1-16 優しさが示すもの
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牧というには小さいから、馬場とでも呼べばいいのだろうか。
柵に寄りかかって、エラが酒瓶から直接に中身を飲み、夜空を見上げた。僕もそちらを見るが、星座というものは何も知らない。
「第四都市は大変だったねぇ、オーリー」
「ええ、色々なことがありました」
エラも例の事件のことは知っているんだろう。視線を今度は下に向け、酒瓶を揺する。水が揺れる音がした。
「俺はねぇ、元はあそこの貧民街の出だよぉ」
思わずエラを凝視するが、明かりが弱すぎて顔はうかがえない。俯いていることもあり、影になっていた。
「かれこれ、二十年は前だねぇ。俺はどうしようもねぇ悪党で、親方と呼ばれている男に仕えてはいたが、あれは仕えるというより、飼われていたって感じかなぁ。懐かしいよなぁ」
ぐっと酒瓶を煽るエラ。
「ある時ねぇ、人を切るように言われたのさぁ。元々はチンピラを殴り倒してねぇ、その腕力を見込まれてはいたのにさぁ、相手は剣士だったんだよぉ。俺は剣なんてよぉ、これっぽっちも使えねぇ。でぇ、剣を貸してもらってぇ、仕事に行くふりををしてねぇ、逃げちまったのよぉ」
くすくすと笑いつつ、エラがこちらを見る。やっぱり月明かりでは表情を見れなかった。
「剣を売り払ったのは俺さぁ。金がなくてよぉ、剣を売ってさぁ、馬を盗もうとしてねぇ。しっかりとねぇ、捕まったわけさぁ。警察じゃねぇよぉ、サシの父親さぁ。熊みたいな大男でねぇ、殴られた時は死ぬかと思ったぁ。が、そこはそれ、俺も殴り貸してなぁ。サシが止めるまで殴り合って、お互いに倒れたのさぁ」
拳を繰り出す身振りをして、倒れるのを表現している動作をして、またエラは笑った。何かを懐かしがっているような雰囲気だった。
「目が覚めたらよぉ、隣で唸りながら親父殿が寝ていてなぁ、俺の方が早く目覚めたぁ。親父殿が目を覚ました時にねぇ、俺が負けた、とおっしゃったなぁ。それで、サシの婿になれ、っていうんだぁ。そして俺の商売を継げってねぇ。馬を盗もうとした俺だがよぉ、馬になんて乗ったこともなかったからさぁ、断ろうとしたさぁ。しかし、親父殿に口説き落とされてねぇ、ここに収まったわけよぉ。幸運だったなぁ」
ぐいっと酒瓶を傾け、動きを止めて、口も止めて、彼はどこかを見ていた。僕は視線を送る先がなく、また上を見て、星を見つめた。いくつもの星が輝いている。
「お前にもそういう幸運がさぁ、あるといいなぁ」
本気で僕の身を案じているようで、エラの声には温もりのようなものがあった。不意に、あのデリカテッセンの店主や、ルクーのことも思い出された。
僕はどうして、こういう優しさ、温もりを拒絶してしまうんだろう。
どうして離れようとしてしまうのか、深く考えたことはなかったけど、何かが僕に危険を訴えるようだった。近づきすぎると、まるで火を前にしているように、本能が危険を感じ取る。
暖かいだけのはずが、その向こうに何かが見えるのか。
「明日には出て行きます」
うん、とエラが頷く。そして夜の闇の中で、こちらに酒瓶が突き出された。
「飲むかぁ? よく眠れるよぉ」
「酒はあまり好きではありません」
「じゃ、家に戻るかぁ」
僕たちは建物の中に戻った。するとサシが僕の寝床を用意してくれていて、頭を下げて礼を言った。サシが嬉しそうに笑っている。明かりの中では、エラも穏やかに笑っている。
明かりが消され、僕は布団の中で横になり、ぼんやりと梁の辺りを眺めていた。
この先、どこへ行けばいいのだろう。もう第四都市からは離れすぎて、そして何の伝手もなく、知り合いすらいない。
僕は何を力にして、生きていけるだろう。
剣のことが、すぐに浮かんだ。僕には剣がある。エラは逃げ出したと言ったけど、僕には挑んていく力がまだあるかもしれない。何に挑むにしても、だ。
結局、僕は剣を手放せないし、この手を汚しながら生きていくしかないらしい。そのことにもう抵抗はない。もし抵抗を感じたり、過去を否定しようとすれば、それはそのまま僕が命を奪った人を、軽んじることじゃないだろうか。
今まで、僕が奪った命に恥じない生き方をしなくては。
それは責任とも使命とも言えるけど、あるいは贖罪でもある。
翌朝の明け方になって短い時間、眠った。物音に目覚めると窓のカーテンの向こうは明るくなっている。起き上がった所で、奥からサシがやってきた。
「おはようございます。朝食を用意しますね」
「ええ、すみません、お世話になります」
頭を下げると、サシも頭を下げ、土間に降り、そのまま外へ行ってしまった。僕も後を追うように外に出ると、馬が駆けているのが見えた。エラが柵の中に馬を次々と放していく。サシは昨日は見えなかった小さな畑で野菜を収穫している。
僕はしばらく、馬が自由に駆け、草をはむ様子を見ていた。エラが用意した水桶で水を飲む馬もいる。
サシが朝食の時間を告げると、エラが柵の外へ出てきた。僕に気づいて、笑みを見せる。
「馬は良いぞぉ、従順でねぇ、力強いんだよなぁ」
「ええ、それは、見ていてわかります」
「さぁてぇ、飯だぁ、飯ぃ。腹減ったなぁ」
三人で朝食になり、食べ終わってから僕は持っていた銀の粒を一つ、エラに手渡した。「遠慮なんてしないぞぉ」と笑って、それをエラはサシに手渡し、サシはお辞儀をして嬉しそうに笑った。楽な暮らしではないんだろう。
別れを告げて、昼過ぎには元の街道に戻っていた。足早に先へ進む。昼食として、保存がきくパンをサシが持たせてくれた。水筒もだ。
夕方には宿場に着いた。旅籠ではやはり断られるが、普段の自分を殺すつもりで、脅迫するように迫り、小さな旅籠で部屋を取ることができた。その夜はそこで過ごし、翌朝、番頭だろう中年の男に銀の粒を握らせ、武器商人がいるか、確かめた。
武器商人というほどではないが、刀剣を扱う店はあるという返事を聞き、場所も聞き出した。
昼前に出かけていくと、宿場自体が小さいので、当の刀剣を商うという店も立派な造りではない。中に入ると、それでも金属独特の匂いがした。
「いらっしゃいませ」
まだ若い男が出てくる。それでも僕よりは年上で、服装からすると鍛冶師ではあるようだ。
「剣を一振り、欲しい」
ぶっきらぼうに言う僕の顔をじっと見てから、ご希望は、と男が先ほどとは違う、いくらか真剣な声になった。まるで僕が彼に刃物を突きつけているような、そんな様子だ。
僕は少し表情を緩めるように意識したけど、口調までは変えずに、いくつかの要望を口にした。長さと重さ、重心の位置という程度だ。男は何度か頷き、お待ちください、と店の奥へ下がっていった。建物の外観からは、それほど奥行きはない。
立ったまま待っていると、男が布に包まれた棒を持ってきて、僕の前で布を取り払った。
そこには一振りの剣があり、確かに僕が要求した条件を満たしそうだ。
「私の父の作品です」
頷いて、剣を手に取る。
なるほど、これはいいかもしれない。柄を握った時、吸い付くような錯覚。
「いくらかな?」
男はまだどこか警戒した様子で、値段を口にした。僕は最後まで残していた銀の粒をほとんど全部、彼に渡して、一度、剣を返して研いでくれるように頼んだ。彼は頷き、夕方には出来上がるので届ける、と言った。部屋を取っている旅籠の名前を告げる。
店を出ると、久しぶりに剣を取ったというのに、今、手元に剣がないのが、どこか不自然に感じるのは、自分でも不思議な心情だった。もう何週間も、剣なんて触れてもいなかったのに。
宿に戻り、部屋で横になって、しばらく窓から見える空を見ていた。
昼間には、星は見えない。でもきっと、今もそこに星はあるんだろう。
(続く)




