1-27 頬に傷
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内側の城壁を抜けた。馬車は曲がりくねった道を進んでいく。
かなり遠回りしているけど、ちゃんと馬車が通れる道があることになる。考える必要もないけれど、もし国王や王族がどこかへ逃げる時は、走って逃げるのか、それとも馬に乗るのか、馬車に乗るのか、気にはなる。馬車で逃げたら、やや効率が悪いかもしれない。
馬車が止まり、降りると、そこはもう門の内側で、巨大な建築のすぐそばだった。隣には巨大な塔がそびえ、それが王城の中心らしい。そこに接するようにある建物に、案内された。
廊下は窓が多く、光が強い。どこか第四都市で見た、あの温室を連想させるけど植物は見えない。チラッと見ると中庭は緑は少なく、岩や石、砂利が何か意味ありげに配置されているだけ。
階段を上がり、上の階へ。二階の廊下も、また眩しいほど光が差し込む。その辺りを考えて設計されているのかも、と不意に気づいた。
部屋の一つに通される。足を踏み入れて、思わず声が漏れそうになった。
小さな扉に見合わない部屋だ。板の間で、天井の真ん中に明かりを取るための穴があり、すりガラスが柔らかな日差しを導いている。板の間と言っても、長い時間によって自然と磨かれた美しい色合いをしている。歴史さえも感じられた。
家具は何もなく、扉は僕が入ってきた一つと、奥に二つ。
剣術の訓練をする部屋だとすぐにわかった。近衛兵は入ってこないので、ドアが閉まれば僕一人だ。
観察するものもない、と思っていると奥のドアが開いた。
やってきたのは少年で、椅子を抱えている。顔立ちの整った少年で、人形めいている。重そうな椅子を運び、何か位置が決まっているかのように微調整してそれを置いた。
頭を下げ、少年が出て行くのと入れ違いに、やっと目的の人物がやってきた。
腰には二本の剣。長い髪をひとつに結んでいる。穏やかな表情には、攻撃性は少しもない。
「逃げないのは立派だ」
そう言って彼は僕の前に立ち、少し眉を上げた。
「私の名前を聞かないのか?」
「剣聖、ということがわかれば十分です」
笑い声を漏らし、彼は頷く。
「それでは俺が無念だよ、オーリー。名乗らせてくれ。私の名前はガング・キュリオス。国王陛下に仕える、烈の剣聖だ。クラッシュとも呼ばれる」
握手でもしそうな雰囲気だったが、彼はそんなことはしなかった。こちらを水面のように澄んだ瞳で見て、一歩、二歩と下がった。
これから斬り合いになるのは、誰でもわかる。
彼には僕を切る理由がある。そしてその理由を否定できない僕でも、おいそれと切られるわけにはいかない。
剣聖の実力とは、どれほどか。
剣をいつでも抜けるように、体の力を抜き、姿勢を整えた。
だが、びっくりすることにガングはゆっくりと両膝をつき、手を妙な形に組むとその姿勢で目をつむった。
静寂。瞑想状態のガングには、どこか人間離れした気配が宿っている。
今、打ちかかって、どうなるだろう。とても不意を討って倒せるとは思えない。
隙がないわけじゃない。
ただ、信じられないのだ。自分の剣が、届かないという妙な予感がある。打ち消すことができない予感だった。
ドアが開いたので、そちらを思わず見ていた。もしガングがその気なら、抜き打ちで切られたかもしれない。
「こんなに朝早くから、剣士というのは生き急ぐものだな」
そんなことを言って入ってきた男に、僕は見覚えがあった。
賭場で見た男。剣士とガングと一緒にやってきて、大負けをした男だった。貴族だと思っていたが、こうして明るい光の中で見ると、どこか気品がある。ただ服装は寝巻きのようなもので、高級そうにも見えるけど、シワだらけで安物にも見え、値段は想像できない。
あくびをかみ殺しつつ、その男がぽつんと置かれていた椅子に座った。
「ガング、寝ているのか?」
ついにあくびをして大口を開けてから、男が問いかける。ガングはまだ瞑想の姿勢で、動いていない。
「起きております」
「そうかい。で、そちらのきみが今日の相手だな。なんでも王都八傑を一人切ったそうな。あっているかい?」
世間話のような調子の質問に、どう答えるべきか迷ったのは、この男の素性が予想できたからだ。
剣聖と気楽に話せる相手は、そう多くない。剣聖といえば、王族の守護者であり、相談役でもある。位としては貴族と同列と言ってもいい。
つまり、この男の立場は、想像に難くない。
この男なんて、言ってもいけないのだ。
「オーリー・イエニアと申します。国王陛下」
頭を下げると、現在の国王ジャニアス三世はひらひらと手を振った。
「かしこまる必要はない。で、本当に八傑の一人を切ったのか?」
「成り行きで、そうなりました」
「不意打ちか? 奇襲か?」
「正面から。お互いに全力を出したと考えています」
それはなかなか、とジャニアス三世は顎を撫でる。寝巻き姿なのはなぜだろう。そのせいもあって、覇気が全くない。
ガングは姿勢を変えないまま、黙っている。
もう一度、ジャニアス三世があくびをする。
「じゃ、オーリーくん、死ぬ覚悟はいいかい?」
「剣聖様と立ち合え、ということですね?」
「立場は問題ないよ。それに敵討ちでもないことを、はっきりさせておこう。ガングにもその気はないだろう」
思わず目の前にいる剣聖を見た。瞼はまだ降りている。視線が合うことはない。
国王は椅子に座り直し、なぜか手首をほぐすような動きをした。
「この決闘の立会人は私だ。両者、全力を尽くすように。私は素晴らしい剣が見たい。それが唯一の希望である。合図はいらんな。オーリーくん、好きな時に剣を抜けばいい。それを始まりとしよう」
そう言ってから、人が悪そうな笑みをジャニアス三世が見せる。
「油断するなよ。大抵の相手は一太刀も浴びせられず、逆に一太刀で殺されるから」
ふざけた口調だったが、内容を軽視する理由はない。僕はそっと、まだ動かないガングから離れた。広すぎる間合い。
国王はもう何も言わない。
呼吸を整える。剣聖と立ち合うというのも、非現実的だった。
自分に言い聞かせるように、いくつかを確認した。剣聖とはいえ、物理法則は無視できない。そして剣が当たらなければ、負けることはない。魔技には注意が必要だろう。
腰の剣に手を置いた。ジャニアス三世が、あくび。
瞬間、僕は剣を引き抜いた。
目の前からガングが消える。左だ!
僕の剣は今、右手にある、まるで瞬間的に現れたように、左手側にガングがいる。いつの間にかガングの手には短剣。短い分、早く抜けたのか。
防御は不可能、僕の姿勢は不完全。右手の剣も間に合わない。
迫ってくる切っ先を睨みつつ、逃げよう、避けよう、と体を逃がすが、僕の体はあまりにも遅い。
短剣が下から上に走った。
転がり、起き上がる。右の頬に痛み。顎から頬へと切られたようだ。瞳は無事、視界も問題ない。
しかしそんなことを悠長に考える間もなく、ガングが間合いを詰める。
短剣だけでの連続攻撃。避けるのが難しいほどの速さ。右手の剣を駆使して、短剣を弾き続ける。足払いを跳んで回避し、足払いに連動した短剣による膝への攻撃を床に剣を突き立て、力を込めて倒立。
空中を一瞬でガングの短剣と僕の剣が複雑に行き交い、宙を舞った僕の体は天井を蹴り、床へ。
構わずにガングが間合いを詰めてくる。
防戦一方だった。全身のいたるところを切っ先がかすめ、皮膚が切れ、血が滲んでいく。どうにか動きを鈍らせない程度の傷で留めるしかできない。
ガングが持っているのは短剣で、つまり普通の剣の長さなら、こうはいかない。
焦燥感に駆られている僕が間合いを取ると、唐突にガングが足を止めた。
僕が躊躇ったわずかな間に、彼が左手で長剣を抜いた。
いよいよ、本気か。押し潰そうとしないとは、手を抜かれているな。
僕は集中するために、細く息を吸い、吐いた。
頬から、顎から、血が滴る。
ガングが、踏み込んでくる。
(続く)




