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剣士の肖像  作者: 和泉茉樹
無の剣
127/188

3-43 海

     ◆


 季節が秋になる頃、峠の上から遠くに海が見え、やっとここまで来たかと感慨深かった。

 薬は数週間前に飲み終わったが、全身の傷はいつの間にか癒えて、何の問題もなく動くようになっていた。左肩だけが、まだ少し違和感がある。動きが鈍いけれど、痛みはなかった。

 緩やかな道を下っていき、徐々に人が増えてくるのを眺めた。

 シンが渡してくれた銭の半分が服に変わり、残りの半分でひもじい思いをしながらここまで来た。

 体が万全になったということは、働くことが可能になったわけで、漁村かどこかで、少しは働かせてもらえるだろうか。漁の経験どころか、船に乗ったことすらないけれど。大陸王国では、海軍は海軍で独立しているから、王立騎士学校には水兵はいない。

 海にほど近い街に着き、賑やかな市で魚を売っている男に、シンの紹介状にある漁村の場所を訊ねた。返事が曖昧だったので、魚をなけなしの銭で買うと、一転して店主は詳しく場所を教えてくれた。

 魚を捌こうか、と言われたので頼むと、生の切り身が器に並べられて出てきた。何かの黒い液体がかけられている。困惑を隠して、慣れた様子で口に運ぶと、魚の切り身は甘く、液体は奥深い塩辛さがある。

 美味しい、と呟くと、店主は嬉しそうに笑った。

 教えられた道を進んで、海岸に出て、浜辺を横目に進む。

 前方に船が何艘か、浜辺に並んでいるのが見えた。あそこが目的地らしい。

 誰かがいるかと思ったが、人気はない。防風林の陰に建物があり、浜辺の近くに本当に小さい小屋があるので、小屋の方を覗いてみると、老人が一人でタバコを吸っていた。鋭い眼光がこちらを向くが、表情は変わらない。

 紹介状の漁村かと質問すると、老人は無言で頷く。無表情はやっぱり微動だにしない。タバコの煙にむせても、次にはまた元の顔に戻る。

「ロドス港湾都市まで送ってもらえるはずなのですが」

「俺たちは漁師だ」

 やっと口を開いて、低すぎる声で唸るように老人が言う。

「では、漁のついでで構いません」

「漁は三日後だろう」

「三日後?」

 小屋の外、海の波は穏やかで、天気もいい。時刻は夕方になりつつあり、夕日が眩しい。明日もきっと晴れだろう、と思うのが自然だ。

 小屋の中に向き直ると、唐突に老人がタバコを灰皿で消し、立ち上がった。老人の腰が少し曲がっているのが、やっとわかった。この体で漁に出るとは、想像しづらい。

 姿勢は別にして、確かな足取りで老人が小屋を出るので、追いかける。

「三日くらいなら、待てますから、乗せてください」

「よそに船を向けるつもりはない」

 そっけない返事だった。

 しかし他にあてもないので、老人についていくと、浜辺にほど近い例の防風林に隠れた建物が老人の住処らしい。二階建てで立派だ。しかし古い。潮風のせいもあるのか。

 老人に続いて中に入ると、驚くことに建物の一階は壁がない広間で、生臭い匂いの中で四人の男性が賭け事をして遊んでいる。私に気づいて、四人ともが顔を上げるが、すぐに遊びに戻った。

「明日と明後日はなしだ」

 老人がそういうと、男たちがめいめいに返事をする。老人がどうするかと思うと、広間の隅にハンモックを用意し、その上に身軽に乗ると、そのまま眠るようだった。

 立ち尽くすしかない私は、四人組の方に話をしに行った。シンからの紹介状を見せると、そのことかと頷きあっている。

「親方が明日と明後日がダメと言うんだから、それまでは無理だよ」

 一番若い男性、二十代半ばくらいのヒゲ面の男が答えた。

「明日と明後日には何があるのですか?」

「海が荒れるってこと」

 海が荒れる? あんな様子なのに?

「お嬢ちゃん、ハンモックを一つ貸すから、何かしてくれよ」

 ヒゲ面がそういうので、思わず睨みつけていた。それだけで彼が慌て始める。

「違う違う、いやらしい意味じゃないよ、それははっきりさせよう。料理でも掃除でも洗濯でも、なんでもいいから、それで船に乗せることを許すことにしたい、ってこと」

 料理、掃除、洗濯、ね。

 父が私にそういう使用人がやることも叩き込んだことを、やっと感謝することになりそうだった。

 その日のうちから働き始め、四人組は私の料理に感想を言うでもなく、夕方まで賭け事を続けて騒ぎ続けたが、日が暮れると二階へ上がって、少しすると物音一つしなくなった。眠ったらしい。

 私はハンモックを一つ借りたので、それに揺られたけど、なかなか眠れなかった。

 それでもウトウトしていると、急に家が軋んで、私は目を覚ました。薄暗い室内で、老人はまだハンモックの上にいる。

 そっと床に降りて、玄関から外に出ると、勢いよく風が吹き込んで私の髪を乱した。

 強い風が吹き、まだ上りきっていない太陽の薄暗い光の中でも、大波が一面の海原をかき乱しているのが見えた。

 背後で音がして、例の四人組が二階から降りてくると、私の肩越しに海を見て、何か言い合ってからまた賭け事を始めた。

「お嬢ちゃん、飯の支度を頼むよ」

 ヒゲ面の言葉に、私はもう一度、海を見てから調理場に向かった。老人はまだ眠っている。

 その老人は昼過ぎに建物を出て、また小屋へ行っているようだった。私が必死に綺麗にして、風が落ち着いた昼前から干しておいた洗濯物を取り込んだ後、ちょうど老人が戻ってきた。広間に入り、「明後日は良かろう」と四人組に言っているのが聞こえた。

 私が広間に行くと、老人はもうハンモックの上で休んでいる。

「あの人には海のことがわかるのですか?」

 二階へ引き上げようとするヒゲ面に訊ねると、彼はニコニコと笑っている。

「あれがあの人の得意技でね。間違いないよ」

 翌日の朝も、やっぱり風が強く、海は荒れていた。

 これで明日、状況が良くなるのだろうか。疑問だったが、老人の様子には確信がうかがえる。

 その日の夕方、小屋から帰ってきた老人が言った。

「明日だ。支度しておけ」

 四人組が返事をして、その日は早めに二階へ消えていった。

 老人だけはいつも通りに、ハンモックの上ですうすうと呼吸をしている。




(続く)

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