54.金の王冠
魔王の退治が遅れたために起こった弊害。それは。
「人の苦しみが伸びたことだな」
「苦しみが?」
それはまさか。
「苦しみというのは試練のことだって聞いたわ」
では安寧とは。
先ほど聞きそびれた答えをもう一度求める。今度は得られた。ただし望まぬ形で。
「安寧とは肉体の死だ」
ミーティアは口元を押さえてもれそうになる嗚咽を呑み込んだ。数度深呼吸をして揺らぐ心を押さえ込む。
「魔王アバドンの命が鍵?」
「ああ」
キマリスが辛抱強くミーティアの問いにつきあって相槌を打ってくれる。
「勇者が魔王を倒すことで鍵が外れる?」
「ああ」
「鍵が外れると黙示録の四騎士が解放される?」
「ああ」
「四騎士が解放されたら……人に……死の安寧がもたらされる?」
「ああそうだ」
だったら。
「終焉を迎える時に生き延びているはずの十四万四千人には安寧は得られない?」
「いや。やつらはすべてヴォルと同じように人の肉を持つ天使と悪魔だ。すべての役目を終えれば自然に肉体を離れてそれぞれの持ち場へ帰ることになっている」
ミーティアは目を瞠った。
(彼らが天使と悪魔?)
ムスティスラフ。クレメンティーナ。アキーム。アンナ。アリーナ。イグナート。イーゴリ。その他大勢のお世話になった人々。彼らがすべて天使と悪魔なのか。
「もっとも、その時が来るまではほとんどの者はただの人としての記憶しかないけどな」
それを聞いて少しは安心した。少なくともあの人たちから受けた優しさがうわべだけのものではないとそう思い込むことができるから。
ミーティアは息を吐き出して足元を見つめた。
死が人にとっての安寧。果たしてそうなのだろうか。
これまでの年月を思い返してみる。
村にいたころや旅のあいだは十分な食事を得られなくて空腹を覚える日が多かった。
勇者だと言われて村を追いだされ、魔王のもとに向かわなくてはならなかった恐怖。
何度も命を狙われて死と向き合わされもした。
死にたくないと――――心からそう思った。
俯いたままのミーティアを置いて、ヴォルケイノーが愛馬のホワイトに乗る。
「そろそろ行くぞ」
そうしてキマリスたちを促した。彼らもそれぞれの愛馬の鐙に足をかけた。
「シェオル」
フルカスがカラスのシェオルを呼ぶ。シェオルはフルカスが持っている黒檀のような細い木の棒の先に止まるとその身を漆黒の大鎌へと姿を変えた。
白い髪、白い肌、蒼い瞳、漆黒の大鎌。
「死神……」
フルカスはミーティアのつぶやきを耳にして振り返るとにやりと嗤った。そこにはあの人懐っこい笑顔はなかった。
「待って……」
ミーティアは彼らを呼びとめようとする。
「ヴォル……。ねえ待って……」
しかしヴォルケイノーはミーティアに一瞥をくれることすらなかった。
キマリスが困ったように笑う。キマリスだけは以前とほとんど変わりなかった。
「ミーティアちゃん、今のあいつは……、今の俺たちにはなにを訴えても無駄だよ」
「なぜ?」
キマリスは頭に嵌っている細いリングを指差した。額飾りのようにも王冠のようにも見える金の輪。
「これは俺たちの良心だ。こうやってそれぞれの心から良心を封じることによってスムーズに役目を務められるようにしているんだ」
ヴォルケイノーのものは王冠と思えるほどに太く大きい。それは本来であれば彼が良識のある存在であることを示していた。
「キマリスさんは細いですね」
「あはは。俺はもとから悪魔らしい悪魔だからな。あいつとは違う。だいたいヴォルのことをあいつと堂々と呼べるのも俺くらいだろうな」
豪快に笑ったキマリスはやがてミーティアに憐れむような眼差しを向けた。
「ミーティアちゃんの役目は終わった。あとは最後の時が来るまでゆっくりしていればいい」
最後の時。それはいつなのか。それに。
「私のことは放っておいていいの?」
ミーティアも人間だ。死の安寧とやらを与えなくてもいいのだろうか。
「あとから迎えに来るさ。今は役目を終えたばかりだからな。あの小屋に食料やらなんやらすべてそろっているからゆっくり過ごしていてくれ」
「どうしても今じゃなきゃダメなの? 苦しくても死にたくないと思っている人はたくさんいるはずなのに?」
「まああの方のお決めになられたことだからな。あきらめろ。箱庭の時は終わったんだ」
キマリスはただ従っているだけだという。逆らえないかたに。
ミーティアはヴォルケイノーへと向き直った。
「ねえヴォル。やめて」
振り向かないならとミーティアは走ってヴォルケイノーの前に回って行く手を塞いだ。
「どけ」
ようやく淡青色の瞳がミーティアに向けられた。
「ヴォル、お願い、こんなことはやめて」
「キマリスに聞いただろう。俺になにを言ったところで無駄だ」
退かないならそのまま馬の下敷きにするだけだというヴォルケイノー。実際にゆっくりと愛馬ホワイトを歩かせ始めた。ミーティアに向けて。
じりじりと後退りながらミーティアはヴォルケイノーを見つめた。
金の王冠を被ったヴォルケイノーはまさに王のようだった。ピンと伸びた背筋。まっすぐ前だけを見つめる瞳。それだけの良心を抱えていながらこんな役目をさせられる。
ヴォルケイノーにそこまでさせる『あの方』とはいったい誰なのか。
あとで我に返って心に傷を負うことはないのだろうか。
ミーティアは考えれば考えるほど涙があふれそうになる。
「ヴォル、お願いよ」
すでに涙声だ。しかもただ懇願の言葉しか出てこない。そのうえヴォルケイノーの瞳をほんのわずかですら揺らすことはできなかった。
ミーティアは己をふがいなく思いながらもただヴォルケイノーの前にいた。
しかし先にこの状況を崩したのはヴォルケイノーだった。
「時間の無駄だ」
ただその一言で馬の速度をあげてミーティアをあっさり追い抜く。
慌てて追いかけるミーティアは、走りながらヴォルケイノーの頭上に輝く金の輪を恨めしく睨んだ。
(ヴォルのバカ!)
そしてミーティアは走る速度を一気にあげると剣を抜いた。
「ヴォル!」
殺気を感じ取ったのか。ヴォルケイノーも剣を抜き放って振り返り。そして目を瞠った。
ミーティアが渾身の力で斜め上に斬り上げた剣が動きを止めたヴォルケイノーを襲った。




