妖刀・白鷺一翔(ハクロイッショウ)
◇◇◇◇◇◇◇
三日間も寝込んでしまった。
こちらの世界にすっ飛ばされて気が張っていたためか、体の具合が悪い事になど全く気付いていなかった。
挙げ句に昨日は目まぐるしく働いた後に一時間弱歩き、その上白鷺と喧嘩して、血圧も急上昇したに違いない。
「何か食べるか?」
「ありがとう。でも、要らない……」
このままじゃダメだ。何か手を考えないと二十一世紀に帰れない。
私はこちらを心配そうに窺う白鷺から眼をそらした。
白鷺はだめだ。きっとこの先も私に剣を作ってはくれないだろう。なら、宗太郎は?彼も刀工だと言ってたし。白鷺の話だと、宗太郎はあと六日は帰ってこない。
どうしよう。居酒屋『玉椿』に戻ってみようか。あそこなら、色んな客が来るし、腕のいい刀工を紹介してもらえるかも知れない。
……夜になったら抜け出そう。
白鷺は夜に鋼を叩く。白鷺にとっては明るい昼間より夜の方が、温度の見極めや叩き出して不純物を飛ばす微妙な加減がしやすいらしい。
ただ、この世界の夜は暗い。ああ、月が出ますように!
その時、
「店に戻ろうとしてもムダだ。店の奴らが怖がるからやめておけ」
射抜くように白鷺が私を見ていた。
……なんで怖がるの?意味が分からない。と思ったのは多分三秒ぐらいで、
「柚菜は川に落ちて死んだと伝えた」
そう言った途端、白鷺は急にそっぽを向いた。
……さっきはこちらを見据えていたくせに、なんだその白々しい眼のそらし方は。川に落ちてって……やだよ、そんな死に方。
私は両目を閉じて天井を仰いだ。悪党としか言いようがない。
「……あっそ」
もう、怒る気力も起きない。私は再び横になると丸くなって布団をかぶった。途端にひとつの疑問がムクムクと沸き上がる。白鷺は……私が嫌いなんだろうか。だから剣も作ってくれないし、働かせてもくれないのか。
聞くだけ野暮だ。嫌いに決まってる!わたしも白鷺なんか嫌いだし。
その時である。急に白鷺が立ち上がり、入り口を見つめた。
昼間は開けっぱなしの戸を注意深い眼差しで凝視している。
「どなたですか」
白鷺のその声で初めて人が来た事に気付き、私は身を起こした。
……誰?
戸口にスラリとした男性が立っていた。
黒っぽい地味な袴姿で、腰には長い刀を一刀差していて、ここからはよく分からないけど小太刀か脇差も帯刀していた。
顔は俯いていてよく分からない。
よく分からないけど……頭が小さくてスタイルもよくて……なんか素敵。これで顔が良けりゃ言うことないわ。
私は頭をもたげたミーハー根性を押し殺せずに戸口の男性を見つめた。
そんな私の期待通りに、男性がゆっくりと顔をあげた。
……なかなかの男前で、ちょっとびっくり。通った鼻筋と涼しげな眼が印象的な、例えて言うなら月のような男性だった。
「西山白鷺か?」
男性は白鷺を真っ直ぐに見つめると、静かな澄んだ声で問いかけた。
白鷺は一歩前に出ると、
「いかにも」
短く答えて相変わらず戸口の男性を注意深く見据える。
「単刀直入に言うが」
その声に被せるように白鷺が口を開いた。
「その前に名を伺いたい」
月のような男性が僅かに両目を細めた。
若干イラついたような彼の表情に、私は何だか心配になって白鷺を見上げた。白鷺がチラリと私を見る。まるで心配しなくても良いといったように。
「……岡田」
「岡田殿」
「白鷺一翔を譲り受けたい」
「断る」
ハクロイッショウ?
……それが、白鷺流の刀に付けられた名前だというのは分かる。
岡田と名乗った涼やかな男性が、戸口に預けていた身体をおこした。
「白鷺一翔は売り物じゃない」
「呪われし妖刀だからか?なら」
月のような男性……岡田さんは、一旦言葉を切るとニヤリと不敵な笑みを浮かべた。それからゆっくりとこちらに歩を進める。
白鷺がかばうように私の前に立った。
フッと笑いを洩らして岡田さんは続けた。
「白鷺一翔が本当に妖刀ならば……俺にこそ相応しい刀だ」
ドキッと私の鼓動が跳ねた。この人、もしかして……いや、違うかもしれない。でも、もしかしたら。
私は白鷺の脇から岡田さんを見つめた。この、冷えきった鉄のような冷たい雰囲気。何かに心を囚われ、頑ななまでに己の信じた道をひた走るような目付き。
彼の眼の奥に、自分の信じる道を貫くためならどんな犠牲も犠牲と思わぬ精神があるように思えて、私は寒気がした。早鐘のように響き渡る胸の音が煩い。
岡田さんが笑みを消して腰の刀を抜いた。
スラリと抜いたその刀は、そう明るくない室内でありながらキラリと光り、私は思わず息を飲んだ。
その光を見た途端、白鷺が身を翻して神棚に走り寄ると、そこに置いてあった刀を手に取り、切っ先を岡田さんに向けた。
「……っ!」
「きゃあっ!」
白鷺の構えた刀が、一瞬だけ青白く光って見えたのだ。
なに、今の光……!それが見えたのはどうやら私だけではなかったようで、岡田さんも眼を見開いて白鷺の刀を凝視した。誰もが動かないまま十数秒が過ぎ、やがて岡田さんが刀を鞘に納めた。
「俺の刀が怯えた。さすがは妖刀、白鷺一翔。今日は帰るが……また来る」
岡田さんはそう言うと、何故か私をじっと見た後踵を返した。
彼が戸口から消えてしばらくの間、白鷺は刀を構えたままだったが、やがて息を吐き出すとそれを神棚へと戻した。
やっぱり、そうだ。あの殺気。多分間違いない。
きっと彼は幕末の四大人斬りと恐れられたうちの一人……岡田以蔵だ。
全身から汗が吹き出す感覚がして、私は自分を抱き締めた。それから白鷺を見上げる。
白鷺は知っているのだろうか。彼が幕末の人斬りだということを。
「大丈夫か?」
白鷺が膝をついて私の顔を覗き込んだ。
「……うん」
何でもないと言ったように頷いたけど、私の額から汗が流れた。それを見た白鷺が、指で私の顔を拭う。
「知り合いなのか?」
……云わないほうがいいよね。未来を話すのはきっとよくない。
「刀を見てびっくりしただけ。私の暮らしていた世界は刀を持ち歩かないから」
◆◆◆◆◆◆
二日後。
「白鷺っ、見て見てっ!」
「…………」
白鷺の家から上手にしばらく進むと、谷にぶつかる。
「ねえ、これなんて魚?」
「……アマゴ」
白鷺は何だか不機嫌だ。まあね、私といる大半が不機嫌なんだけれども。
「なんで怒ってんの?……嫌なら付いてこなきゃよかったじゃん」
私はスウェットの裾を太股までまくり上げて落ちてこないように折り込むと、白鷺に借りた深いザルにアマゴを入れながら呟くように言った。
「宗太郎が帰ってくるのに、何にもなかったら可哀想じゃん」
私がそう続けると、白鷺がフンと鼻を鳴らした。
水際ギリギリに立って腕を組んでいる白鷺は、私を見つめたまま唇を引き結んでいる。
私は大きくため息をつくと小さな波を起こしながら水の中を歩き、白鷺の前まで行くと彼を見上げた。
「ねえ、白鷺。なんで機嫌悪いの?」
白鷺は更にムッとして私を見つめる。
「そんな顔してたらモテないよ?女の子に嫌われるよ?」
私がそう言うと、白鷺は皮肉げな顔でニヤッと笑った。
「…俺は誰かと違って見下り半を突きつけられた経験はない」
「なんですって?!」
私達はたちまちのうちにバリバリと睨み合ったが、
「あーっ!!!」
私が空を指して叫ぶと、白鷺は驚いて私の指差した方向を見上げた。
フッ、馬鹿め、かかったな!今だ。
油断した白鷺の腕を素早く掴むと、私は彼を一気に川へと引きずり入れて、足を払った。
「なっ、うわっ!」
見ものだった。
白鷺の焦った顔と、浅い川に仰向けに倒れた彼の身体。
それと同時に、飛び散った水の雫が太陽の光をキラキラと反射して白鷺の身体を包んだ。
「あっははははは!ざま-見ろ!」
浅い清流に仰向けに倒れ、水浸しなった白鷺にアッカンベーとやると、彼は眼を真ん丸にした後、素早く身を起こした。
「へっ!?きゃあああっ!!」
白鷺が私の両足に腕を絡めたせいで、身体がグラリと揺れた。衝撃が怖くて反射的にギュッと眼を閉じる。
……あれ?!
ゆっくりと身体が倒れていく感覚。
「きゃあっ!!冷たっ!!」
痛くはなかったけどジワリと服が水を含んで、私は思わず眼を開けた。
途端に、至近距離から私を見つめる白鷺と眼が合う。初夏と言えども、山間の清流は冷たい。
「参ったか」
白鷺は私が頭を打たないように、手を後頭部に回して守ってくれていた。
浅い川の中で抱き合う私と白鷺は全身ずぶ濡れで、私は思わず白鷺の胸に手のひらを押し付けて距離を取った。
綺麗な顔だな、白鷺は。男らしくて、凛々しい。
白鷺の短髪からは雫が滴り、それが私の唇へと落ちた。
「柚菜」
艶やかな声で、白鷺が私を呼んだ。
なんだか、めちゃくちゃドキドキするんだけど。
「……なに?」
せせらぎの音が急に遠くに聞こえる。返事をしたのに白鷺は私を見つめるだけで、何も言わなかった。
その時、
「……っ」
唇に柔らかい感覚が広がり、私は思わず眼を見開いた。
そう強引でもなく、白鷺の舌が私の唇の水滴を優しく奪い、その後は滑り込むように口内に入る。
白鷺のキスがまるで自然で、私はすぐに眼を閉じた。
彼の胸を押していた手の力が抜けて、水の中にパシャンと落ちる。
なんで?白鷺はどうして私にキスするんだろう。そして、私は?どうして拒まなかったの?私の前途を阻む、冷たいはずのこの男と、どうして?
キスに酔った事なんてなかった。このキスに出逢うまでは。
ずっと白鷺とキスしていたい。
この腕を、水に落ちたこの腕を彼の身体に回したら、私はどんどん深みにはまるだろう。
白鷺のキスに答えるように口を開けると、彼が少しだけ唇を離した。フッと眼を開けると視線が絡む。それから白鷺の唇を見つめると、もうダメだった。
何かを見極めようとするかのような彼の瞳にも耐えられなかった。
「白鷺、もっとして」
「柚菜」
もうなにも考えられなくなって、私は白鷺の首に両腕を絡めた。
白鷺の心は分からないけど、少なくとも私は夢中だった。そう、白鷺のキスに。
◆◆◆◆◆
その夜。
「……酒は?」
「あ、うん」
やけに白鷺を意識してしまって、私は彼の飲んでいたお酒をもらった。飲んだらリラックス出来るかなと思って。
お猪口のお酒をぐっと飲み干した私を白鷺は静かに見ていたけど、
「柚菜、歳は?」
「……二十三歳。白鷺は?」
「昨日二十五になった」
「えっマジで?!おめでとう!……なんで言わなかったの?!言ってくれたらお祝いしたのに」
白鷺はフウッと笑った後、真顔で私に訊ねた。
「拓也をまだ好きなのか?」
私はギクリとたじろいだ。
「……どうして、彼の名前を……」
白鷺は酒を注ぎながら続けた。
「倒れていた日にうなされていて、しきりと拓也と呼んでいたから」
私はホッと息をついてから、視線を床に落とした。
「……拓也を……好きだったよ、ずっと。先に心変わりしたのは拓也。仕事先で好きな人が出来たんだって」
あんなに離婚の事に敏感になってたのに、何故か今の私はまるで他人事のように思えた。
「で、離縁を?」
私は白鷺を見ずに頷いた。
「……うん。だって愛してくれてない人と一緒にいても仕方ないでしょ?別れるしかない。もう一度振り向かせたいとか、そこまで思わなかったし」
「……では、坂本龍馬は?何故か坂本龍馬の話をしている柚菜は嬉しげな顔をしていたから」
「私の時代では、幕末の英雄なの、龍馬は」
「幕末?」
私はギクリとして白鷺を見た。
「……いや、その……ごめん、」
白鷺が首を振った。
「……この間の、岡田とかいう浪人は?」
「彼は……知らない」
あながち、嘘じゃない。だって、彼が本当に岡田以蔵とは限らないし。
白鷺は私を真っ直ぐ見つめている。
「えらく見惚れていたようだが」
……鋭いわね。
「凄く顔が私の好みで……痛っ!」
言い終えない内に白鷺は私の髪をひと房掴むとグイッと引っ張ってから、両目を細めて軽蔑したように私を見た。
「では……宗太郎は?」
「はあ?!」
気が抜けてしまって、私は間抜けな声をあげた。
「まあ、宗太郎も男らしい顔つきだし格好いいし、性格も明るくて優しいし、いい感じだと思うけど」
私が言い終えて白鷺を見つめると、白鷺がため息をついた。
「そんなこと、誰も聞いてない。……明日、宗太郎が帰るとお前はここを出て、アイツの家へ行くのかと聞いてるんだ」
そ、れは……。
私は昼間の、白鷺とのキスを思い出した。
『白鷺、もっとして』
男にあんなことを言ったのは初めてだ。白鷺はどう思っただろう。
キスしたからって愛されてるなんて思っちゃう程幼くないつもりだ。
キスなんてその場の盛り上がりとか、雰囲気にほだされてしちゃう場合もあるだろうし、なんと言うか、その……。
言い訳がましい胸の内はきっと、キスしただけでまとわりつく面倒な女だとか思われたくないから。
私はぎこちなく言葉を返した。
「宗太郎さえ……よければ」
ポツンと呟くように私がそう言うと、
「そうか」
白鷺の顔からはなんの気持ちも読み取れなかったから、私は自分の返事が正しいものだったと理解した。
なのに何だか胸が重くて凄く変な気分だったから、私は彼を見ることが出来なかった。
◆◆◆◆◆◆
翌日宍粟から帰ってきた宗太郎は、日本刀の材料となる千種鋼の話や、あちらの職人なんかの話を白鷺と話し合った後、私の傍まで歩いてくると太陽のような笑顔で私を見た。
「柚菜、俺がいなくて寂しかったか?!」
「寂しかったよ」
私が笑顔でそう言うと、
「荷物下ろしたら、酒だ。一緒に飲もうぜ」
「うん。お風呂は?」
「街で入ったきた」
「昨日ね、白鷺と山間の綺麗な川に行って魚を獲ったの。今から焼く準備するね」
「ああ。俺は作業場に材料を下ろしてくる」
宗太郎に頷いてから家の前に流れている小川に向かおうとすると、ふと白鷺と眼が合う。ギクリとするほど冷たい眼差しだ。
「……白鷺、火をおこすの手伝って」
「やけに嬉しそうだな、宗太郎が帰って」
「そりゃ嬉しいよ」
「男らしい顔つきだし格好いいし、性格も明るくて優しいし、いい感じだからか」
「へ?」
氷のような眼差しを向けたまま、白鷺は続けた。
「だからわざわざ、宗太郎の為に魚を獲りたいなどと言い出したのか」
……なんなんだ、白鷺に一体なんのスイッチが入ったんだ。
「そんなのどーでもいーから、手伝ってよ」
「俺は仕事がある」
言うなり私の脇を通り、白鷺は宗太郎の後を追って行ってしまった。
なに、今の。白鷺の不機嫌な顔が、何だか私のせいみたい。
「大体、白鷺は私が嫌いなんだよね、すぐに怒るし」
私は独りなのを幸いと、ブツブツ文句を言いながらアマゴのカゴを川から引き上げた。それからクルリと川に背を向けて玄関先に置いてある七厘を取りに行こうとした時、真後ろにいた誰かにぶつかりそうになり、慌てて顔をあげた。
「あっ!」
手に持っていたカゴを払われ、私はその人物に喉を掴まれた。
……岡田……さん!
鋭く光る瞳に射すくめられて、サアッと血の気が引く。
「騒ぐと握り潰すぞ」
グッと力を込められて、息が出来ない。
「歩け」
太股に、岡田さんの刀の鞘がカツンと当たる。
「西山白鷺は?」
どうしよう、どうしよう!
彼は再び、白鷺の刀……白鷺一翔を求めてやって来たのだ。
あの青い光を放った、白鷺の刀を。
私は岡田さんを見ながら頭を左右に振った。
「岡田…以蔵さん」
瞬間、彼は眼を見開き、私を白鷺の家の壁にガツンと押し付けた。
「俺の名をなぜ知ってる」
……やっぱり……!やはりこの人は、人斬り……人斬り以蔵だ。
「やめて……!」
「女、答えろっ!」
声を殺して小さく叫ぶと、岡田以蔵は胸元から懐刀を取りだし、私の首筋に当てた。
氷のように冷たいそれが肌に当たり、一気に鳥肌がたつ。
息のかかる距離でニヤッと口角をあげると、彼は私を見つめた。
「俺が女を殺さないと思うか?」
心臓が痛いくらい激しく脈打つ。
彼は人斬りだ。自分の信じた道のため、心酔した人の為なら誰だって斬る。キュッと身がよだつ感覚がした。僅かに皮膚が裂けた痛み。懐刀が私の喉元の皮膚を薄く開いたのだ。
岡田以蔵が顔を斜めにすると、眼を細めて私の首筋に唇を寄せた。柔らかな彼の舌が喉を伝う。
「あなただけじゃない!坂本龍馬だって、武市半平太だって知ってる!」
彼が私の顔を見つめた。
「あなたが武市さんに人斬りにされてることも」
その瞬間、バシッと平手で殴られて、私はギュッと眼を閉じた。
「武市さんを悪く言うな。殺すぞ」
「このままじゃ、あなたは捕られるわ!武市さんにだって裏切られる!」
ああ、また殴られる!私は先に眼を閉じて歯を食い縛った。その時、
「柚菜を離せ」
「きゃあっ!」
私の正面……岡田以蔵の背後から、白鷺一翔を構えた白鷺がその切っ先をこちらに向けて睨んでいた。
けれどそれは驚くほど一瞬で、眼にも留まらぬ速さで岡田以蔵が身を翻すと、腰の刀を抜刀して後ろ手に白鷺一翔を跳ね退けた。
直後に私の背中から腕を回して、鍔に近い部分の刃をピタリと私の喉に押し当てた。
「白鷺一翔を渡せ。さもなくばこの女を斬る」
「以蔵さん、やめて。白鷺一翔を奪わないで」
「白鷺一翔こそ、人斬りの俺に相応しい刀だ。これは……甘すぎる」
これとは多分、私の喉に押し当てているこの刀の事だ。
「以蔵さん、信じてもらえないのは分かってる。でも、もうすぐ江戸幕府は終わる。あなたはそれを見る前に殺されてしまうわ。お願いだから、自分を大切にして」
私がそこまで言ったとき、以蔵さんが私の耳に唇を寄せた。
その時僅かに彼の瞳が見えたけど、何かに怯えるように揺れていて、苦悩が広がる胸の内が垣間見えた。
「それでも俺は……進まなきゃならないんだ」
「ダメよ、人斬りなんてやめて。あなたに死んで欲しくない」
脳裏に、昔聞いた岡田以蔵の辞世の句が蘇った。
『君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後は澄み渡るべき』
あんな切なく悲しい句を詠んで死んで欲しくない。
「以蔵……」
「もう、遅い」
以蔵さんは短くそう言うと、刀に再び力を入れた。白鷺の後ろで宗太郎が身構える。
「早く白鷺一翔を渡せ。俺は融通が利かないんだ」
二度目の痛みが喉に走った時、白鷺が手にしていた刀をこちらに投げた。
カシャンと地を転がる音が耳に届く。
嘘……!
素早く以蔵さんがそれを拾い上げると、私の耳に唇を寄せて、
「悪かったな」
囁くように言った。
「待って、以蔵……」
それから私を思いきり白鷺に向かって突き飛ばすと、彼は走り去った。
「柚菜!」
白鷺に抱き止められ、宗太郎が駆け寄ってきて私の喉に眼をやり、家の中に手拭いを取りに走った。
「柚菜、大丈夫か?!」
白鷺が心配そうに私を見つめていて、私はいたたまれずに口を開いた。
「ごめんなさい、私のせいで刀がっ……!」
申し訳なくて、どうしていいか分からなくて、涙があふれ出た。
「白鷺、白鷺、ごめんなさい……」
「いいんだ。いいんだ、柚菜」
良いわけがない。
「良くない、良くないよっ!どうしよう、どうしよう、白鷺」
白鷺が私をきつく抱き締めた。
「お前が無事ならそれでいい」
私は白鷺の大切な刀が奪われたという事実に自分を責めずにはいられず、泣き続けた。
◆◆◆◆◆
「白鷺……どうするんだ?あれを世に出す訳にはいかないだろう」
ボソボソと話す宗太郎の声で、私は目が覚めた。どうやら布団の中のようだ。
あれから私は部屋に運ばれて、切られた喉を酒で拭かれ、白鷺の腕の中で眠ってしまったようだ。
目が覚めたけど、私が起きたと分かるときっとこの会話はここで終わる。私は眼を閉じたまま意識を集中させた。
「白鷺一翔は俺が生み出してしまった化け物だ。岡田があれを振るう度、人の血を吸って更に妖気が増すだろう」
「……まだ憑いてるのか、お前に」
宗太郎がそう言うと、白鷺は小さく息をついた。
「ああ……多分な」
「厄介だな」
「………腕のいい祓い屋はいねえのかよ」
白鷺の小さな声がした。
「住職によると人の念はそう簡単に祓えないらしい。念が強ければ強いほど尚更。その念に亡き者達の無念の思いが引き寄せられて邪悪すぎる悪念となるらしい。……多分俺は……己の作る刀で死ぬんだろうな」
「……やだ……!」
我慢出来なかった。勢いよく起き上がり、しゃくり上げる私を見て、二人が素早くアイコンタクトを取る。
「俺は、そろそろ帰るわ。何日も家を空けたからな。白鷺、柚菜を頼んだぜ」
宗太郎はそう言い残すと白い歯を見せ、私の頭をくしゃりと撫でた。
「大丈夫だよ、心配すんな。じゃあまた明日な」
宗太郎の後ろ姿が涙で滲んだ。
「柚菜」
「白鷺……」
白鷺は私に歩み寄るとゆっくりと座って、目の高さを合わせた。
「泣かなくていい」
白鷺は困ったように笑って、私の瞳を覗き込んだ。
刀工にとって刀は我が子同然だ。
そんな大切な白鷺一翔が、妖刀だと言うだけでも辛いはずなのに、奪われてしまったなんて。しかも幕末の人斬りに。
私がしつこく白鷺の傍にいたからこんなことになったような気がしてならなかった。
「白鷺。私のせいなのにこんなこと言ってもダメかも知れないけど……私、あなたの力になりたい」
私がそう言うと白鷺はこちらを見つめてから、私の後頭部に手を回した。
白鷺が私に近づいて、私も白鷺に近付きたくて、回された手の動きに任せ、額が彼の胸にトンと当たる。
無意識に両腕を白鷺の腰に回すと、白鷺がビクンとして身を離した。
僅かに空いた二人の間に新しい空気が入り込み、私はそれが嫌で凄く不安で、眉を寄せて白鷺を見上げた。
「白鷺、離れないで」
白鷺は驚いた顔で私を見ていた。
拒絶されるのが怖くて、私はしがみつくように白鷺の身体に頬を寄せてそのはだけた胸元にキスをした。
「柚菜……」
戸惑うような白鷺の声。
「白鷺が嫌ならもうしないから……今だけ許して」
私はそう言うと、もう一度白鷺の胸に唇を寄せた。