1-2 ナイフ
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第四都市の外れにある貧民街で、買い出しから帰ってきた僕を子供たちが出迎える。
みんなで分けな、と言って飴玉の入った袋を手渡すと歓声が上がる。子供の様子を見ていても仕方ないので、さっさと奥へ進む。
僕の両親はよくわからない。気付いた時には、貧民街で一人の老人に育てられていた。その老人も僕が四歳の時に死んだ。結局、その老人が僕の血筋に関係あるのかないのか、はっきりしたことはわからない。
四歳から様々な仕事をした。まともな仕事としては、新聞売り、靴磨きなどだが、そんなことをしていても、まったく金にはならなかった。
生活自体は、貧民街の中での助け合いで成立して、あばら家というより物置のようなところで寝起きして、安価で食べ物も分けてもらっていた。
今になってみると、僕はあまりにも服装も体も汚すぎて、それで新聞は売れないし、誰も靴を磨かせてくれなかったんだと思う。
だから、まずはスリから始めた。
幸いと言っていいのか、体力と足の速さは素質があって、財布を掠め取って、必死に走れば誰も追いつけない。
ただ、そんなことを繰り返しているうちに、汚れ仕事をする大人たちの目に止まったようだった。
ふらっと三十代くらいの男がやってきて、稼ぎたくないか? と言った。甘やかな声ではなく、つっけんどんで、実用重視とでもいうべき口調だった。
僕はその時、あまりにも腹が減っていて、いいよ、とすぐに答えた。
連れられて行った先はやはり貧民街の一角で、しかし比較的、まともな建物だった。一階は飲食店で、明かりがちゃんと灯っているのは、ほとんど奇跡だ。
中に入ると、数人の男たちがこちらを見た。誰もがどこか荒んでいる雰囲気を放射し、それが僕を見た途端、急に人懐っこい笑みになった。僕を歓迎する意志と、僕も自分たちの同類だと、見抜いたようだった。
そこを抜けて案内されて行った部屋は、物置のような部屋だけど、空間は残っている。
「ちょっと試してみよう」
男が懐から小さいナイフを取り出し、こちらに投げ渡してくる。抜き身だったので、危うく手を切りそうだった。
どうにか柄を握りしめると、柄は木製なのにひんやりとしていた気がする。しかしナイフを取ってどうすればいいか、それに迷った。
人を傷つけたいと思ったことはない。
人を傷つけてまで、何かを奪いたいと思ったことも、ないのだ。
「来ないのか?」
男がそう言った途端、直蹴りが僕の胸を痛打し、その時の僕は体がないのだから、勢いのままに足が床を離れて壁に背中から衝突していた。
「本能はあるらしい」
顔を上げると、男が嬉しそうに笑い、懐からタバコを取り出した。マッチが擦られ、慣れた様子で火がつけられる。
僕はまだ胸が激しく痛んで、呼吸するのも難しかった。
それでも片手でしっかりとナイフを握りしめているのが、自分自身でも不思議だった。
起き上がる前に、男がすくい上げるように僕を蹴りつけ、もう一度、壁にぶつかる。肋骨が折れたんじゃないかと思うほどの激痛。
次は踏みつけられ、床に頬と顎が何度も叩きつけられる、背骨が軋み、もう呼吸なんてできない。
しばらくして、男が動きを止めたので、僕は起き上がった。
何かが、僕の中で切り替わっていた。
それは、暴力を知った、ということかもしれない。誰かを傷つけたいがために傷つける、という行為。傲慢で、自分勝手なそんな考えが、痛みとともに僕の中に刷り込まれ、骨の髄まで沁み通った。
暴力に対抗する手段、それは、なんだ?
それは僕の片手にあるナイフ。
暴力そのものだ。
叫んだはずが、声はほとんど出なかった。その掠れ切った声は、しかし、僕の心の叫びだったと思う。
何があったのかは、わからない。最初だけはそれでも覚えている。ナイフを手に、僕は男に襲いかかった。
気づくと床に仰向けに倒れていて、それでもナイフを手放していない自分が、滑稽に見えた。
全身の骨が砕かれたように痛まないところはない。どうにか首の動きだけで、男を探した。
男は古びた椅子に座って、タバコを吸いながらこちらを見ていた。部屋は明るいのに、男のタバコの先が赤く光るのが、はっきりと見えた。
「才能があることは認める」
こちらに男の腕が向けられる。左腕の、手首より少し上のあたりが赤く染まっていた。それを見ても、自分がその傷を負わせたことは、実感がなかった。どう挑んで、どう抵抗したか、少しも記憶になかった。
「ガキ、お前の名前は?」
声を出すのにも力が必要だったが、答えないわけにもいかない。また蹴られ、踏み潰されるかもしれない。痛みは恐怖を伴わないが、これ以上に体を痛めつけたくはない。
「オーリー」
「良いだろう。オーリー。俺は仲間からジョズと呼ばれている」
仲間、というのが貧民街の人々ではないのは明らかだ。きっと、闇の中で働く男たちが仲間なのだと、想像した。
「立てよ、オーリー。仲間を紹介しよう。それとも起き上がれないのか?」
子供向けの、初心者向けの挑発だった。
僕はゆっくりと起き上がり、ナイフをどうするべきか迷った。
「くれてやる」
まるで犬に骨でも投げるみたいに、ジョズが僕の方へナイフの鞘を投げてきた。床に転がったそれを拾い上げ、まるで何年も使っている道具みたいに、自然と鞘に刃を納めていた。
ナイフを服のポケットに突っ込み、先に部屋を出て行こうとするジョズに続いた。
この時の僕はまだ五歳で、五歳の子供を闇社会に参加させようとしたジョズの行動は、何年も経ってやっと理解できるわけだけど、当時の僕はそんな人間の心理や感情、まさに情を、理解する余裕はなかった。
日々の生活に困っていたし、こうなっては暴力を身につけなくては、生きていけないのは明白だった。足が速かろうと、体力があろうと、ナイフで胸をひと突きにされれば、それで終わり。
一方で、僕は終わりを求めていたかもしれない。
家族もおらず、仲間もおらず、一人きりで、生活に困り、犯罪に手を染め、そんなことで明るい未来がやってくるとも思えなかった。
それなら誰か、とても敵わない相手に向かっていって、順当に命を奪われれば、少しは楽になれる。生きている必要はなくなるし、何かを憂うことも必要を失う。
死が救いだと、本気で信じていたのだ。
それが十年ほど前の僕だった。
貧民街の中でも上等な集合住宅の部屋に戻り、買い出しの食品を定位置に置いていく。背中の傷はまだわずかに痛む。
椅子に腰掛け、鞘から剣を抜いて、窓からの夕日にかざした。
真っ赤な光が、しかし血液とはまるで違う色合いで、刃を染める。夕日の赤はサラサラしていて眩しいのに、血液の赤は粘着質で、どこまでも沈んでいくように深い色合いなのを、いつの間にか理解していた。
剣自体は上等なものではない。しかももう長く使っていた。
刃こぼれがないのを確かめ、次に歪みを確かめる。道具の管理を怠れば、どこかで道具に裏切られる。そんなことをしたり顔で言った奴がいたが、そいつは僕が見ている前で、切り結んでいる最中に剣が折れて、あっさりと切り殺された。
死の瞬間、自分を裏切った剣を恨んだだろうか。
それとも納得した?
剣を鞘に戻し、僕は窓の外を見た。僕はいつも、窓の外を見ている。
遠くで子供達の歓声が聞こえる。
僕が生きている世界は、眩しいのか、それとも今、まさに貧民街を飲み込もうとしている夜の闇のように、奈落じみているのか、よくわからなかった。
わからなくても、生きていける。
立ち上がって、僕は窓のカーテンを引いた。
(続く)