4-35 何かを変える一撃
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クツルが住んでいる小さな小屋は、先王陛下が用意してくれていた。
先王陛下の屋敷の敷地にいるのは主義に反するなどとクツルは言ったと伝え聞いている。オーリーとの話し合いの末に、少し離れた丘の上に、新しい小屋が建てられた。
俺がそこへ行くのは初めてだった。
大陸王国へ戻ってからはとても時間的余裕がなかったからだ。クツルについて調べることも稀で、調べなかった理由は余裕がないというよりは、クツルがどうなっているか、それを知るのが怖かったことによる。
もしクツルが動けなくなっていて、誰かの介護を受けているというのは、想像したくなかった。
俺の中では、徹底的に俺を打ち据え、組み伏せる、そういう使い手のままで記憶の中にクツルを保存しておきたかった。
駆け通して朝になった時、その小屋が見えた。空気が冷え込み、重く雲が垂れ込めている。ファナが来る頃には雪になるだろうか。
小屋のドアを叩き、中へ入ると小さな暖炉の前で、椅子に座っている老人の背中が見えた。
何かがこみ上げてきたが、ぐっと堪える。老人が首をひねってこちらを見た。
「久しぶり、クツル」
「久しぶりだな、シン。まあ、座れ」
空いている椅子を引っ張って暖炉の前に行き、俺は腰掛けた。
二人の間にはなかなか言葉もなく、沈黙の中で暖炉の中の薪が爆ぜる音がはっきり聞こえた。
「神聖王国に行ったよ。そうしたら、抜け出せなくなった」
冗談が通じだようで、クツルは小さく笑うと、馬鹿なことを、と言った。
「だがお前らしいかもしれない」
「クツルは何をしていた?」
「何年も会っていないのだよ、そんな長い期間のことは忘れてしまったな」
それもそうか。覚えていても、話をするにはあまりにも時間が足りない。
「手紙にあったファナという娘はどういう娘だ?」
珍しいことにクツルの方から質問してきたので、俺は彼女が魔技の使い手だと伝えた。
「一人で十人は相手にできるだろうと思う。見えない斬撃を使うけど、剣で防げるかはわからない。剣さえも切るかもしれない」
「それは恐ろしい」
暖炉の光がクツルの表情にめまぐるしく変わる陰影をかすかに浮かび上がらせる。
「それなのに、剣聖に切らせるのか?」
「生き残れるさ、きっと」
「確率は?」
「五分五分」
またくつくつとクツルが笑った。
「半分の確率で死ぬか。剣聖が相手なのだ、それでも十分なのだろう」
「あいつはさ、どこか裁かれたがっているところがある。否定して欲しいんじゃないかな。俺も詳しくは知らないけど、苦労人なんだ」
「剣聖に切られて、何が変わる?」
「自分が死んだと思い込める」
馬鹿げたことを、とクツルはつぶやき、もう口を開くことはなかった。
昼過ぎから雪が降り始め、俺は外の様子を見に行った。
しんしんと降る雪は、周囲をまっ白く染めている。人気もなく、静かだ。かすかな雪が降り積もる音が静けさを際立たせている。
自分が死んだと思い込める、か。
自分の言葉を反芻すると、俺自身はどうなのか、それが気になった。
俺はまだ生きている。幼い頃、烈の剣聖が俺を一度、殺した。何かが切り替わったような気もする、何かが解き放たれたような気もする。
何かが、楽になったような気もするのだ。
死なないことの証しのように、傷跡は今も胸にある。
誰かが近づいてくる。小柄なその姿は、間違いなくファナだ。
彼女を小屋の中へ入れ、クツルを紹介し、お茶を用意したが、本当の客人が間をおかずにやってきた。
傷だらけの顔をした、この国で最高位の称号を持つ剣士の一人。
小屋の外でファナとオーリーが向かい合うのを、俺とクツルは並んで見ていた。
決着は一度でついた。
血が弾け、地面を覆う真っ白い雪の表面に、真っ赤な花が咲く。
ファナの体がゆっくりと傾き、仰向けに倒れた。
「死んだかな」
ぼそりとクツルが呟く。俺は飛び出してファナの安否を確かめた。
胸から腹にかけてを切り裂かれているが、まだ息はある。応急処置に必要なものを取りに行こうと小屋を振り返るとすぐそばに剣聖が立っていて、驚いた。それどころか、彼の首筋に近い辺りが赤く染まっていて、それで二重に驚いた。
「大丈夫? オーリー」
「速さ比べだったな。僕の剣の方が早く深かった。しかしこの女の子の一撃も、僕を確かに捉えた。恐ろしい使い手だよ。それとシン、彼女が魔技を使うと知っているなら教えてくれよ」
「教えたら、確実に殺しただろ?」
「剣聖が傷を負うとは、笑うに笑えないよ。さあ、雑談をしている暇はない、彼女を助けなくちゃ」
それからが慌ただしかった。
出血が激しいのをどうにか圧迫して血が流れ出るのを防いで、彼女を運ばなきゃいけない。行き先は決まっている、先王陛下の屋敷だ。
夜になって、やっと担架に乗せたファナを担ぎこみ、オーリーがやや職権乱用ながら、ファナの治療を先王陛下付きの御典医に任せた。ほとんど死体ですね、と御典医はつぶやき、治療を始めた。
俺はやることもないので、部屋の外でしばらくオーリーと並んでいた。だけどすぐに治療は終わらないとわかったので、クツルの元へ戻ることにした。
「ちゃんと挨拶していくんだぞ、シン」
別れを告げる俺に、オーリーはそんなことを言った。俺が何をしているか、どういう任務に従事しているか、知っているようだ。
挨拶というのは、クツルにだろう。
神聖王国へ行ってしまえば、いつ帰ってくるかわからない。
久しぶりに見たクツルは、明らかに死の気配に取り巻かれていた。
俺はオーリーに頭を下げ、屋敷を出た。
夜になっても雪は降り続いている。
今だけは、と走らずにゆっくりと俺は歩いた。
すぐに肩に雪が積もり始めた。
(続く)
 




