52.魔王アバドン
「だったら……」
試練を与えるのが魔の使命なら。それを阻むのが勇者の使命というのなら。
「魔王アバドン。あなたを倒します」
初めてミーティアが自分の意志で魔王を倒すと決めた瞬間だった。
勇者の言葉を聞いても魔王はいっかな覇気が衰えるようすはなかった。
「それは楽しみだ」
心底楽しそうに魔王が答える。
直後にはミーティアを炎の檻が捕らえた。
ミーティア自身もそうだが、魔術魔法を発動させるのに無駄な呪文というものは唱えない。決まった動作もない。ただイメージするだけ。それだけで魔力も精霊も動いてくれる。それは敵に術の発動の瞬間や内容を読まれることなく素早く展開できるという利点があるのだが、相手も同じ方法を使ってこられるとなんともやりづらいものがあった。
水を操って炎を消しても、今度はその水を使って氷の檻を作られてしまうのだ。
(もう! なんていやらしい性格してるのよ!)
胸中で悪態をつきながらミーティアは氷の檻を炎をまとわせた剣で叩き斬る。
そのまま魔王に向かって踏み出したミーティアは炎をまとわせた剣をそのままの状態で袈裟懸けに振り下ろした。剣先よりもさらに伸びた炎がかろうじて魔王の肩を焼く。しかしそれだけだった。魔王は平気な顔をして逆にミーティアに斬りかかってきた。
それを屈んで避けたミーティアは今度は手首を返して薙ぎながら体を横に逃がした。
が、それは誘いだったようだ。
気づいた時には魔王の太く筋肉の乗った腕で繰り出される拳がミーティアの腹部を捉えていた。
勢いそのままに後方に吹き飛ばされるミーティア。壁にぶつかるようにしてようやく止まることができた。とっさに風で防御したのだが、壁への激突は免れても拳の勢いまでは消しきれなかった。ミーティアは床にうずくまって片手をつくと苦しそうに咳き込みながらお腹を押さえた。
ごぷりとこみあがってくる鉄臭いもの。吐き出したものは鮮血だった。
(内臓が傷ついたのね)
手の甲で口元をぬぐったミーティアは、黒曜石のような輝きを放つ床についていた手をとおして魔王を串刺しにする意思を伝えた。
即座に床が幾本もの細長い素槍状に変化して、ミーティアに斬りかかるべく寸前まで迫っていた魔王を襲った。
さすがは魔王というべきか。そのすべてを避け、切り捨て、魔王は再びミーティアへと攻めてくる。
からくも立ち上がったミーティアだったが、激痛によって動きが鈍った状態では避けきることができずにマンゴーシュを盾にして受け止めることしかできなかった。
動きを止めたミーティアを魔王が蹴り上げる。ミーティアはまさに壁に叩きつけられたような形になった。再びの吐血。
ここまでなのだろうか。
ミーティアが泣く寸前のように顔をしかめた直後、彼女を覆うように壁から棘が無数に突き出して魔王に襲い掛かった。
「なに!?」
魔王の口から驚愕の声が漏れ聞こえる。
ミーティアが目の動きだけでそっと左右を窺うと、今度はミーティアがいる部分を除いて壁が砕けた。大きな塊のそれらがいっせいに魔王目がけて襲い掛かる。
そのあいだにミーティアの真後ろにあった壁が後ろに倒された。
代わりに背後に立つのは馴染んだ気配。
ぎくしゃくと振り返ったミーティアが見たものは、予想たがわず不敵に笑うヴォルケイノーだった。
「……やっぱり無事だったのね」
「あたりまえだろう」
そういってヴォルケイノーが肩を竦めればミーティアたちの目の前に空気の盾が生まれて魔王が繰り出した炎を防いでいた。
「いくぞ」
ヴォルケイノーの変わらぬ口調にミーティアはこんなときにもかかわらず笑ってしまいそうになった。
お腹に当てた手で簡単に傷ついた内臓を癒すと、ミーティアは力強くうなずいた。
あらためて剣を握りしめると、ミーティアは魔王を見据えた。
かすかに風が動いた気がした。
それがなにか。
確認することなくミーティアは全力で魔王に向かって駆けだす。
投げつけられた炎の球は氷の塊を投げつけて相殺し。
ただ魔王目がけてまっすぐに走る。
下段の構えで待ち構える魔王。
ミーティアが渾身の力で剣を突きだす。
相打ちのごとく思われたその時。
魔王の漆黒の剣に風が絡んでたくましいその腕から繰りだされるはずだった力強くも素早い一撃――それを留めたのだった。
反対に魔王の腹部に吸い込まれていくのは勇者の剣。
ミーティアの唇がかすかに動く。
「我が敵すべて滅せよ!」
瞬間魔王の体内から焔が立ちのぼった。
魔王の間に、魔王アバドンの声なき絶叫が響き渡る。
やがて焔がその勢いをしぼませて消えたあとには、息も絶え絶えの魔王が立っていた。
鬼のような形相でミーティアたちを睨みつけたかと思えば、一瞬にして落ち着いた表情へと変化した。まるで憑き物が落ちた瞬間のようなみごとな切り替わりだった。
剣を抜き放ってからは狂暴な面だけを見せていた魔王が突如、表情や眼差しだけではなくまとう雰囲気のすべてを柔和なものへと変貌させたのだ。困惑しないほうがおかしい。そのうえそんなミーティアのほうへうっすらとだが喜色すら浮かべている瞳を向けてきたのだ。
(なにが起きたの?)
目を白黒させるミーティア。だが魔王は軽く会釈までしてきた。
「それではお先に参らせていただきます」
「え? お先って……?」
意味のわからない一言だ。いったいどこへ行くというのだろうか。
相変わらず何事かと目をしばたたかせながら考え込むミーティアをおいて、魔王アバドンの体はまるで細胞同士が一気に結合を解いたかのように霧状に変化してあっというまに雲散霧消した。
なにはともあれ勇者は魔王を倒した。
なんとか倒した。倒すことができた。
それもこれもヴォルケイノーのおかげだろう。
最後のあの魔王の一撃をみごとに抑えきったのだ。ミーティアにはとてもできなかったことだ。
ミーティアはほっと息を吐き出した。
(ヴォルってばホント最強だし。彼に比べたらどいつもこいつも弱すぎとしか思えないわね。ホーント、ヴォルのほうが魔お……)
そこまで思ったところでミーティアは大慌てではっしと自分の手で自分の口を塞いだ。声に出していたわけではないのでこの行為は無意味でしかなかったが。
念のため、ブリキ人形がギギギと耳障りな音を立てながら錆びついた関節を無理やり動かすようにして背後のヴォルケイノーを見返す。
ヴォルケイノーの顔を、というよりはその表情そして瞳を目にした瞬間、ミーティアはさきほどとは大違いで即行目を逸らした。
(なんでー!?)
心の中で思っただけなのに本人にばれていた。
それよりも。
あれは見てはならないものだ。本能的にそう悟った。悟らざるを得なかった。しかしいまさらどうこう言ったところでもうなかったことにはならない。途中で止めたところでなぜだか本人にしっかり正確に伝わってしまっているのだ。なかったことにはしてもらえないだろう。どれほど懇願したところで聞く耳を持ってもらえるとは思わない。
どよんどよんと周りの空気が重く暗く澱んでいくような錯覚すら覚え始める。それほどまでにヴォルケイノーから発せられる気配は闇をはらんでいた。
ヴォルケイノーこそが魔王であるかのように。
いや、とミーティアは思う。
あるかのようではない。ヴォルケイノーこそが本当の魔王だったのだ。
ミーティアは今このときはっきりとわかった。
思い返してみれば周囲の者はなぜかヴォルケイノーに対して丁寧な態度をとっていた。ミーティア以外の者は知っていた可能性がある。なぜそんなことができたのかはわからないが。
(道理でてこずりはしたけど私にも倒せたはずよ。だってあの魔王は偽物だったんだから)
でも。
ミーティアは口元に手をやり思案する。
(どうしてこんなことをするのだろう?)
どう考えてもおかしいのだ。魔王が勇者に手を貸して、偽物の魔王退治だなんて。
そんなことを考えていたミーティアの両肩をヴォルケイノーががっしと掴む。ミーティアの鼓動が派手に跳ねあがった。
「ミア? おまえさっきなにを考えていた?」
耳元に寄せられたヴォルケイノーの口唇から美声ゆえになおさらぞくりと寒気を感じさせる声音でささやかれた。
しまった。こんなことを考えている場合ではなかった。気づいた時にはすでに遅し。まさに絶体絶命というやつだ。もっともヴォルケイノーから逃れられるとは思えなかったが。
「正直に口にしたほうが身のためだぞ」
ヴォルケイノーの魅惑的な声がさらに近づけられた口から直接耳に注がれる。
その行為から察して、聞かなくてもわかってはいるがミーティアの口から直接言わせたいということなのだろう。
ミーティアはこくりと喉を鳴らした。
「……ヴォルはどうしてこんなことをしているんだろうなぁって考えてました」
ミーティアは素直に言った。ただし『魔王』という直接的な単語だけは本人に言わないように気をつけながら。
「俺たちには俺たちの役目があると言わなかったか」
「それは聞いた気もするけど……。でもその気になれば人間を……それだけでなく世界をも簡単に滅ぼすことができるんでしょ?」
「簡単ではないが、まあやろうと思えばできなくはないな」
薄く口元に笑みを浮かべながら返されたヴォルケイノーの言葉にミーティアは一瞬顔をひきつらせたが、すぐに意志を総動員して無表情を取り繕った。
「それなのにわざわざ身代わりを用意してまでこんなこと……。どうしてか聞いてもいい?」
「身代わり? なんの話だ」
「あの魔王アバドンは偽物なんでしょう?」
この問いが肯定されてしまったら勇者としてのミーティアはどうすればいいのか。ミーティアは目を閉じて俯いた。




