48.地獄の門
ヴォルケイノーが自身の剣を抜き、逆手に近い形――杖でも持つような感じに握った。
「こちらへ」
空いた左手を差し出されたミーティアは素直にそちらへ近づいた。すると腰に腕を回されて軽く抱き寄せられる。
「なにがあっても暴れるなよ」
暴れるようなことをするつもりなのか。なにやら不安になったミーティアだったが信じると決めたのだ。まっすぐにヴォルケイノーを見返すとしっかりとうなずいた。
「わかったわ」
ヴォルケイノーは持っていた剣をいったん肩のあたりまで持ち上げると足元の氷に突き立てた。
堅い浮氷の表面に雷光のようなひび割れが走る。最初に左右にひびが走ったかと思えば、今度は氷の口が開くようにゆっくりと闇の穴が広がっていく。しばらくしてようやく氷の割れが治まった時には左右がおよそ十メートル。上下が五メートルほどの菱形のような穴が開いていた。
「覚悟はいいか?」
「ええ」
「いいか、足元に見えない階段があると思え。落ちるのではなく風でできた見えない階段をくだっていくと思うんだ。いいな」
「わかったわ」
唾を飲み込んでうなずくミーティア。
ヴォルケイノーはミーティアの腰に回した腕で促した。
「行くぞ」
そうしてぽっかりと口を開けた穴の中に第一歩を踏み入れた。
階段があると自身に言い聞かせながらヴォルケイノーにあわせて足を交互に踏み出すミーティア。堅い感触は足に伝わってこないが、確かに体を支えるなにかがあるようだ。たとえそれが錯覚であったとしても、現実的に落ちずに降りている状態を維持していることは紛れもない事実だった。
どれほどの時が過ぎたのか。底が見えない闇の中をひたすらおりていく。
時折なにかの雄叫びが近づいてくるのだが、ヴォルケイノーが抜身のままの剣を振ると断末魔のような大気をつんざくような悲鳴が響き渡って離れていく。なにも見えないミーティアはそのたびにびくりと体を震わせていた。しかしそれでも足を止めることはしなかった。
腰にはヴォルケイノーの腕が回されたまま。ミーティアが体をすくませるたびに力強く支えてはくれるが、だからといって無理にミーティアを歩かせようとはしなかった。だからこそ余計にミーティアは歩き続けることができた。
気が遠くなるほどの時間。感覚はすでにない。疲れは感じているはずなのに状況が状況だからか泣き言も言い出せずにただひたすら足を交互に動かし続けていたミーティアは、ようやくヴォルケイノーが足を止めた瞬間その場に崩れ落ちそうになった。
「もう少し耐えろ」
ヴォルケイノーのその一言がなければ、ミーティアは膝から力が抜けてその場にしゃがみ込んでいただろう。それほどに疲労困憊だった。
「着いたの?」
「ああ入口にはな」
「入口?」
「そうだ。そこに……」
剣先でヴォルケイノーが指示した先には凪いだ池のような水たまりがあった。
よく見ればその中になにかがある。
水辺まで歩み寄れば、水面が鏡面のようになっていて波頭は一つとしてなくまさに真っ平らだった。そこに一つの門が映っている。いや、水面を境にして別の世界が逆さまに存在してそこに立っている門を見ていると言った感じだろうか。
「これは?」
「地獄の門だ」
じっと見れば門には複雑な彫刻が掘られている。門の上部には岩のようなところに腰かけて門を見下ろして考える人がいる。まさに彫刻家ロダンの作品――地獄の門そのものがそこに出現しているかのようであった。
ヴォルケイノーが剣先で水面を一つ叩く。
波紋が一つ生まれた。
『我は最初に造られしモノなり』
水面の向こうの門から声が聞こえてくる。
『永遠のモノを除けば我より先に造られしモノは無し』
その声は果てのしれない闇の空間に粛々と響き渡っていく。
『それよりのち我は永遠に立つモノなり』
厳格な男性の声は説教のようにミーティアの体に沁み込む。
『我は試練と償いを隔てるモノなり』
また一つ水面に波紋が生まれる。
『ここより先に進みしもの一切の望みを棄てよ』
ミーティアは思わず背を震わせて唾を飲み込んだ。
『汝ら我を過ぐるや否や』
即答したのはヴォルケイノーだった。
「通る。門よ、今すぐ道を開け」
『心得た』
ミーティアはヴォルケイノーの横顔を見上げてからもう一度門へと視線を戻した。どこからともなく風が流れてくる。きしむ音もかすかに聞こえてきた。
水面の向こうに見える門には動きはない。風が吹いているというのに波紋ひとつ立っていなかった。ミーティアは目の動きだけであたりを探った。
「ミア、後ろだ」
ヴォルケイノーに導かれて後ろに向き直ったミーティアはそこにあるものを口を半開きにして見上げた。
ゆっくりと開いていく闇の門。どれほどの高さがあるのか。頂がまったく見えない。けれど確実に開かれていくことだけは感じられた。少しずつ門の向こう側が見えてくる。そこには道らしきものがあり、その両端にポツリポツリとおぼろげな明かりがともされている。むしろその灯りがあるからこそ道に見えるというべきか。
ヴォルケイノーがミーティアに視線を向けずに口を開いた。
「ミア、ここから先はすべて敵だと思え。誰の言葉も安易に信用するな。いいな」
「……ヴォルのことも?」
ヴォルケイノーはミーティアを一瞥しただけだった。怒りもしなかったし、心外だという様子すら見せなかった。ただ一言。
「それはミア自身が決めろ」
そうして二人が通れるだけの幅に扉が開いたことを確認すると、感慨に浸ることもなにもなくヴォルケイノーはミーティアを促してすたすたとその門を通り過ぎていった。
『ただ示した道を行くがいい――勇者たちよ』
門の最後の一言にミーティアが背後に顔を向けたときには門はすでに閉じたあとだった。
「どうした」
「さっき門が『勇者たち』って……」
「自ら地獄へ行こうというんだ、勇者以外の何者でもないだろう。勇者とは魔王を倒すものという意味でしか使われないわけではない。ましてや人間以外は単純に勇気をたたえる者に対して言われることが多い。そうだな。社交辞令程度に思っていればいい」
深い意味などないと解説されて、そういうものなのかとミーティアは思った。
ぼんやりとしたろうそくのような灯りで作られる道。
ヴォルケイノーがその道を指し示す。
「いいか。なにがあってもこの道から外へ出るなよ。たちまち道を見失って獄卒にさらわれるぞ。体の一部がこの道に触れてさえいれば腕や片足がこの幅の外に出たくらいでは道が消えることはないが、一瞬でも体全体がこの灯りの外に出るとその瞬間に道はなくなる。忘れるなよ」
言っていることはわかるのだが、果たしてこの道から外に出なければいけないような事態が起こることはあるのだろうか。この道はミーティアとヴォルケイノーが両腕をいっぱいに広げて横に並んだくらいの幅はある。つまりはミーティアの身長よりは幅があるのだ。
そのことをミーティアが訊ねると、ヴォルケイノーはすぐにわかるとだけ言った。
「とりあえずこの辺で休憩しよう」
ミーティアの体はすでに限界を超えておりヴォルケイノーの腕に半ば支えられているような状態だったのでその言葉はとても助かった。
ほっと安堵の息を吐き出したミーティアは崩れるようにその場にへたりこんだ。
「もう膝ががくがく」
抱えていた荷物に顔をうずめるようにしているとヴォルケイノーがそれを取り上げた。
「貸せ」
「せっかくもたれかかるのにちょうどいい高さだったのに……」
ミーティアが口を尖らせてヴォルケイノーを責める。
しかしヴォルケイノーは一顧だにしなかった。
「背負っている荷物を降ろしてそれを枕にして横になればいいだろう」
言いながらヴォルケイノーは荷物の口を開いて中から調理具や食材を取り出し始めた。
「え? ご飯食べるの? だったら手伝うわ」
背負っていた荷物をその場に下してミーティアは腕まくりをした。しかし。
「俺がやるからおまえは横になって体を休めていろ。今休んでおかないとあとで後悔するぞ」
「ヴォルが作るの?」
たしかに疲れ切っている身としてはそれは非常に助かる。助かるのだが。
「ヴォルって料理作れたっけ?」
いつも狩りで獲物を捕らえる役目を担っていたため、どうしてもヴォルケイノーと調理という行為が結びつかない。
その言葉にヴォルケイノーは動きを止めるとゆっくりとミーティアを横目で睨んできた。
「おまえは俺に喧嘩を売っているのか? 作れるに決まっているだろう。おまえは俺をなんだと思ってるんだ」
そういわれても、ミーティアにとっては北磁極で飲まず食わずでいたヴォルケイノーの図が浮かんでしまって、自分で作るくらいなら食事を抜くくらいのことはしそうに思えたのだ。
「俺一人が食うだけならこんな面倒なことはしない」
あたりまえのように言われて、やっぱりと思うと同時にではなぜと思ってしまった。
「ミアは食べないわけにはいかないだろう。ただでさえ体力がないんだ。しっかり食べてしっかり睡眠を取れ。この程度でばてていては目的地にたどり着けないぞ」
つまりは北磁極から地獄の門に至るまでの気が遠くなるほどの長く長い階段を下ってきた以上に困難な道のりということだ。
「ごめんなさい。今回はヴォルの言うとおりに任せるわ」
途中で棄権することは即死につながる。あきらめて死を受け入れてしまえば楽になるけれど、あきらめた瞬間ここに至るまでの日々の努力のすべてが無駄にもなってしまうのだ。
少しでも早く体力を回復させるために横になったミーティアは、ヴォルケイノーが作ったボルシチを食べると再び横になって目を閉じた。
片づける音が子守唄になる。
ミーティアはほどなく深い眠りに落ちていった。




