4-41 国を捨てる
◆
ファナと再会した時、彼女は平然とした様子でやってきて、遅い、とだけ言った。
これでも急いだのだが、それでも一ヶ月は優に過ぎているから、遅いといえば遅い。
「悪かった。これでも急いだんだがね」
「言い訳する男は、男の風上にも置けない」
「手厳しいね」
ファナは鼻を鳴らして、どうやらそれで水に流してくれたらしい。
俺を伴っている特使は立派な顔ぶれで、馬車が二台と、騎馬隊からの派遣らしい兵士が二十人、歩兵が五十人ほどだ。しかしこれが野営などせず、どこかしらの街で夜を過ごすため、進行は遅々としている。
それもあってファナを迎えに行くのが遅れたわけで、全部が俺の責任ではない。
特使その人はシペルタという五十代の男性で、聖王のそばで働く立場ようだ。しかし権威主義的なところはまるでない。従者も一人しかつれていない。騎兵が歩兵を二人引き連れていることを思えば、清々しささえある。
シペルタの他に文官は三人いて、そのうちの一人は通訳だ。だが、さすがに大陸王国と神聖王国の交流のなさを反映しているのか、俺やファナの方が通訳として役立ちそうだった。しかしまさか代役を務めるわけにはいかないのが、国際政治という奴なんだろう。
このちょっとした行列は雪がちらつく日に、国境地帯に到達し、神聖王国の騎兵三人とともに文官二人が、大陸王国側へ進んでいった。これを俺たちは神聖王国の国境警備隊の陣地がある丘の上から見ていた。文官の一人は例の通訳だ。
「どうにも不安だけど、うまくいくかしら」
ファナが囁いてくるが、俺としては「どうかな」としか言えない。
その日の夕方になって、騎兵と文官たちは帰ってきた。報告によれば、事前の約束通り、大陸王国側の特使が待ち構えているらしい。
「意外にうまくいったわね」
「まだ交渉は始まっちゃいない。やっと料理が揃った、ってところだろう。これから乾杯だよ」
そんな冗談をファナと交わしているが、神聖王国御一行様は乾杯どころではない。戻ってきたばかりの文官を中心に、作戦会議の最中だ。兵士たちはやや寛いでいるが、慢心は見えない。
ここで大陸王国が突っ込んでくることを考えない、というほどの間抜けではないらしい。もっともそんなことをする理由はないわけだけど。ただ、戦いというのは油断させることができれば、容易に敵を打ち破れる。そのための策略や策謀なんて、頻繁なものだ。
日が暮れて、国境警備隊の明かりの中で、俺は離れたところに見える大陸王国軍の篝火を眺めた。
いつの間にか故郷や故国は遠く離れてしまった。
今の俺は、どちらに属しているのだろう。大陸王国か、神聖王国か。
夜が深くなっても俺はそこに立ち尽くして、何度も歩哨に不審げな視線を向けられた。俺が寝返るとでも思ったかもしれない。
翌日には両国の特使が国境地帯へ進み出て、ちょうど真ん中で対面した。俺とファナは何かの責任者でもあるかのように、二つの国の特使の会談の場に紛れ込んでいた。
大陸王国の特使はオークリッド伯爵という初老の男性で、俺も顔は見たことがある。テダリアス二世が頼りにしている貴族の一人だ。
会談ではオークリッド伯爵とシペルタの両者が向かい合い、それぞれに横に通訳を置いて、さらに背後に兵士を控えさせていた。俺とファナは明らかに場違いだが、仕方がない。
さらに居心地が悪いのは、俺もファナも神聖王国の神官騎士団の制服を着ていることだ。オークリッド伯爵からすれば、俺とファナが寝返ったように見えたかもしれない。それも昨晩の歩哨よりも深刻に。
俺とファナは大陸王国の言葉と神聖王国の言葉を解するために、きっとその場の誰よりも詳細に会談の様子を把握できた。
両国が武力に訴えた侵略という可能性を放棄することと、物資の売買に関するやりとりがあったが、特使二人の管轄を外れる要素もあり、それは翌日、連れてきている専門家の意見を交換する、となった。
会談の席に酒が用意されるが、念入りなことに、大陸王国が用意した酒がシペルタの手に渡り、神聖王国が用意した酒がオークリッド伯爵の手に渡った。
両者が微笑み合いながらグラスを触れ合わせ、ぐっと酒を飲み込んだ。短い沈黙の後、両者が笑い出す。見ている方は気が気じゃないが、どうやら両者は分かり合えたようだ。
翌日の再会を誓う言葉の後、オークリッド伯爵が俺とファナに話がある。と言い出した。シペルタはそれを許したが、自分の通訳の同席を求めた。これにはオークリッド伯爵が譲歩して、受け入れる。
こうして俺とファナは久しぶりに大陸王国の言葉で会話する場面を得た。
「きみたちのその服装はなんだね」
それがオークリッド伯爵の最初の言葉だったが、俺は考えていた言い訳をそっくりそのまま口にした。
「他に着るものがなくて」
「男が言い訳とは、恥ずかしくないのかね」
この男はファナと気が合いそうだ。
「君たちを連れ帰ってもいいし、そのまま置き去りにしてもいいと、陛下はおっしゃった。もちろん、置き去りというのはそっくりそのままの意味ではないだろうが」
オークリッド伯爵があまりにも神聖王国の通訳を気にしないので、冷や汗をかきそうだ。もっと単刀直入に言ってくれないと、あらぬ誤解を生む。
「神聖王国で生きるのなら、大陸王国とは絶縁するよりないでしょうね」
俺がはっきりさせると、わずかにオークリッド伯爵が目を細め、俺を見て、ファナを見る。彼女は「私は神聖王国で生きます」とあっさり答えた。
「きみもかね、シン・ホワイトウッド」
「まあ、それが無難でしょう。俺は元々、どこにも落ち着いていないような、そんな男ですから」
「わかった。剣聖殿の見立ては正しかったわけだ」
あの女性は目が見えないが、こういうところはよく見えるらしい。
「これだけは伝えろと言われている」
オークリッド伯爵はそう言って、わずかに咳払いした。
「クツル・オージーが亡くなった。三ヶ月前のことだ」
……そうか。
「教えていただき、ありがとうございます」
「いつか墓に花でも手向けてやれ」
また誤解を招く発言を。
俺はないも言わずに、オークリッド伯爵が去っていくのを見送った。ファナも珍しく黙って、じっとしていた。
こうして俺とファナは、大陸王国と神聖王国の関係をわずかに変えることに貢献したわけだが、二人ともが生まれた国を捨てることになった。
俺は二十三歳になっていた。
(続く)




