4-31 奇妙な女とのすれ違い
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神聖王国と大陸王国の国境は、ネイスンが用意してくれた書類によって、正規の国境警備隊による足止めだけで、自然と通過することができた。
俺はネイスンの所属する貿易会社の調査員で、所属は神聖王国になってしまっているが、それでも問題ないだろう。大陸王国では、国籍を気にするものが少ない。逆説的なのだが、大陸王国が異国人に否定的であるため、そもそも異国人はいないと思っている。
国境地帯から走り続け、春の雨が激しく降った翌日、俺は増水している川をどうにか超えられないか、河原を歩いていた。
そこでたまたま、川岸に倒れている女が目に入った。
死体か。増水した川に流されるとは、ついていない。
親か兄弟が探しているかもしれないけれど、死体は喋らないから、家族の元へ返すことはできないが、それでも葬ってやる必要はあるだろう。
その女の死体を抱え上げた時、かすかに熱を感じた。首筋に触れてみると、脈がかすかにあった。生きているとは奇跡的だが、残念ながら俺は医者ではない。薬もない。
死ぬかもしれないが、放っておくわけにもいかないな。
抱え上げて川を離れ、木立の中で比較的、開けた場所を選んで女を寝かせた。焚き火を起こして、水を飲んでいるかな、などと思っている俺だが、どういうわけか女は呼吸しているのが胸の上下ではっきり見えたので、放っておくことにした。
自殺志願者かもしれない、とも思った。
ただ、服装が旅人のそれなので、事故の可能性がやや高いか。足を滑らせて川に転落した、とか。
俺には先を急ぐ理由があるが、まさか女を捨てていくわけにもいかなくなった。
これから先の計画を立てているうちに、女が目を覚ました。しかし唸っているので、無理矢理に胸を圧迫して、呼吸を正した。それで意識ははっきりしているが、動けないようだ。どこかを骨折している。見たところでは左肩と、肋のようだ。
それだけで済んでも奇跡的だ。
俺は彼女に四日後に戻ってくると話した。
国境を抜けるに当たって、ネイスンからの依頼で、一通の書状を届けて欲しいと言われていた。中身は俺は知らない。仕事のためだとしても、表の仕事か裏の仕事かは知らないのだ。でもそれがネイスンの優しさにも思う。俺を不用意に巻き込まない意図が見えるから。
俺は女を置き去りにして、ひたすら走って小さな街にある旅籠へ封書を届けた。ネイスンがそこを指定し、期日も指定していたがかろうじて遅れることはなかった。
旅籠にはあまりいい思い出もないので、さっさと買い物をして、来た道を戻った。
約束通り、四日後に女のところへ戻ったが、女はかろうじて生きていた。
食事を用意し、傷を手当し、数日を一緒に過ごした。
彼女はファナと名乗った。知らない名前だが、自殺志願者ではない。
旅籠に行くまでの道筋などで何度か近衛騎士団に誰何されたことを思い出し、ついでに聞いていた噂も交えて探りを入れたが、どうやらこのファナという女が、近衛騎士団の目当てだったらしい。
その近衛騎士団もすでに王都へ引き上げつつあるようだから、ファナは死んだことになったと思われる。そのファナが今のまま大陸王国にはいられないはずで、俺は親切心でこの女が国外へ脱出する手はずを教えてやり、書状さえ書いた。
以前に飛脚の仕事で知り合った漁師で、海を行けば港湾都市までまっすぐに行けるはずだ。気難しい漁師だが、手を貸してくれるだろう。
四日ほどをファナと過ごし、彼女は俺が適当に用意した薬を服用し、動ける程度にはなった。やや不安だが、木立の中で別れた。彼女がこの先、どうなるかは俺にはわからないし、知る術もない。
神聖王国へ逃れるのなら、ネイスンの助けも借りれたが、彼には俺は迷惑をかけるつもりはない。現状でも借りが多すぎるほどなのだ。
ひたすら走って、俺は先王陛下の屋敷に向かった。大陸王国をほとんど横断することになり、時間だけが無情にも過ぎていく。夏が終わり、秋になり、落ち葉を踏みしめて屋敷の前に立った時は、感慨深いものがあった。
玄関から中に入ろうとすると、見張りの兵士が教えたのだろう、オーリーが出てきた。傷だらけの顔が眩しいものを見るような表情になる。
「立派になったな、シン。中へ入って、話を聞こう」
頭を下げて、剣聖と一緒に屋敷に入ると、帰ってきたな、としみじみと感じた。
角部屋の書斎で、以前と変わらぬ様子で先王陛下は俺を出迎えた。
落ち着く間もなく、俺は神聖王国で見た太陽同盟との紛争の様子をつぶさに伝えた。俺は正規の軍人としての訓練を受けていないが、神聖王国の神官騎士団は手強く、そして太陽同盟軍もそれに劣らぬ精強さだとはわかる。
もし大陸王国が紛争を抱えるようになれば、神聖王国と太陽同盟、この二つを相手にする必要が生じるのは明らかだった。両国が何らかの約定を結んで共同歩調を取れば、大陸王国は南西の戦線と北西の戦線、二つに対処しなくてはいけなくなるのも、軽視できない問題だった。
「まったく、シンは立派になりすぎたな」
俺が話し終わると、ジャニアス三世陛下はそう言って笑った。オーリーも笑っている。
「そんなに面白がってるような場面でもないと思いますけどね」
やや苛立ってそう応じる俺に、もっと耳を傾けてくれる相手を紹介しようか? などと、先王陛下は嬉しそうに言う。
「先王陛下が口にした方が、俺のような無名の人間が訴えるより、よほど響くと思います」
「もっと響く相手がいるのさ、私よりもね」
誰のことだろう?
じっと見据えると、ジャニアス三世陛下は平然と口にした。
「息子だよ。テダリアス二世」
まさか、と言いたかったが、声が出ずに口が動いただけになってしまった。
先王陛下に拝謁するのにはいつの間にか慣れてしまったが、まだ現在の国王、テダリアス二世と話したことはない。何度か遠くで顔を見たが、それだけだし、テダリアス二世陛下も俺のことなんて知らないだろう。
「いきなりは無理だろうけど、火焔の剣聖なら大丈夫だろう。紹介状を書いてあげよう」
あっさりと引き出しから便箋を取り出し、ペンを走らせる先王陛下を俺は呆然と見ていた。
「シン、お前は自分自身のことを勘違いしていないか?」
影の剣聖の言葉に、ぼんやりそちらを見ると、傷だらけの顔に笑みが浮かんでいる。
「お前は自分自身で思うより、ずっとずっと、面白い人間なんだぞ」
「面白いって……」
絶句する俺には、くすくす笑うオーリーと、真剣に書状を書いている先王陛下は、何かの冗談だとしか思えなかった。
しかし実際に、その一時間後には俺は書き上がったばかりの書状を手にして、夜の屋敷を飛び出したのだった。
休んで行くように言われたが、とてもそんな気分になれなった。
今度は王都へ走らなくてはいけない。
半ばやけくそで、俺は冷たい風が吹く夜を走り続けた。
(続く)
 




