1-6 新しい傷
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深夜を回って日付が変わる頃、悪党の中でもリーダー格の一人が号令を発した。その男は上の階から降りてきたのだ。親方からの指示があったのだろう。
その場にいたのは指示する男を含めて二十三人で、十人、八人、五人の隊に分かれた。号令の男が十人を指揮するようだ。
僕は五人のうちの一人だ。顔ぶれを見ると、他の四人もそれなりに使うとわかる。
三隊はバラバラに動いで、どこに向かうかと思えば、例の高級料理店と二ブロックしか離れていないやはり高級な宿屋だった。しかし、周囲には明らかに用心棒という顔の剣士がざっと見ただけで十人は配置されている。
そこで僕たち五人がどういう位置受けかと思ったら、どうやら最も重要な役割らしい。
なんと、宿屋の裏口から伸びる路地を封鎖するようだ。人が三人並べばもう誰も通れないような細い路地で、これでは戦うのは至難だ。おそらく一対一になるだろう。
しかし、こんなところへ本当の標的がのこのこやってくるだろうか。それが疑問だ。裏口とはいえ、これでは逃げ場が限られる。僕だったら別のルートで逃げるだろう。
それでもここを封鎖しないわけにはいかない。もし標的がやってこなくても、ここに僕たちがいて封鎖している、と示すだけで、相手は別の可能性を考え、逆にそれが可能性を狭める、という場面もあるとも言える。
あとは指揮する立場の人間に任せよう、と僕は心に決めて、気楽に路地に立っていた。そばには一人の仲間がいて、見るからに緊張している。年齢は僕より十は上だろう。何を考えているのかは、おおよそ推測が立つ。家族や友達の元に帰れるかとか、そんなことだろう。
こういう時、身軽な剣士の方が勝率が上がるという妄想を、信じたくなる。
危険に踏み込めるもの、より深く踏み込めるものが、最後の最後に、相手より先に必殺の一撃を当てられるという理屈だ。
その理屈はわかるし、僕の経験の一部は証明さえしている。
でも、別の要素を忘れている。
恐怖という要素だ。それは踏み込む瞬間に忘れるように見えるが、恐怖を忘れる人間はいないと僕は見ていた。相手の懐に飛び込んで勝利を確信した瞬間ですが、どこかに恐怖が残る。
相手だって剣を向けてきている。しかも自分を殺すつもりでだ。
その相手のすぐそば、剣が当たる範囲に入って、恐怖しない奴はいないだろう。
僕自身がその恐怖にどう対しているかは、あまり考えたことがなかった。
僕にも恐怖はある。もしかしたら常に恐怖を感じているかもしれない。恐怖というのが、不思議と痛みとイコールで結ばれるので、僕の中では恐怖は馴染み深いものではある。だから、相手の剣を向けられても、痛いだけ、と割り切っているかも。
そんなことを考えながら、隣の男を観察していると、宿の裏口で動きがあった。
出てきたのは町民のような服装の四人組で、こちらへやってくる。
先頭を歩いているのは、若い男だ。
見た瞬間、緊張が自然と体を支配した。緊張と言っても動きがぎこちなくなったりはしない。感覚が研ぎ澄まされ、何もかもを理解できるような錯覚もある。
その男もこちらに気づき、さっと仲間を押し留めた。僕も自分の仲間に目配せをして、下がらせる。
狭い路地で、僕と男が向かい合う。あまりにも明かりが薄く、相手の顔ははっきり見えない。しかし力量は疑う必要はない。雰囲気は静謐、全てが抑制されていて、逆にそれが力量を示している。
こういう気迫のない相手こそ、用心するべきだ。
ジリッとお互いが間合いを詰める。空気が希薄になり、息が苦しい。
そんなことは、当たり前のこと。
お互いが剣を抜かない。間合いだけが消えていき、視線は闇の中に消える。どこを見ている? 何を見ている?
呼吸の音がやけに大きく聞こえる。
どこか遠くで鳥が鳴いた。夜に鳴く鳥がいるのか。
動いた。
二人がすれ違い、振り返り、またぶつかる。火花が二度、閃光となって刹那だけ路地を照らす。
足が地面に着いた時には、蹴っている。相手もだ。
路地を作る建物の壁を蹴り、右から左へ。相手はそこまで身軽ではない。
翻った切っ先が僕の足を掠める。引っ掻かれたようなもの。
壁を蹴りつけ、立体的に動いた僕は屈み込むように着地。
相手の剣はまだ上を向いている。
振り下ろされるのは目に見えている。今にも落雷と化して僕を切り裂く。
しかし僕の剣はより早く、振り抜かれていた。
誰かが呻いた。
目の前の男が一歩、下がり、こちらを見下ろした。
「名前は?」
そう言ったはずだが、濁っていて聞き間違えかもしれない。振り上げたままだった剣が手から零れ、地面に甲高い音と共に転がる。
緩慢に、男は倒れ、動かなくなった。
前触れもなく周囲の音が耳に届き、どうやら悪党たちは路地に出てきた他の三人を捕縛しているようだ。
いったいどんな相手なんだ? それよりも、今、切ったばかりの相手が気になる。
僕は目の前に倒れている男の顔を覗き込んだ。年齢は四十代くらいで、さすがに若くはない。それは剣を合わせていて、推測していた。若い剣士にありがちな勢いはなく、どこか理論立った剣術だったからだ。
僕がその理論を超えたというわけじゃない。
胸が急に痛み、手で押さえるとぬるりとした感触があった。そう、彼の剣術は僕の胸を切り裂いている。
最初の時だ。最初の交錯でわずかに僕はタイミングをずらした。それでも彼は合わせようとして、振りの筋を変えて遅らせて、こうして皮膚を切り裂くことになった。
さらに少し、剣を遅らせることができれば、そこで勝負は決したはず。
剣を鞘に戻し、息を吐くと胸がやはり痛む。
また新しい傷か。
路地はすでに静かになり、他の仲間の三人が誰かをどこかへ連れ去っていった。僕のところへ残った一人がやってきて「大丈夫か?」と訊ねてくる。
どうせ見えないのに、無表情を意識して頷く。
医者のところへ行くと断って、僕は路地を出ようとした。したが、その前にもう一度、放置されることになる剣士の死体に歩み寄った。
事切れているその表情は、闇の中でも光を放つように見え、穏やかだ。
満足しただろうか。
あれだけの剣術の使い手だ、並大抵の訓練や経験で身につくものではない。しかしそれら全てが失われた。
彼と共に。少しも残らずに、火が吹き消されるように。
ほんの僅かに、僕の中に経験の一つとして残るのが、慰めだろうか。
そんな僕も、死んでしまえば、それまでのこと。
背を向けて、僕はさっと深夜の路地を出て、やはり深夜の通りを歩いた。
もう鳥は鳴いていない。
(続く)