1-35 剣を捨てる
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クツルは立ち上がり、礼をした。冷静な様子だ。以前の怒りが消えている。
こちらも頭を下げ、なんとなく「お座りください」と促してしまった。まるで僕の方が上位のようだ。怒りを刺激するかと思ったけど、すんなりとクツルは座った。僕の空いている席に着く。
「今日はお話ししたいことがあり、参りました」
口調も丁寧。表情もどこか晴れ晴れとしている。
「事務所を閉め、王都を出て隠棲することとしました」
「え?」
思わぬ言葉だったので、短く声が漏れた。表情も少しは変わっただろう。クツルは少しも気負ったところがなく、吹っ切れていることがわかった。
「その年齢で、隠棲とは、どういうことでしょう」
こちらから促しても、彼の様子は変わらない。何もかもを受け入れる心地のようだ。
「オーリー殿、あなたに敗れたことを、長い時間、考えました。ほんの少し前のあなたと私は互角と言ってもよかった。真剣を取れば、お互いに手加減をせずにぶつかり、それでどちらかが際どいところで勝ちを拾う、そういう差でした。それが瞬く間に、変わってしまった」
僕が歩技を学んだことを言っているらしい。その一点では確かに僕はクツルの技量に近づいたことは、歴然としている。ただ、歩技の精度や展開、他の剣術に関しては、僕にはよくわかっていない。
剣士の不思議なところは、訓練では見られない動きが、実戦の中では出てくる。
訓練と無関係ではないが、何か壁のようなものを破って、まったく新しい力が出ることがある。
これは注意が必要で、場合によっては見抜けないほどの力が出る、それまで剣を合わせていたのが別人ではないかと思うほどの、力が出るものなのだ。
だから、僕とクツルが剣を合わせて、お互いの命を奪おうと競えば、やっぱりわからないのではないか。クツルの歩技も剣も、最後の最後、死を覚悟した瞬間に一段も二段も上になるかもしれない。
力というのは、それくらい不確かで、わからないもの。
ただ、わかった時にはどちらかが死んでしまうのが、問題か。
「あなたの歩技を見た時、その先が見えた。あなたが私より先に立ち、さらに先へ進んでいく姿が、見えました。あと一年、二年が過ぎれば私など足元にも及ばないでしょう」
「それは言い過ぎですよ、クツル殿。あなたの剣も進化するはず」
「そう思えないからこそ、身を引くのです」
惜しい。素直にそう思った。彼の剣にはまだ可能性が見える。彼自身に、あるいはその技にもだ。隠棲して、どうするのだろう。彼の剣や技は、そのままどこかに消えるのか。
「確かに、お伝えしました。剣聖補佐を務める方に敗れたこと、それで私は満足です」
そう言ってクツルが席を立つのを見ても、実感がわからなかった。あれほどの使い手が死ではなく、意志で剣を捨てる。まるで自殺だ。命を伴わない、自殺。
「どう過ごすおつもりですか?」
部屋を出て行く寸前の彼に、そう声を投げかけると、振り返り、やはり彼は笑った。
「農作業でもして、生きますよ。もう剣を取るつもりはありません」
もう何も言えずに、僕は彼を見送った。ガングは結局、何も言わなかった。もしかしたら、僕が部屋に入る前に話は終わっていたか。
二人ともが黙っているところへ、ワーツがやってきた。
「やはり、王都を去るのですね」ワーツが言う。「実はだいぶ前から、部下が気づいていました。門人をすべて、別の道場や事務所に移し、それを望まないものには金を手渡していると。事務所を閉めるのは明白でした」
「剣に生きるものとしては」
ガングが椅子の背もたれに寄りかかる。
「失格としか言いようがないが、あるいは正しいのかもしれない。命を常に危険にさらす生き方は、そもそも人間の道ではないのかもな」
体を元に戻す勢いで立ち上がり、もう何も言わずにガングは部屋を出て行った。
その三日後にオーツが部下から聞いた話として、クツルの事務所は無人になり、クツル自身もどこかへ消えたと教えてくれた。クツルはどうやら一人の門人も連れずに、一人きりで王都を離れたらしい。行き先を調べるか、ワーツに訊ねられたが、その必要はないと答えた。
一人になりたい、とクツルは思っただろう。彼の願望を、彼の未来を、乱したくなかった。
クツルが王都を去り、王都八傑は六人に減ったわけで、世間では王都六傑と呼び名が変わったようだった。しかし僕とはそれほど関係がない。六傑と呼ばれる六人は、言って見れば民間の軍隊、私兵集団の統率者に当たる。
剣聖府でも国のいくつかの部署でも常に監視は怠っていない。
そう、監視しているのだ。剣聖府に出入りし始めてからだいぶ経った頃、シュダ・キャスバの行動を剣聖府が把握していたことを、偶然に知った。
ガングはその動きを黙認したともわかった。
ガングも剣聖府も第四都市に軍勢が向かったことを把握していたことになる。曖昧な情報として、貧民街を焼き払う計画さえも察知はしていた。しかし対処しない道を選んだ。
それを知っても、僕は別に恨もうとは思わなかった。ガングの中にシュダは弟子の一人で、殺すことに躊躇いがあったのかもしれない。そうでなければ、別の面でシュダを止められない理由があったか。
この世界には完璧なんてものはない。誰一人悲劇にあわない、そんな理想郷は、存在しないのだから。
秋が終わり、冬になる。建物の中は暖かいが、外へ出ると息が白く染まる。厚手の上着が外出の時は必要だった。
これはまったくの余談だが、国王陛下は数ヶ月に一度、非合法の賭場へ行っているようだ。今はワーツが僕につきっきりで、別のものが探りを入れ、ガングも様子を見に行き、万全の態勢でジャニアス三世が賭場へ行く、という手順を踏んでいる。
賭場の方はまったく国王とは知らず、遊ばせているようだ。ジャニアス三世の顔を知ってものが極めて限定されているという事情もある。
勝っているか負けているかは知らないけど、国王という立場も、不便なものだ。
何にも困らないのに、きっと浮き沈みのない、安定しきった生活だと思う。だから刺激を求める。剣聖府にやってくることもそうだし、きっと他にも顔を出す相手はいるんだろう。
そう、僕とガングが切り結んだ時だって、僕には命のかかった場面で必死だったのに、そこに立ち会ったジャニアス三世からすれば、ちょっとした見世物だったかもしれない。
剣闘士の試合を見るようなものだ。高貴なものに許される、非常に残酷な見世物。
冬が終わり、春がやってきて、僕に陛下からご下命があった。
王国の各地を見聞し、民の生活、国の実際を見てこいというのだ。それはいつか、ガングが僕に言ったことと通じていて、国を知る、民を知るための学習が、これまでのワーツの指導であり、事務員の解説だった。
謁見の間でその勅命を受け、その日のうちに準備が始まったが、王城には優秀なものが大勢いるし、事前の指示もあったようで三日後には出発となった。
ガングがふらっとやってきて僕と従者であるワーツ、もう一人の新人の従者であるナー・リンの荷物を確認していた。特に意見もないようで、僕の方へ来た。
「王都で別れを済ます相手はいないのか? 出発まであと丸一日はある。自由に外出していいぞ」
別れを済ます相手は限られるけど、実はずっと気になっている相手がいた。
「城壁の外へ出てよろしいのですね?」
「服装に気をつけろよ。平民の姿で行くんだ。ワーツは邪魔だろうから、何か仕事をやらせておくよ」
僕は頷いて、翌日、早い時間にガングの私邸を出て、久しぶりに城壁の外へ出た。遠くにさらに外周を守る城壁がある。
壁と壁の間の街を歩く僕に気を留める人はいない。
朝の雑踏の中を、僕は進んでいった。
(続く)




