51.漆黒の玉座
最下層に降りる手前でミーティアは最後の休憩をとった。
ちょうど死角になりそうな岩を見つけてその裏に隠れる。
氷で作ったドーム状の小屋のようなものを風で囲って外にミーティアの気配がもれないようにした。逆に外の気配は中にいるミーティアに伝わるように術をかける。しかしいまだに外は静寂に包まれた空間を維持していた。
(ヴォル……)
きっとどこかで無事に逃げのびている。ミーティアは左手首に巻いたままのフィタをそっと撫でた。
今このフィタを引きちぎればヴォルケイノーはここに現れるのだろうか。
一瞬試してみようとしたミーティアだったが、来れるものならきっとヴォルケイノーのほうから姿を見せているはずだ。いまだに気配もつかめないということはまだここにたどり着ける状態にないということ。呼べば空間を超えられるのかもしれない。しかし魔王と向き合う寸前で呼び出すということは下手をすれば今度こそミーティアの身勝手でヴォルケイノーの命を奪うことになりかねないのだ。
やはりここから先は一人で行くべきなのだろう。
食事を終えたミーティアは数回深呼吸をした。体調を万全に整えて魔王と対峙するために彼女は静かに目を閉じた。
時は幾分遡り、ミーティアの身代わりとなって道から落ちたヴォルケイノーは空中で態勢を整えると軽やかに着地し、同時に剣を払った。その一振りでいくつものうめき声が生まれるも、全体から見ればほんの一握りにしか過ぎない。
ヴォルケイノーは周囲を一瞥した。
「俺に刃向うとはいい度胸だ。更なる地獄へ落とされたいものだけかかってこい」
片方の口角だけ持ち上げてヴォルケイノーがにやりと笑う。
それに対して霊たちも不気味な笑みを浮かべてヴォルケイノーに襲い掛かっていった。
結果的にはヴォルケイノーの圧勝だった。
彼が剣を振るたびに断末魔をあげる暇もなくバタバタと倒れていく霊。すっと左手で空中を薙ぐように振りきれば一斉に炎につつまれて倒れていく。ミーティアを攻撃していたものたちも含めてあっというまに霊たちは倒されていった。
その様子を離れていたところから見ていた二体の魔が歩み寄ると、ヴォルケイノーの目前で膝をついた。
ミノタウロスとケンタウロスだった。
「見苦しいところをお目に触れさせてしまい申し訳ありません」
「もとは俺の連れの油断が招いた事故のようなものだ。気にせずともよい」
「ご配慮のほどまことにかたじけなく存じます」
「いや、手間をかけさせたのはこちらだからな。ついでに最下層まで案内してもらいたいのだが誰か空いているか?」
「それでは――」
ケンタウロスが背後に控えるケイロンに確認を取りネッソスを案内役とすることとなった。すぐに呼び出されたネッソスが姿を現す。ネッソスは胴体から上が人型で、下が牛の体をしていた。彼はヴォルケイノーの前に膝をつくとその背に促した。
「わたくしがご案内役を務めさせていただきます。愛馬ほどの乗り心地を供することはかないませんが、どうぞお乗りください」
「そこまで気にする必要はない」
ヴォルケイノーは苦笑しながらネッソスの背にまたがった。
それを振り返って確認したネッソスは一言「では参ります」と告げてから静かに歩き始めた。
ヴォルケイノーがその場から見えなくなると、魔たちは倒れている霊を片っ端から拘束していった。
そうしてあらためて一気に大量の霊を倒したヴォルケイノーの偉大さを思って、ミノタウロスは彼が消えた方向に目を向ける。
「さすが……ですね」
目覚めたミーティアは最後の食事をとった。その後片づけを終えると荷物を隅に隠した。見つけられるのはミーティアを除けばヴォルケイノーだけ。もしヴォルケイノーがここまでたどり着いたらきっとお腹がすいているだろうからこれを食べてくれればいい。そう思って。
ミーティアが持って行くのは勇者の剣とマンゴーシュ。そしてヴォルケイノーからもらったフィタと指輪。それから最後に、両親からもらったカナダオダマキの花の模様を染色したバンダナを取り出して頭部を覆った。
いや、と思ってミーティアは静かに微笑んだ。
両親に村のみんな。プレーリーで出会った人々。リベルトの鍛冶屋でお世話になった人々。コローメンスコエと森の屋敷でお世話になった人々。みんなのおかげでミーティアは今ここに立っている。教えは実りとなってミーティアをここまで育ててくれた。たくさんの人の思いが体の中に沁み込んでいる。
「みんなありがとう……」
それぞれの顔が浮かんでは消えていく。
ミーティアは胸元をつかんで目を閉じると、一つ大きく息を吸い込んだ。顔をあげてゆっくり息を吐き出すと静かに目を開く。
できるだけのことはやった。
いまだに自分が勇者だとは思えない。
むしろそんなことはもうどうでもいいと思っている。
ただ皆の思いを引き継いでしまったからもう足が前にしか進めないのだ。
ミーティアはゆっくりと一歩を踏み出した。なんの気合いを入れることもためらうことなく自然に。
なんの装飾も施されていないただの岩の扉。けれどもどこまでも磨きこまれた黒曜石のごとき美しさと高貴さを醸している。そんな扉の前に立ったミーティアは魔術魔法を使ってゆっくりと開いていった。
徐々に露になるのは魔王の間。
『五回目の角笛が吹かれると魔王アバドンが奈落の底から地上へとのぼってくる』と黙示録では言われていたのだが、どうやらいまだに奈落の底にいるようだ。
完全に開ききった扉の先には数段高い位置に置かれている豪華な装飾が施された漆黒のアームチェアに腰かける壮年期らしい力強さを感じさせる肉体を持つ大柄な男がいた。すべてが黒ずくめである。
「あなたが魔王アバドン?」
「いかにも」
「本当に?」
「虚偽を申してなんになる」
「でも黙示録では魔王アバドンは奈落の底から地上へとのぼってくるとあるわ。なぜ今もこうして奈落の底にいるの?」
魔王はふっと嗤うように息を吐いた。実際嗤いもしたのだろう。一方の口角がわずかに持ち上げられている。
「黙示録などただの予定事項にすぎぬ。我が騒がしい地上に赴かねばならぬ事情などどこにもない。我はただの鍵。どこにいようとこうして勇者自らがおとなうてくれるではないか。さすれば静かに待つのみよ」
言われてみればたしかにとうなずける。しかしなぜ。
「なぜあなたは勇者を待っていたのですか?」
「愉快だったからだ。我ら魔の者は快を好む。そのためにすべてをささげるほどにな」
ただそれだけのことだと事も無げに言う魔王。
「しかしだからといって人間を苦しめるようなことをすることはないでしょう」
「我らはなにもしておらぬが?」
「え? でも、だって、イナゴが……」
「蝗害はただの自然災害。我らは関知しておらぬ」
「なに……も?」
「さよう。むしろ人間どもに召喚されてあれこれこき使われておる。人の世の繁栄のために酷使されておるのは我らのほうぞ? 先の南部で起きた蝗害についても駆除をおこなったのは一柱の魔のもの――フルカスだ」
召喚という一言にミーティアはゴエティアを思い出した。全部ではないけれど一部では願いと引き換えに魂を欲するという。
そのことを指摘したミーティアに魔王はあきれたようなため息をこぼした。
「最初からそう指摘している悪魔を呼び出す者は、礼儀をわきまえぬ者か信じていない者か。いずれにせよそやつらの地獄行きは呼び出した時点で決定している。これはルールを守らせるための教育の一環であり必要不可欠なからくりだ」
そもそもは己の力で立ち向かうように仕向けるために用意してある仕掛けのようなものだ。それに掛るものは結局はどうあっても長生きできず行きつく先は同じ場所。であるならば他人に迷惑が掛からないうちに早々に今世から隔離することもまた魔の者の務めだった。
「魔の者の務め?」
なにやらおかしなことを聞いた気になったミーティアだったが、魔王はしれっとしたものだった。
「魔の者といえど世界の理の中の一つにすぎぬからの」
「理……」
「さよう」
「では……なぜ人々が苦しんでいるのをただ見ているのですか」
「苦しみ……? 試練を苦しいと思うかどうかは本人次第だが?」
魔王は心底わからない風だった。
他人に迷惑が掛からないようにといいながら、それは決して善意などではないということか。それではまるで苦しむ邪魔をするなといっているようだ。
けれど。
ミーティアにいったいなにが言えるだろう。あれを試練というのならばたしかに数々の試練をミーティアとて受けてきた。逃げ出しそうになる心を叱咤しながらここまで来た。自分ができたからといってほかの者も同じことができるとは限らないし、実際にフラーブルイたちはここへたどり着けなかった。彼らとてあきらめたわけではなかったのだろう。いくらかはあがいていたはずだ。ミーティアに対して謝罪の言伝を残したくらいなのだから。
時があればそうして反省しやり直すこともできたはずなのだ。一度の過ちで地獄行きが決定したからといって早めに放り込むのは何か間違っているような気がする。
こんな風に考えてしまうのはミーティアが甘いからだろうか。愚かだからだろうか。
そういえば愚かだと評したのは誰だったか。
うなだれて足元に視線を落としたミーティアに風がざわめく。
はっと我に返ったミーティアは顔をあげると同時に鞘からマンゴーシュを抜き放つ。
腕がしびれるほどの衝撃がマンゴーシュを通じて体中に広がった。
「っ……ッ」
顔をしかめたまま目前を見やれば、そこには漆黒の剣をミーティアに向かって振り下ろしている魔王がいた。
「なにをするの!?」
「これは異な事をおっしゃる。魔王が勇者を見逃すと思うてか。人に試練を与えるのが我らの使命。それを阻もうとする勇者を排除することがそんなに不思議か?」
魔王アバドンは口元に弧を描くようにして愉悦も露に嗤った。




