49.ベアトリーチェが導くままに
ミーティアを目覚めさせたのは無数の殺気だった。
慌てて起き上がろうとした瞬間何者かの腕に拘束されて口も塞がれた。
びくりと、驚きと恐怖で体が跳ねて震える。
「落ち着け。俺だ」
ミーティアを背後から拘束していたのはヴォルケイノーだった。
「道の外にいるものが見えるか?」
耳元に近づけた口で小さく囁いてくる声にしたがって、ミーティアは目の動きだけで周囲を窺った。しかしわずかに闇がうごめいているような気がするだけなのでここは否ということだろう。
答えようとして口が塞がれたままなことに気づいたミーティアはほんの少しだけ首を左右に振った。
「殺気は感じ取れるか?」
それなら少しは。
そう答えれば、ならばと今度は両目を塞がれた。今度は事前に言われていたので無意識に体が逃げを打つことはなかった。
じんわりと瞳が熱を持つ。
そっと瞼の上に置かれていた手がのけられる。
もう一度確認するように言われてミーティアは周囲に目をやった。そしてそこにうごめいていたものの姿かたちをはっきりと目にしてしまい思わず体を震わせてしまった。
「あれは魔なの?」
ミーティアは囁くようにそっと訊ねた。
「まあそんなところだな。あれは亡魂とも魑魅とも呼ばれている人面鬼神の霊だ」
広義では魔の仲間として分類されるが、魔のなり損ないといったほうが正しいかもしれない。そんな存在だ。彼らは獄卒から受ける地獄の責め苦を抜け出してさまよっている霊たちで、こうやって地獄にやってきた者たちを襲って惑わせて仲間にしようとしていたのだ。
地獄の責め苦は文字通り苦しいものだが、これは生前に犯した罪穢れを償い浄化するために必要な行為だ。そこから逃げ出せば永遠の辛苦が待っている。今ミーティアたちに恨みの眼差しで心を刺し貫くように睨み付けてくる彼らのように、救いなど来ない日々を送ることになる。地獄は魂の救済に絶対必要な存在だった。
獄卒が交代で警邏して見つけ次第捕獲しているのだが、神災の関係で膨大な数の霊を相手にしないといけないことから今ではそこまで真剣にルールを犯したものを率先して助けようとは誰もしなかった。忙しくて手が回らないという理由もあった。
「道の中にいれば安全なの?」
彼らは道の両端にある明かりから内側へは入ってきてはいないようだ。無視していれば大丈夫なのだろうか。
「霊本体が中に入ってくることはできないが、掲げている武器や魔術魔法は届く。それによって傷を負うことも死ぬこともあるから、攻撃はすべて避けるか弾くかしろ。体の周りを風で防御して多少の攻撃であれば勝手に弾かれるようにするんだ」
今現在はヴォルケイノーの魔術魔法でそれをおこなっているが、ミーティア自身も一人でできるようにならないと常にヴォルケイノーのそばにいなければならなくなってしまう。そうなれば行動に不自由が生じてしまい、そのあいだにやつらがますます集まってきてさらに身動きが取れなくなってしまう。そうなれば訪れるのは死のみだ。
ミーティアは気合いを入れて風の鎧をまとった。
「体を起こすぞ。やつらの攻撃に注意しろよ」
まず最初にヴォルケイノーが起き上がり、次いでミーティアが体を起こす。起き上がった瞬間に投げ込まれた微雷光はヴォルケイノーが剣で弾いた。
ミーティアは素早く荷物を持って立ち上がった。
「走るぞ」
準備が整ったことを確認したヴォルケイノーは素早くそこを走り抜けることを伝えてミーティアの腕を引いた。
殆どの攻撃はヴォルケイノーが剣で弾いていく。
ミーティアはひたすら避けながら走っていった。
奴らの動きは鈍い。特に足が遅いので、今回のように攻撃を避けながら走っていけば早々に囲みを逃れることができる。攻撃に捕まらなければなんということはなかった。
あっという間に彼らの姿が見えなくなって、代わりに目の前に現れたのは川だった。
アケローン川だ。
待つことわずか。手漕ぎ舟がミーティアたちのもとへと近づいてきた。
襤褸をまとっているもののがっしりとした体躯の男はミーティアとヴォルケイノーを見て「生者か」と口にした。
ヴォルケイノーが首肯する。
「いかにも。俺たちは道の先へと行きたい。渡してくれるか」
「よかろう。そもそもその道に呼ばれたのだ。土の道の続きまで渡してやろう」
二人が乗り込むと、川の上にも明かりの道ができた。船頭はその道に沿うように舟を操った。
そうして川の流れなど意に介する様子もなくひたすら明かりが導く道を渡っていった。
ようやく目的の道の続きへ到着したので荷物を抱えて下船しようとしていたミーティアを見ていた船頭の男が「ほおう」と楽しそうな声をあげた。
「なにか?」
何事かと思えばミーティアの剣を見ていたのだ。正確には持ち手部分のシジル魔術を。
「なるほど。あんたたちが来たということはこの忙しさからもうじき解放されるかもしれないな」
それはどういう意味かと訊ねてみたのだが、男はにやにやと笑うだけで答えなかった。
「ミア、行くぞ」
答えることができないものに訊ねるだけ時間の無駄だと言ってミーティアを促したのはそれまで黙っていたヴォルケイノーだった。
「おおーっと、舟の渡し賃をもらってなかったな」
船頭の男は顎に手をやって考えた。
「通常なら一オボロス銅貨をもらうんだが、今回はその抱えている荷袋に入っている肉の燻製にしよう」
ヴォルケイノーに目で窺うとうなずいたので、ミーティアは抱えていた荷袋をおろして中から肉の燻製を全部取り出した。『肉の燻製』とは言ったけれど量までは口にしなかったので全部という意味だろうと思ったのだ。
そしてそれは正しい選択だったようだ。
船頭がにたりと笑う。
「勝手に一塊と判断していれば川に突き落としてやったんだが、ちゃんと全部寄越したからな。きっちりと岸におろしてやろう」
男がそういえば川岸から船へと架け橋がかかった。
「さあこれを使っておりてくれ」
ヴォルケイノーの手を借りて架け橋の上にのると、ミーティアは慎重に歩いて渡って無事土の道へと再び足をのせた。
そうして男を振り返ったミーティアに船頭は告げる。
「道がわかれたように思えてもつながる先は一つだ。信じて進めよ」
そうして船頭は架け橋を外すと再びアケローン川へと舟を進めたのだった。
「行くぞ」
あまり水辺にいないほうがいいというヴォルケイノーの言葉に従ってミーティアは再び明かりが作る道を歩き出した。
「それってどういう意味?」
「水の中には魔が住んでいる。水魔というんだが、やつらは睡魔も操って永遠の眠りにつかせようとする」
水辺にいるときは水を操って水魔が放つ魔術魔法を中和させるようにしながら早めに距離をとったほうがいいというヴォルケイノーの言葉に従って食事はもう少し先でおこなうことにした。
しばらく進んでから突然足を止めたヴォルケイノーが周囲を見渡してから誰かを呼んだ。
「ベアトリーチェ、このあたりで休める場所はないか?」
ベアトリーチェとは誰のことなのか。ミーティアが内心で首をかしげながら周囲を窺っていると、ちょうど丘のようになっている頂に立っている巨木を囲む明かりが勢いを増してその存在をこちらへ指し示してきた。
「ああ、あれほどの巨木であれば安心か」
ヴォルケイノーは独り言つとミーティアへ顔を向けた。
「今夜はあそこで一泊しよう」
異論などあるはずもなく促されるままに向かった道の先では、近づけばさらに巨大に感じる木が一本立っていた。
洞は大きく開いておりミーティアとヴォルケイノーの二人がじゅうぶん横になれるほどの広さがあった。
「ここなら霊どもも簡単に手出しはできないだろう」
もとは人である分誰もが魔術魔法を使えるわけではない。生前に使えなかったものは死後もやはり使えない。物理的な攻撃から身を守ることが基本だった。
ヴォルケイノーが魔術魔法で火を起こしてミーティアが調理をおこなう。これがここ最近の分担作業だ。
そうして食事を終えてあとは寝るだけとなった時に、ミーティアは気になっていたことを訊ねた。
「ねえヴォル、そういえばベアトリーチェって誰のこと?」
「ああ、ベアトリーチェはあの道を照らしている明かりのことだ。生者が地獄を行き来する際にああやって案内役を務めている」
地獄の門で『道』を求めれば案内役のベアトリーチェが道を作る。そうでなければだだっ広い地獄に案内も保護もなにもなく放り出されてしまうのだ。
そんなことすら知らなかったミーティアは思わず息を呑む。常に自分は綱渡り状態なのだと思い知らされるばかりだ。
「ヴォルはどうしてこんなことまで知っているの?」
「『復元された予言書』を読んでいればわかることだ。だからあの時後悔するなよと言っただろう」
たしかにミーティアは渡された予言書を突っぱねてヴォルケイノーから『後悔するなよ』という捨てぜりふを吐かれていた。
しかしこれは果たして『後悔』なのだろうか。
知らなければならないことはある。知らないほうがいいこともある。
だったらこれはどちらなのだろうか。
ミーティアは荷を枕代わりにして横になりながら目を閉じた。
瞼の裏に『復元された予言書』の表紙が浮かぶ。
けれどそれに手を伸ばそうとは思えなかった。
ミーティアが水と風を操って外からの干渉を遮断した。すると映像も瞬く間に消えていく。
一度薄目を開けたミーティアはヴォルケイノーを見返した。
ヴォルケイノーは焚火をはさんだ反対側で横になっている。
(違う)
今の映像を寄越したものが誰かはわからないが、ミーティアはヴォルケイノーではないと信じた。
根拠などはなにもない。むしろないからこそ経験から培った直感が重要になってくる。根拠を探っていてはそのあいだに命が奪われる。そんな日々を送るうちにミーティアは少しずつ己の勘を磨いていったのだった。




