55.これから
涼やかな音色が響いて金冠が両断される。王冠を思い起こさせるほどの豪華な金の輪はヴォルケイノーの体の中に戻っていくかのように静かに溶け消えていく。
そんな中、ミーティアの体は勢いを殺しきれずにヴォルケイノーもろとも落馬した。
慌てて上体を反らしたミーティアは下敷きにしてしまったヴォルケイノーの顔を覗き込んだ。
「ヴォル! ごめんっ、大丈夫?」
すでに金の輪はあとかたもなく消え去っている。
落ちた際に頭をぶつけてやしないかと確認するために腕を伸ばすと左腕にかろうじて引っかかっていたフィタが滑り落ちた。名前を叫ぶと同時に引きちぎっていたのだ。
「あ」
フィタが落ちた先はヴォルケイノーの顔の横。
かすかに睫毛が揺れてのちゆっくりと開かれていった瞼の先、淡青色の瞳がそれを追うように流れた。
拾って目の前にかざして盛大なため息をこぼすヴォルケイノー。
「おまえはまったく……」
あきれたような言葉と共にミーティアに向けられた淡青色の瞳はミーティアが見慣れたものに戻っていた。
どこからか口笛を吹く音が聞こえた。
追いついてきたキマリスだ。
「あの方の術を力技で破るとはさすがは女神」
「え?」
なんのことかとキマリスを見上げたミーティアだったが、キマリスの視線はヴォルケイノーのほうに向けられているようだった。
ミーティアはキマリスとヴォルケイノーを交互に見やっていたが、自分がいまだにヴォルケイノーの上に乗っかっている状態だということを思い出して慌てて横に逃げて座り込んだ。
その様子をキマリスだけでなくベリトもフルカスも楽しそうに笑いながら見ていた。
首をかしげて彼らをあらためて見返したミーティアは、全員の頭からあの金の輪が消えていることに気づいた。
ミーティアの視線でわかったのだろう。キマリスがああといって頭に手をやった。
「俺たちのもヴォルと同じように消えちまった」
それはひとまずよかったというべきだろうか。素直に喜んでいいのかどうかわからない。ミーティアはただ彼らにそんなことをしてほしくなかっただけで他の事情など考えていなかったのは事実だ。
どういえばいいのかとミーティアが内心あたふたしていると、ようやくヴォルケイノーが上体を起こした。
「ひとまず小屋に戻ろう」
ミーティアを馬に乗せたヴォルケイノーは、自身もその後ろに騎乗すると愛馬ホワイトを促して小屋へと戻っていった。
小屋の食堂に集まった一行はフルカスが用意したお茶を飲む。相変わらずキマリスだけがウオッカだったのには笑えた。
鍛冶屋で過ごした日々を思い出してミーティアは微笑んだ。
ここの雰囲気が好きだった。今はただそれだけで片づけられる状況ではないのだがそれでも落ち着くことは事実だった。
「さて」
そう切り出したのはキマリスだった。相変わらずの役割だ。
「とりあえずひととおり説明しよう。構わないだろう?」
最後の一言はヴォルケイノーに向けられていた。
「今更だからな」
苦笑しながら答えるヴォルケイノー。言った言葉に反して表情はそれほど深刻な様子は感じられなかった。
キマリスの話はこうだった。
『あの方』と呼んでいるのは『最高神』のことだった。
名のある神は至高の神ではない。なぜなら至高の神には名はないからだ。最上位であるがゆえにその名を口にすることのできる者は存在しない。だから必要がなかった。
だが存在を指し示すための呼び名となりうるものが必要なこともあるため『最高神』もしくは『至高神』、さらには『あの方』といったあざなが生まれた。
『唯一神』と呼ぶ者もいるが、それでは名のある神は神ではないということになってしまう。
最高神より下位に座しているとはいえ、神は神だ。敬いを忘れればもちろん天罰は下る。いつどのような形でかはまさに神のみぞ知る。
本来神という存在は善と悪、光と闇を等しく抱えている。完全に同量なのが最高神だ。最高神の片腕となる天神と魔神はわずかにそれぞれの領域に傾いている。天神であれば善もしくは光の量がほんのわずかに多く、魔神であれば悪もしくは闇の量がほんのわずかに多い。
天使とは善の量が多いもの。悪魔とは悪の量が多いもの。この差は下位にいくほど顕著である。もちろん上位のものでも差が激しいものはいる。ここにいるキマリスたちがそうだ。
たとえばコローメンスコエにあるロシア正教会の門番を務めていた男は天使である。それゆえ法を守ることに一途すぎて融通が利かない。善悪の量はそんな風に個性となって表れた。
始まりは最高神の戯れだった。
霊に肉の体を与えたらどのように変化するのか。
箱庭を作って体を与える。
けれど箱庭の中で繰り返された争いに最高神は失望した。
失望しつつもどこかで望みを棄てきれていない様子を見て、天神と魔神が手を加えた。
天神が方舟でもってやり直しの機会を与え、魔神が最初の勇者として封印を施した。
けれど封印はとかれた。
「最初の勇者が魔神……?」
最初の勇者とはヴォルケイノーのことだったはず。では彼は魔神なのだろうか。
ミーティアの問いに答えたのは意外にもヴォルケイノー自身だった。
「今の俺の名前はヴォルケイノー・ベルゼビュート。今は役目のためにこうして肉の体を得ているが、本性は魔神バアル・ゼブル。女神アスタルトの夫だ」
それで、とキマリスがヴォルケイノーのあとを継ぐ。
「ミーティアちゃんの本性がその女神アスタルトってわけ」
ミーティアとヴォルケイノーが嵌めている指輪を指差して、
「その指輪は本物とそっくりに作られている。本物は人には扱えないものだから地上にある材料を使って作り直すっていう方法しかなかったってわけ」
バアル・ゼブルとアスタルトは永遠の夫婦として知られている。そこからこの指輪の意味が『永遠に別れのこない夫婦』から『永遠に別れられない夫婦』へと変化していった。
「私とヴォルが本当の夫婦?」
ぽつりとつぶやいたミーティアにヴォルケイノーたちの視線が集まる。
じっと見つめられているのは居心地が悪い。
「な、なによ」
ついわけもなくそんな可愛げのない言葉が口を吐く。
そんなミーティアを見ていたキマリスが天井を仰ぐようにしてため息を吐いた。
「さすがはあの方がかけた術。ここまで言っても解ける気配なしだ」
お手上げとばかりに肩をすくめて苦笑した。
ベリトとフルカスも同様だ。
ヴォルケイノーだけは腕を組んで椅子の背もたれに体を預けるようにしながら息を吐きだした。
「たかだか二十年程度のことだからおとなしく待っているように言ったはずなんだがな……」
ミーティアは決まりが悪い思いをしながらそっとつぶやいた。
「まったく身に覚えがないんだけど……」
「どうやら俺のあとを追って転生する際にあの方が介入して記憶を封じたみたいだからな。わからなくとも無理はない」
ヴォルケイノーたちが言う『あの方』が誰をさすのかミーティアはもうわかっている。最高神だ。
「まあいい。そのことについては記憶が戻ってからだ」
今のミーティアに言ったところでどうしようもない。そういってヴォルケイノーはこれからのことに話題を転換した。
「それでミアはこれからどうしたい」
「どうって……?」
どうもこうも『復元された予言書』とやらに書かれているのではないのだろうか。
そう言えば全員が首を横に振った。
「あれはもうない」
『復元された予言書』とは最高神がたわむれにしたためたものだという。
周りのものがそのとおりになるように奮闘して『一度も外れたことがない』状態を保持してきた。しかしミーティアの乱入によってそれも叶わぬこととなってしまった。予言書に沿わない出来事が発生した時点で予言書は意味をなくしてこの世から消えてしまったのだ。
あとに残るのは黙示録のみ。改変された黙示録は論外だが、原本は意外とシンプルな内容のため外れることはない。世界が終末に向かっているのはもう誰にも止められない。浄化に入らねばならないところにきているのだ。そして箱庭の世界をそこまで追い込んだのは人間だった。
霊に肉の体を与えてはならない。これはすべての世界が出した答えだ。だからこそ人間から肉の体を取り上げて元の状態に戻すこととなったのだ。
ミーティアはそう聞かされた。そのうえでどうしたいのかとヴォルケイノーが問うているわけだが、これにミーティアが答えていいのだろうか。最高神の――世界の考えに沿っているとは思えないのに。
「構わん。そもそもあの方がミアの――アスタルトの記憶を封じたのだ。こうなることもわかっておられたのかもしれない。だからおまえが決めろ」
ミーティアは息を吸い込んで背筋を伸ばした。視線はまっすぐにヴォルケイノーの瞳を見据える。
「どんな理由があれ、創造神として自らが生み出しておきながら都合が悪くなったからといって人として生まれてきたものの命を途中で奪わないでほしい。神様からしてみれば単純に肉体を奪って元に戻すだけかもしれないけれど、私たちにしてみれば殺されるのは怖くて恐ろしい。残り数十年。肉体が自然に死を迎えるまで……そのくらいなら待つことができるでしょ?」
「わかった」
ヴォルケイノーははっきりと了解を示した。
「キマリス。おまえたちは先に戻ってあの方へこのことを伝えてくれ」
「ヴォルはやっぱ残るのか?」
「そうなるだろう」
ヴォルケイノーが流した視線の先にいるのはミーティア。キマリスは納得したといって数度うなずいた。
「どういうことよ」
「おまえも残るのだろう?」
ミーティアは言われて初めて今の自分も肉の体を与えられている人間の一人なのだと気づいた。
「残ってもいいの?」
「殺されるのは怖くて恐ろしいと言ったのはおまえだ。たかが数十年程度最後の人間として過ごすのも悪くはない」
悪くはない。そう言うということは。
「ヴォルも残るの?」
「ミア一人で残りたいのか?」
ミーティアは目一杯首を横に振った。
「一緒がいい……」
ヴォルケイノーは淡く笑った。
キマリスがふむと言いながら腕を組む。
「だったら俺も残るとしよう。ミーティアちゃんと一緒にいると楽しそうだからな」
伝言はほかの者に任せようとしたキマリスだったが、それならば私たちも残りますとベリトとフルカスも言い出した。
ヴォルケイノーはため息を吐く。
「おまえたちいいかげんにしろ」
「そうは言うが、こんなことは最後の機会だしな」
笑顔でのたまうキマリスに便乗する形でフルカスもうなずいた。
「そうそう。伝言なんかしなくてもあの方はすでにご存じだと思うけど、一応シェオルを飛ばすからそれでいいことにしようよ」
あきらめたように息を吐き出したヴォルケイノーは好きにしろと言った。
歓声が小屋の中に広がる。
それから数十年後。
天の花畑に二柱の神が降り立つ。
黄水晶またはシトリンと呼ばれる宝石のような金色というよりはレモンのような淡黄色という表現のほうが似合う色の髪と瞳を持つ女神と、天青石またはセレスタイトと呼ばれる宝石のように晴れた空の色のようなまた澄んだ水の色のようなそんな淡青色の瞳に銀髪の魔神。
女神アスタルトと魔神バアル・ゼブル。
「数十年も経てばさすがに懐かしいと思えるな」
アスタルトが膝をついて花に手を伸ばす。
その横にバアル・ゼブルも腰をおろした。立てた片膝を使って頬杖をついてアスタルトを見つめる。
ついと手を伸ばしてアスタルトの淡黄色の髪を一房指で引き寄せて口づけた。
「バアルはこの髪が好きだね」
アスタルトがあきれたようにいう。
「我がミーティアだった時もそうだった」
アスタルトの外見はミーティアが二十二歳くらいの頃と酷似している。もっとも神は肉の体ではないため人としての見かけの年齢はあてはまらないが。
口元で軽く笑むバアル・ゼブル。そのさまは二十三歳頃のヴォルケイノーと同じだ。
ふとアスタルトが声をあげて笑い出した。
「どうした、アナト?」
「いや、すまぬ。バアルが魔王と呼ばれるたびに嫌悪を示していたことを思い出してね」
「それは言うな。今のおまえならその理由もわかるだろう」
「そうだね。魔神でありながら格下の魔王扱いされればプライドの高いバアルには応えただろうが、それにしても……」
そのさまがあまりにも子供じみていて、ミーティアとしての記憶もあわせもちながら本性の女神に戻ったアスタルトにしてみれば笑わずにはおれなかった。
「笑っていられるのも今の内だぞ」
バアル・ゼブルがにやりと笑う。
「どういうことだ?」
「俺ははっきりと伝えたはずだ。『すべてが終わったらたっぷりお仕置きをしてやるから覚えていろよ』とな」
「ああ、あの時のことか」
いっかな応えた様子もなくアスタルトが笑う。
そしてバアル・ゼブルが差しだした手をためらいもなく受け取った。
「いい度胸だ」
「バアルの妻だからな」
緩やかに両者の面を飾るのは極上の笑み。
「たしかに俺に恐れも媚もせずにそばにいることができるのは世界中でアナトただ一人だな」
細められた瞳に互いをとらえ、やがて吐息も混ざりあう。
風が踊り、水が跳ねる。花々は美しく咲き誇り、二柱の神の帰還を歓迎した。




