1-32 階段
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ロウコ流の剣が戻ってきたけど、それを持ってきたのは例の最年長の従者で、クツルが来た時に姿がなかったのは、軽食を取りに行っていたからだった。彼は軽食を置いて、すぐに僕の剣を取りに行かされた。
椅子に座って四人で向かい合うと、ガングが静かに語り始めた。
「奴の師匠と私は知り合いだ。奴の師匠は大勢の門人を集めたが、その中でも群を抜いていたのがシュダとクツルの二人。二人は同門だったわけだが、片方を私に預けると奴らの師匠が言い出した。私は反対したが、一人に全てを伝えたいと言って聞かない。競争が剣を濁らせるとも言い出して、私は承諾し、シュダを選んだ」
そっとお茶の入ったグラスを傾ける剣聖は、やはりどこか切なげだった。声にもその色が浮かんでいる。
「それから月日が流れ、シュダは私の元を離れ、剣士を集めた会社を作った。傭兵という規模ではないが、王都で認められた。ほぼ同時にクツルも師匠を病気で失い、その門人を引き継ぎ、自分の看板を立てた。そのまま二人は王都八傑の二つになり、まあ、死んだ師匠も嬉しかっただろうが、死んでしまっては、意味もないことか」
グラスの中身を飲み干した剣聖に、そっと従者の一人がお茶を注ぐ。
顔を上げた時、ガングはいつも通りになっていた。
「さっきの足の使い方は良かったな。本家にも劣らない、完璧な歩技だった」
「いえ、しかし、あなたの方が早かった」
そう、ガングは僕よりも、クツルよりも早い。
昔取った杵柄だな、とガングはニコニコしていた。
「歩技の基礎を作ったのが、奴の師匠で、それを私は知っていた。隠れて練習したりしたものだ。歩技は便利だ。不意を打つこともできるし、間合いを支配できる。私のレベルにいずれ、お前は達するだろう」
あまりに褒められるので、僕は逆に不安になった。しかし表情には見せないように、意識した。ガングの観察眼は鋭すぎるほどだし、気の緩みの否定、常に気持ちを平静に保つことは、訓練の中や休憩の時に、ガングが口にしている。
会話が途切れたところで、ガングはすぐに先ほどの僕とクツルのやりとりの要点を、二人の従者に説明し始めた。二人とも真面目に聞いていて、時折、説明を求めることもある。二人の剣術や歩技を、いつの間にか僕が超えていて、でも二人は少しも気にしないように振る舞う。
そこに、平常心とでも呼ぶ、ガングの極意は生きているようだ。
ドアが開き、例の剣士が僕の剣を持ってやってきた。差し出されたそれを受け取る。ガングがこちらに視線を向けたようだった。
構わず、僕は座ったままゆっくりと鞘から刃を抜いた。
従者の一人がため息を吐いた。
美しい剣だった。体力が変わったことで重く感じるかと思ったが、少しも違和感がない。腕の延長のようにも感じた。柄はやはり吸い付くようで、皮膚と溶け合うように馴染む。
「その剣を取るのにふさわしいだろう」
鞘に剣を戻し、ガングを見ると笑みが向けられている。
「お前を陛下付きの武官に推薦しようと思う」
いきなり切り出されたその話題に、さすがに僕もうろたえた。
「武官というのは、意見を求められるはずですが、僕には学も経験もありません」
国王を守護するのは基本的に近衛騎士団の団員、近衛兵であり、政治に関しては政治家と官僚が当たる。その中で特殊なのが剣聖であり、剣聖は国王を守る剣であるのと同時に、国政に関する相談も受けるのだが、武官というのは言ってみれば、剣聖補佐だった。
僕には政治のことも経済のことも、軍のことすら、わからない。
ただ剣術に優れているだけなのだ。
「私を見て学べばいい。それにしばらくは自由行動でいいだろう。何の問題もないのが今の世だから」
「自由行動というのはどういう意味でしょうか?」
「国を見て回ればいい。市井を知り、民の気持ちを知ることもできる。銭の誘惑を知り、人の命の重さを知る。時間を知り、大地を知る。学ぶべきことが多いのは、いいことだと思うがね」
あまりにも途方もなくて、返事に困った。
その場はすぐにガングは別の話題を始めて、もうそれ以上の言及はなかった。
数日を病室で寝起きし、昼間はいつも通りの訓練で潰したけれど、病室に戻ると侍従の一人が待っていて、翌日に陛下に謁見するようにご下命があった、と伝えた。
侍従が帰ってから、この前の話だろうが、どう答えるべきか考えた。
孤児が武官になり、王に仕えるなんて、誰にも想像できないだろう。ほんの数年前まで、どこにも名前が上がらない、無名の剣士の一人だったのが、武官になれるとも思えない。
その夜は珍しく、幻の剣が現れなかった。
翌朝、朝食を食べていると看護師がやってきて、何かを持っていると思ったらそれは陛下に拝謁するときに着る衣装だった。そうか、いつもの服ではいけないのだ。
記憶にある陛下の姿は、寝巻きでだらしがなかったが、公式の場ではそうもいかない。それはこちらも同じなのだ。
借り物ですけどね、と看護師が笑いながら着付けてくれた。かなり複雑な手順で身につける衣装で、金糸銀糸は当たり前で、複雑な刺繍が施されている。魚や鳥、花が見えた。色合いも派手で、どうにも不自然だけど、これが陛下の前では当たり前かもしれない。
「どこで着付けを習ったのですか?」
思わず看護師に質問すると、帯を締め上げながら彼女は笑った。
「これでも貴族の出ですからね、経験もありますよ。着付けるのも、着付けられるのも」
最後に帯を強く叩いて、出来上がったらしかった。
その後に何があるかと思ったら、髪の毛を整えられ、化粧も施された。これはいつもの看護師ではなく、その友人という女官がやってきた。時間がないですからね、と口にしていたから、本来の仕事の隙間に来たのだろうが、それでも長い時間をかけて僕を別人に仕立てた。
剣だけはいつものもので、それがなんというか、命綱だ。
時間になるとこれもまた驚くことに、ガングの部下の最年長の剣士がやってきた。彼も服装が整っているけど、僕と比べるとまるで簡単だ。
彼の先導で病室を出て、複雑な経路をたどり、階段をいくつも登った。
王城の塔を上がっているようだ。
短い廊下の先の扉の両脇に近衛兵がおり、ドアを開けたのは女官。
その奥は天井が高く、そしてまっすぐ目の前に、何段か高い場所があり、そこに豪奢な椅子がある。部屋にはすでに幾人もの人がいて、全員が正装だ。男性、それも年を取っているものが多いが、玉座から遠いところには若い者が数えるほどだがいた。
広間の中央で、付き添っていた剣士が「膝を折って拝礼を」と囁いたので、言われるがままに慣れない着物で膝を折り、頭を下げた。
「陛下のご入場です」
大きな、しかし綺麗な声で誰かがそう言うと、銅鑼が鳴らされた。参列している全員が同時に首を垂れる音がやけに大きく聞こえ、連続する銅鑼の音の向こうで複数の足音ときぬ擦れが聞こえた。
銅鑼を打つ音が消え、その反響も消えると、信じられないほど澄んだ静寂がやってきた。
高い場所だから、それだけ静かなのかもしれない。
その静けさに、調律されたような声が流れた。
「みな、面を上げよ」
僕は膝を折ったまま、顔を上げた。
玉座に座っている男性は、寝巻きでもなければ、あくびを堪えてもいない。
凛々しい表情で、服装も煌びやかでいて繊細、豪奢そのものだ。
彼、ジャニアス三世の視線が僕の瞳を真っ直ぐ見て、顔を下げたい衝動に駆られたけど、どうにか堪えた。
この場は剣術を比べる場とは違う緊張があり、そして無礼を働けば、問答無用で命を奪われることもあるだろう。権威というものは、剣とは別の力らしい。
誰も何も言わないので、時間の流れがわからなくなった。
「烈の剣聖、これへ」
ジャニアス三世の言葉に、彼の背後に控えていたガングが進み出た。彼も今日は正装だ。腰には見たこともない剣があるが、二本あるのは変わらない。
僕は緊張して、ジャニアス三世がガングに耳打ちするのを見ていた。
きっと、この場の誰もが注目しただろう。
話し終わると、ジャニアス三世は、うっすらと妖艶とも言える笑みを見せた。
(続く)




