9.南へ一人旅
林の中。背を向けて立つヴォルケイノーに追いついたフルカルスは一呼吸置いてから口を開く。
「ヴォルケイノー様」
フルカルスがそう一言発した瞬間、彼の頬に一筋の線が走った。わずかの時間をあけてその線から深紅の鮮血が滴り始める。フルカルスの頬に引かれた線というのは鋭利な何かによって切られた傷だった。
「その名に敬称をつけるな」
冷ややかな口調で警告するヴォルケイノーの言葉によって己の失言を知り、また自身に起きた現象を把握したフルカルスの顔から急速に血の気が引く。
即座に謝罪したフルカルスを一瞥するような感じでヴォルケイノーは瞳だけをわずかに動かした。
静かにじんわりと。そんな風にヴォルケイノーの体から発される冷気はフルカルスに絡みつく。
「千丈の堤も蟻の一穴――この言葉はお前も知っているだろう。そうした小過によって大事に支障をきたすことになってはならない。今一度気を引き締めろ」
ヴォルケイノーの忠告を受けてフルカルスは反射的に「申し訳ありません」と頭を下げようとしたのだが、体に絡みついたままのヴォルケイノーの冷気によって言葉も動きも封じられてできなかった。
一瞬ののち。フルカルスはしまったというように片頬を引き攣らせながらたらりと冷や汗を流した。
フルカルスへと向き直ったヴォルケイノーは凄絶に邪悪な笑みを浮かべていた。
「ルカ……お前は色々抜けすぎているぞ。声が聞こえる範囲内には他のものの気配が無いとはいえ絶対に聞かれていないという保証はないし遠目でも頭を下げている様子くらいはわかるだろう。そんなわけでお前には気合を入れてやる」
そこで一旦言葉を途切らせたヴォルケイノーは底意地の悪さを露呈した。
「南をお前一人に任せることにした。一人なら周囲に気を使う必要はないし襤褸を出したところで南であれば影響も無かろう。存分に働いて来い」
「マジで!?」
わざとらしいほどのオーバーアクションで驚きを露わにしたフルカルスをヴォルケイノーは表面上はあっさり無視した。しかし内心では拘束を解いていたことを少々後悔しながらふとフルカルスの頬を見ればすでに傷も完治していた。
八つ当たり気味にもう一度同じ場所に傷をつける。そして。
「俺の言葉はいつでも本気だ。そのことを理解できてもできなくてもどちらでもかまわないからさっさと行け」
指先で回れ右の指示を与えたヴォルケイノーは、さらに追い討ちをかけるかのごとく猫でも追い払うような仕草でしっしっと手を振った。
がっくりと肩を落としたフルカルスはかろうじて了承の意を返すとおぼつかない足取りでその場を後にした。
その姿は見ようによっては遊びに誘った弟に素気無く断られて寂しげに退却している兄の図だった。
「そんなわけで、私だけ南へ行くことになりました」
フルカルスはミーティアに向かって別行動になった旨を伝えた。
「何をしに行くんですか?」
ミーティアの疑問はもっともだろう。
フルカルスは笑顔で答えた。
「ゴミ掃除です」
あまりにもはっきり宣言されたその一言。けれど言葉自体は決して難しいものではないのだがいっかな対象が不明すぎてわからない。
「ゴミって……」
そう言ったっきりしばらく絶句していたミーティアだったがふとあることに気がついた。
「そういえば南ってことはこの北界大陸の南にある新界大陸のことですか? 確か昔は南アメリカ大陸とかって呼ばれていたんですよね」
「そうそうその旧南アメリカ大陸のことだよ。とりあえずは、だけどね」
「え? それはどういう意味ですか?」
わずかに眉を寄せながらミーティアはどうにかフルカルスが言っている意味を汲み取ろうとしているのだが先ほどからわからないことばかりだ。
そんなミーティアの状況を把握している風な笑顔を浮かべていながらそれでもフルカルスは口調を変えなかった。
「どうやら新界大陸と南界大陸と南極大陸が合体寸前の距離まで近づいているらしくてね。繋がるのを待ってそれからは新しくできたニューゴンドワナ大陸を巡りながらゴミ掃除をすることになったんだよ」
またしてもフルカルスの口から出たゴミ掃除発言。ミーティアはこめかみに指を当てて唸った。
「どうやってゴミ掃除をするんですか?」
「ん? どうやってって、普通にこの黒檀の棒を柄の代わりにして、現地調達した道具を柄の先につけて……」
後はざっざっと掃いていくだけ。
そういって本人曰く掃く仕草をしているのだがどう見てもその動きはおかしい。
「ルカさん、その動きは掃いているというよりは刈っているようにしか見えないのですけど……」
そうだ。草刈りだ。大鎌で草を刈ればこんな感じになるのではないだろうかとミーティアは思った。
けれどフルカルスは不思議そうに首を傾げただけだった。
「そう? 久しぶりだから変な動きに見えてしまったのかもね」
それよりも。
「お土産は何がいい? あ、でも今度いつ会えるかわからないから鉱石とかが無難かな?」
それからしばらくの間どんな土産がいいのかを一人でしゃべっていたフルカルスの口を塞いだのはやはりヴォルケイノーだった。
腕を組み半眼でフルカルスを睨みつけ。そして一言。
「さっさと行け!」
フルカルスは即座に青白い馬のペイルに跨りカラスのシェオルルを従えて走り去っていった。
「一人で大丈夫かしら?」
ミーティアとてしばらく一人で旅をしていたのだから本来なら男性であるフルカルスを心配する要素はどこにもないはずなのだが、どうにもフルカルスのおしゃべり具合を見ていると話し相手のいない一人旅に果たして耐えられるのだろうかという変な心配をしてしまったのだ。
そんなミーティアの小さな呟きにヴォルケイノーがあきれたように答えた。
「ペイルもシェオルルもいるしあいつは一人にしたほうがよく働く。あいつにとって一人旅はいつものことだし気遣う必要など欠片もないぞ」
ミーティアは一人と一頭と一羽の姿を思い出してそうかもしれないとうなずいた。