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剣士の肖像  作者: 和泉茉樹
影に咲く剣
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1-2 ナイフ

     ◆


 第四都市の外れにある貧民街で、買い出しから帰ってきた僕を子供たちが出迎える。

 みんなで分けな、と言って飴玉の入った袋を手渡すと歓声が上がる。子供の様子を見ていても仕方ないので、さっさと奥へ進む。

 僕の両親はよくわからない。気付いた時には、貧民街で一人の老人に育てられていた。その老人も僕が四歳の時に死んだ。結局、その老人が僕の血筋に関係あるのかないのか、はっきりしたことはわからない。

 四歳から様々な仕事をした。まともな仕事としては、新聞売り、靴磨きなどだが、そんなことをしていても、まったく金にはならなかった。

 生活自体は、貧民街の中での助け合いで成立して、あばら家というより物置のようなところで寝起きして、安価で食べ物も分けてもらっていた。

 今になってみると、僕はあまりにも服装も体も汚すぎて、それで新聞は売れないし、誰も靴を磨かせてくれなかったんだと思う。

 だから、まずはスリから始めた。

 幸いと言っていいのか、体力と足の速さは素質があって、財布を掠め取って、必死に走れば誰も追いつけない。

 ただ、そんなことを繰り返しているうちに、汚れ仕事をする大人たちの目に止まったようだった。

 ふらっと三十代くらいの男がやってきて、稼ぎたくないか? と言った。甘やかな声ではなく、つっけんどんで、実用重視とでもいうべき口調だった。

 僕はその時、あまりにも腹が減っていて、いいよ、とすぐに答えた。

 連れられて行った先はやはり貧民街の一角で、しかし比較的、まともな建物だった。一階は飲食店で、明かりがちゃんと灯っているのは、ほとんど奇跡だ。

 中に入ると、数人の男たちがこちらを見た。誰もがどこか荒んでいる雰囲気を放射し、それが僕を見た途端、急に人懐っこい笑みになった。僕を歓迎する意志と、僕も自分たちの同類だと、見抜いたようだった。

 そこを抜けて案内されて行った部屋は、物置のような部屋だけど、空間は残っている。

「ちょっと試してみよう」

 男が懐から小さいナイフを取り出し、こちらに投げ渡してくる。抜き身だったので、危うく手を切りそうだった。

 どうにか柄を握りしめると、柄は木製なのにひんやりとしていた気がする。しかしナイフを取ってどうすればいいか、それに迷った。

 人を傷つけたいと思ったことはない。

 人を傷つけてまで、何かを奪いたいと思ったことも、ないのだ。

「来ないのか?」

 男がそう言った途端、直蹴りが僕の胸を痛打し、その時の僕は体がないのだから、勢いのままに足が床を離れて壁に背中から衝突していた。

「本能はあるらしい」

 顔を上げると、男が嬉しそうに笑い、懐からタバコを取り出した。マッチが擦られ、慣れた様子で火がつけられる。

 僕はまだ胸が激しく痛んで、呼吸するのも難しかった。

 それでも片手でしっかりとナイフを握りしめているのが、自分自身でも不思議だった。

 起き上がる前に、男がすくい上げるように僕を蹴りつけ、もう一度、壁にぶつかる。肋骨が折れたんじゃないかと思うほどの激痛。

 次は踏みつけられ、床に頬と顎が何度も叩きつけられる、背骨が軋み、もう呼吸なんてできない。

 しばらくして、男が動きを止めたので、僕は起き上がった。

 何かが、僕の中で切り替わっていた。

 それは、暴力を知った、ということかもしれない。誰かを傷つけたいがために傷つける、という行為。傲慢で、自分勝手なそんな考えが、痛みとともに僕の中に刷り込まれ、骨の髄まで沁み通った。

 暴力に対抗する手段、それは、なんだ?

 それは僕の片手にあるナイフ。

 暴力そのものだ。

 叫んだはずが、声はほとんど出なかった。その掠れ切った声は、しかし、僕の心の叫びだったと思う。

 何があったのかは、わからない。最初だけはそれでも覚えている。ナイフを手に、僕は男に襲いかかった。

 気づくと床に仰向けに倒れていて、それでもナイフを手放していない自分が、滑稽に見えた。

 全身の骨が砕かれたように痛まないところはない。どうにか首の動きだけで、男を探した。

 男は古びた椅子に座って、タバコを吸いながらこちらを見ていた。部屋は明るいのに、男のタバコの先が赤く光るのが、はっきりと見えた。

「才能があることは認める」

 こちらに男の腕が向けられる。左腕の、手首より少し上のあたりが赤く染まっていた。それを見ても、自分がその傷を負わせたことは、実感がなかった。どう挑んで、どう抵抗したか、少しも記憶になかった。

「ガキ、お前の名前は?」

 声を出すのにも力が必要だったが、答えないわけにもいかない。また蹴られ、踏み潰されるかもしれない。痛みは恐怖を伴わないが、これ以上に体を痛めつけたくはない。

「オーリー」

「良いだろう。オーリー。俺は仲間からジョズと呼ばれている」

 仲間、というのが貧民街の人々ではないのは明らかだ。きっと、闇の中で働く男たちが仲間なのだと、想像した。

「立てよ、オーリー。仲間を紹介しよう。それとも起き上がれないのか?」

 子供向けの、初心者向けの挑発だった。

 僕はゆっくりと起き上がり、ナイフをどうするべきか迷った。

「くれてやる」

 まるで犬に骨でも投げるみたいに、ジョズが僕の方へナイフの鞘を投げてきた。床に転がったそれを拾い上げ、まるで何年も使っている道具みたいに、自然と鞘に刃を納めていた。

 ナイフを服のポケットに突っ込み、先に部屋を出て行こうとするジョズに続いた。

 この時の僕はまだ五歳で、五歳の子供を闇社会に参加させようとしたジョズの行動は、何年も経ってやっと理解できるわけだけど、当時の僕はそんな人間の心理や感情、まさに情を、理解する余裕はなかった。

 日々の生活に困っていたし、こうなっては暴力を身につけなくては、生きていけないのは明白だった。足が速かろうと、体力があろうと、ナイフで胸をひと突きにされれば、それで終わり。

 一方で、僕は終わりを求めていたかもしれない。

 家族もおらず、仲間もおらず、一人きりで、生活に困り、犯罪に手を染め、そんなことで明るい未来がやってくるとも思えなかった。

 それなら誰か、とても敵わない相手に向かっていって、順当に命を奪われれば、少しは楽になれる。生きている必要はなくなるし、何かを憂うことも必要を失う。

 死が救いだと、本気で信じていたのだ。

 それが十年ほど前の僕だった。

 貧民街の中でも上等な集合住宅の部屋に戻り、買い出しの食品を定位置に置いていく。背中の傷はまだわずかに痛む。

 椅子に腰掛け、鞘から剣を抜いて、窓からの夕日にかざした。

 真っ赤な光が、しかし血液とはまるで違う色合いで、刃を染める。夕日の赤はサラサラしていて眩しいのに、血液の赤は粘着質で、どこまでも沈んでいくように深い色合いなのを、いつの間にか理解していた。

 剣自体は上等なものではない。しかももう長く使っていた。

 刃こぼれがないのを確かめ、次に歪みを確かめる。道具の管理を怠れば、どこかで道具に裏切られる。そんなことをしたり顔で言った奴がいたが、そいつは僕が見ている前で、切り結んでいる最中に剣が折れて、あっさりと切り殺された。

 死の瞬間、自分を裏切った剣を恨んだだろうか。

 それとも納得した?

 剣を鞘に戻し、僕は窓の外を見た。僕はいつも、窓の外を見ている。

 遠くで子供達の歓声が聞こえる。

 僕が生きている世界は、眩しいのか、それとも今、まさに貧民街を飲み込もうとしている夜の闇のように、奈落じみているのか、よくわからなかった。

 わからなくても、生きていける。

 立ち上がって、僕は窓のカーテンを引いた。




(続く)

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