3-50 故国
◆
帰ってきたな、と王都の中を歩きながら、考えていた。
王都を脱出して四年近い月日が過ぎている。時間はすでに夜で、しかし絢爛な灯りに暗闇の中で街全体が浮かび上がるように感じる。
目的の屋敷の正門を通り過ぎ、人気がないのを確認してから地を蹴って、塀を蹴ってからその上の柵に飛びつき、身軽にそれを超えた。
庭の一角に降り立ち、そっと進み、何度も手を合わせた墓所に向かう。庭木の間にそれが見え、片手に持っていた花束を二つの碑の前に置いた。
片方はエッタ・コッラ、片方は、ロイド・コッラのための碑だった。
ロイド・コッラ公爵は、私が王都を脱出するのに手を貸してから、ほんの二ヶ月後に亡くなっていた。過度な飲酒により体調を崩していたらしいけれど、私が彼に負担をかけた可能性は否定できない。
コッラ公爵家はエッタの姉の夫が当主となり、今でも相応に力を維持しているようだ。
私はしばらくその二つの碑を見ていた。
背後で物音がする。振り返ると、口元を手で押さえた女性の姿がある。
コッラ公爵家に出入りしていた時に、何度も顔を見た使用人の一人だ。私は素早く唇の前で指を立てた。彼女はまだ呆気にとられて、立ち尽くしている。
「謝りに来ただけだから」
そう言っても、まるで彼女は亡霊が目の前に現れたような真っ青な顔で、動けずにいる。
それもそうか。私は死んだも同然だった。
「もう行くよ。元気でね」
素早く身を翻した時、やっと彼女が悲鳴をあげた。その悲鳴は夜の静けさの中で、十分すぎるほどに響いていく。
庭木の間を走り抜け、今度は木を蹴りつけて柵に掴まることができた。体を引っ張り上げ、路上へ出る。通行人がぎょっとしているのをよそに、全力疾走で夜の王都を駆け抜け、そのまま私は改めて王都を抜け出した。
街道の一つを夜通し駆け続け、宿場を二つほど抜ける。ここまで生き延びた自分の基礎体力は、想像以上だった。
それでもグッタリして三つ目の宿場にたどり着き、旅籠に部屋を取ると、着替える間もなく眠ってしまった。目が覚めると夕方だ。食事に出る前に、水で汗と汚れを落とし、やや臭う服のまま赤く染まる宿場に買い出しに出た。
簡単な食事と、質素だが丈夫そうな服を手に入れ、旅籠に戻っで料金を精算すると、明かりらしい明かりもない街道の先へ、進み始める。
季節は真夏で、夜でも寒いことはなく、むしろ心地よく感じる。
神聖王国で二年を過ごしたせいか、大陸王国の全てが懐かしく感じる。夜で景色が見えるわけでもないし、夜空だって二つの国に大差はない。それなのに何が違うのか、不思議な感覚だった。まるで空気が違うようにも感じる。でも、空気だってどこでも同じ空気だ。
夜明けに宿場につき、適当なところで休む。また夜になると歩き出し、次の宿場へ。
そんな旅が数カ月も続き、夏は終わり、秋も終わった。服装は少しずつ厚着になり、街道を行き来していた農作物を運ぶ荷車の姿も消えてしまった。
空気は引き締まり、息が白くなる。
旅の終着点は、一つの小高い山で、そこを上がっていく道には、懐かしいものがある。朝日の中でどこを見ても、見覚えがあるような気がした。小さな集落がいくつもあり、しかしすでに田畑は農作業の時期ではない。
やがて大きな門が現れるが、開け放たれたままだ。見張りもいないのは、治安がいいからだろうか。
さらに先へ進むと、屋敷が見えてくる。使用人が道に落ちた落ち葉を片付けているのが見えて、余計な混乱を避けるために、植え込みを横切り、手入れの行き届いた庭も横断する。季節が季節なら、様々な花が咲いていただろうけど、冬に咲く花は少ない。
そのまま記憶の通りに、墓所が見えてきて、その祠のようなものの前に立つと、何かが私の中でストンと落ちた。
祠の奥にいくつかの碑が建っていて、そのうちの一つに掘られている名前は、父の名前だ。
ルティアンタ・モランスキー。
私は今は、一輪の花さえ持っていない。
ここにこうしてきたことで、父には我慢してもらうより、ないのだ。
「お嬢様……?」
背後に人がいるのには気づいていた。その誰かが逃げないことも、知っていた。だからその声は、予想通りの低い声で、震えていることさえも予想のままだった。
振り返ると、そこに立っているのは老執事のきっちりと身だしなみを整えた姿。
「久しぶり、レイダ」
私の言葉に、執事は絶句し、ふらふらと近づいてくる時には、その両目には涙が浮かんでいた。
「お嬢様、生きてらっしゃったのですね……、しかし、これは、夢でしょうか? 私の見ている、幻か……」
「現実のことよ。でも、ほんの短い時間だけのことだけど」
ああ、と呟いて、私の両肩に手を置き、それから上腕の辺りを叩い、どうやらそれでレイダは自分が見ているのが幻ではないと確信したらしい。
「いつ、こちらへ?」
「たった今ね。でももう、行かなくちゃ」
私の言葉に、執事はうまく言葉を発せないようだった。それは死んだと思っていた人物が目の前にいるから、ということだけではない。モランスキー伯爵家の現在の状態にも意味があると私は知っていた。
「家のことは知っている。後を任せて申し訳ないけど、元気で」
その言葉で、レイダは何かを察し、頷いた。
モランスキー伯爵家は今では血筋が絶えている。父は私が王都から消えるのと同時に、責任を取って当主の座を降りたのだが、息子も娘もいなかったため、他の貴族から養子を取った。それも落ち目の貴族の三男坊で、ほとんど形式だけの悪あがきだ。
そして父はそれから数ヶ月で世を去った。
モランスキー伯爵家は今は、その養子の青年のものになり、領地経営は比較的うまくいっているようだ。私は全く面識がないが、領民が平穏に暮らせるなら、それが一番だ。
私が生きていると色々と厄介だから、レイダも黙っているだろう。
「それじゃあね」
私の方からまだ私を捕まえようとしているレイダの手を下げさせて、背を向けると、レイダが小さな呻き声を上げたようだった。でも彼はきっと最後の自制心で、それ以上は何も言わなかった。
私はまた庭を横断して、門のところへ出ると、そのまま山を下り始めた。
下り始めたけど、すぐに前方に五人の人間が立ちふさがった。
真っ黒い衣装で揃えた男たちが無言で剣を抜く。
結局は、こうなるのだ。
どこへ行っても。
生きている限り。
(続く)




