいい。極論すれば、卑怯な手段を用いても、相手が倒れればそれは勝ちなのだ。不意打ちでも、圧倒的な数で押し包んでも、勝ちは勝ち。
私がウォルフォン教官やハンス教官に教わったのは、一人で戦う手法であって、もっと大きな、戦術や戦略とは無縁なのだ。
そして社会には、一人で戦うものは極端に少ないと、十四歳にして私は理解しつつあった。
王立騎士学校からして、そうなのだ。
一族が有力者なら、弱いことは問題にならない。
そしてその一族という力に、私は一人では挑めない。戦う前から、勝敗は決まっているのだから。負けるとわかって戦うのは、間違いだろう。
「近衛騎士にはまだ色のいい返事をしてないって聞いているよ」
珍しくウォルフォン教官がそんなことを言ったので、ええ、はい、と恐縮しつつ答えた。
「成績が成績ですし、余計な混乱が起きるのではないかと」
「貴族の反感が強くで避けているの?」
そういうわけじゃない、とは言えないのは、その指摘が図星の親戚程度には図星に近いからだ。
私がいきなり近衛騎士団に入っても、きっと貴族連中は私をいびり続けるだろう。それに耐えていく自信がない、というのが今の気持ちだった。
近衛騎士団は王立騎士学校という狭い社会ではなく、シルバストン朝大陸王国の最高位の一角である騎士団だから、それが属するのは社会全体という大きな領域になる。
その全てが私を敵とみなして悪意を向けてくるのは、あまり嬉しいことではない。
「私もハンスも苦労したが、なに、それほど気に病むほど酷い世界でもないさ」
「そうでしょうか?」
「不愉快な連中が大勢いるのは、きっと君の観測の通りだし、もしかしたら想像よりも多くの悪意が待っているかもしれない。反吐みたいな、汚れきった連中がね。それでも忘れちゃいけないのは、同じ数の、優れた人間、正しい人間、守ってくれる人間がいることだ。そして何より、友人がいる」
そう言いいながら、ウォルフォン教官は、まだ眠りこけているハンス教官を見る。私もそちらを見ていると、何かに気づいたようで、ハンス教官が目を覚ました。
「なんだ? どうした?」
ウォルフォン教官が笑い出し、私も控えめに笑うことができた。
次が最後だよ、と言って去っていった近衛騎士が今度やってくる、その最後の機会は、三日後だった。
私には決断する必要があった。
(続く)




