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剣士の肖像  作者: 和泉茉樹
火焔のように激しく
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2-8 二つの命

     ◆


 目が覚めた時から、空気が違った。

 いつも朝にやってくるはずのイナがやってこず、彼女より五つ年上の別の下女がやってきた。珍しいことだ、と思いながら、何気なく訊ねた。

「イナはどうしたの?」

 本当に何気ない、無防備な問いかけに下女は黙り込んだ。これも珍しい。

「イナは?」

「死にました」

 下女の言葉がほとんどつぶやきか囁きで、聞き間違いかと思った。

 ただその思いを否定するのは、昨夜の会話だった。イナは私に、自分を切るように言った。そのことが急に生々しく、結論へと私を駆り立てた。

 部屋を飛び出し、イナが生活していた部屋に向かう。使用人が私を見て、表情を変えるのも、その変化の仕方が不吉だった。

 イナの部屋に駆け込むと、血の匂いが濃密に私を取り囲んだ。

 ベッドにイナの姿はない。新しいシーツが被せてあるのを、私は勢いよく剥ぎ取った。その下の布団も、綺麗なもの。布団をどかす。

 そこでやって目的に達したことを、私は理解した。

 ベッドのそこには、血のシミが確かにあるのだ。

「フランジュ」

 勢いよく振り返ると、シアンが立っていた。

「これが君に残されている」

 全く動揺していない、泰然としているシアンが差し出す封書を、私はひったくるように受け取った。ほとんど破かんばかりの勢いで中の便箋を手に取った。イナの字だった。

 そこにはイナの思いが書かれていた。

 クリーア家に引き取られたことの感謝と、私への感謝。

 そして自分が、私の試練としての役目を果たすために、自ら命を絶つことを許して欲しいと、つづられていた。

 フランジュ様はいずれ立派な剣士になって、国のため、民のために働かれるべきです。そのために人を切ることができる強い人だとも思います。

 もし人を切らずにいられる世界なら、私ももっとずっとフランジュ様のそばにいて、平穏に生きていけたかもしれない。しかし今は、剣士は、その手を汚すことを恐れていては、何もできない。

 私の死は私の手によるものだけれど、フランジュ様の手の汚れの一つになれるなら、少しは意味があるでしょう。

 私のことを本当は忘れていただきたいです。でもそれでは、本当に意味がなくなってしまう。

 私の生の意味を、フランジュ様に託します。

 その手紙を読み終わってから、何かがおかしいことに、私は気付いた。

 誰の差し金だ? 父、もしくは母、そうでなければ……。

 私は目の前にいるシアンを睨みつけた。よく見れば彼はすでに身支度を整え、珍しいことに腰に剣を帯びていた。そして片手にも剣を持っている。

 でも全く構わなかった。

「誰がイナの命を自由にしたわけ?」

 自分の声とは思えない、ひび割れた、軋るような声だった。

「答えて、シアン。あなたなの?」

「そうだと言えば?」

 そっけない返答が、私の心を断ち割り、そこからは激しい憎悪が沸き起こった。

 力を解放する前に、シアンが鋭く踏み込んできた。両手の掌底が私の胸を強打し、そのまま私は窓枠をぶち破って外へ飛び出した。二階から落ちても、私はまるで猫のようにバランスをとり、地面で二転三転して、起き上がった。

 全身が痛む。しかし今はそれは、どうでもいい。

 イナの部屋の窓際に、シアンが立った。

 私の今まで抑えていた力が、解き放つ時を得て歓喜しているようだった。

 ガチリと心の一部が切り替わり、内部から外部へ、奔流が解放された。

 屋敷の壁がバラバラになり、轟音とともに壁だったものが舞い上がる。

 しかしその破壊の中心で、シアンは平然と立っている。

「実力を全て見せるわけがなかろう」

 彼は平然とそう嘯き、持っていた剣をこちらへ投げた。鞘に包まれたそれが、私の目の前の地面に突き立つ。

「手にとって抜くがいい。試練はこれからだ」

 私はゆっくりと剣に手を伸ばし、抜き取った。鞘を払い、捨てる。

 真剣を持った経験は数知れないが、今ほど剣を軽く感じたことはない。

 空中に踏み出し、シアンが地上へ降りてくる。老人とは思えない身のこなしで、器用に着地した。

 そのシアンも剣を抜く。

「お前の魔技は私には通じない。剣術で強さを示せ」

 いつになく無表情だった老人の顔に、嘲笑めいたものが浮かぶ。

「それとも、下女の命など、どうでもいいのかな」

 全身の血が沸騰した。私から溢れ出る力が周囲を破壊しても、シアンだけは平然としている。

 地面を蹴り、飛びかかる。

 二本の剣が弾き合い、掠め、すれ違う。

「冷静になれ、フランジュ」

 斬撃を交換しながら、シアンは余裕を見せる。それがまた癇に障った。

「冷静に私を殺してみせろ、フランジュ」

 両者の剣が際どいところを走り、それぞれの服が切れ、肌が裂かれる。血しぶきが飛び散って、私の血がシアンを汚し、シアンの血が私を彩る。

「仇を討って見せろ、我が弟子よ!」

 脇腹を灼熱が走った。ついにシアンの一撃が、決定的に私を捉えた。

 でもそれは同時に、私の剣がシアンを捉えることを意味していた。

 私の剣の切っ先が、まっすぐにシアンの体の中心を貫き、切っ先は背中へ抜けていた。

 顔を歪めてから、シアンが表情を緩める。そして剣を手放すと、私の頭に手を置いた。

「立派になった。これでもう、何の悔いもない」

 そう言いながらも、シアンの口からは血が溢れ、彼の胸、腹とを赤く染めていく。

 咳き込んだ彼の口元からの血が、私を濡らした。

 シアンの足から力が抜け、私の頭の上の手もすぐに力を失った。

 倒れかかってくる老人を避けると、何の受身も取らずに彼は倒れこみ、そして呼吸を止めた。

 私は間接的に一人、そして直接に一人を、殺したのだった。



(続く)

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