44.紅蓮の火焔が天を衝く
トビアスたちが立ち去ってからしばらく経ったころ、ミーティアがうっすらと目を開いた。いまだに焦点はぶれているがそれでも命はある。
熱い息の塊を吐き出したミーティアはほんの少しずつ体を動かした。
ヴォルケイノーやイーゴリたちの指導のおかげか、トビアスが把握していた以上にミーティアの魔術魔法は使えるものとなっていた。もっともかろうじて動けるだけではあったが、この場合死なないだけでもたいしたものだといっていいだろう。とはいえ現状は楽観視できない。ほんの少し体が動かせるだけではいずれにせよ死を迎えるしかなくなるのだ。
ゆっくとゆっくりと。仰向けから横向きにまで体を動かしたミーティアはふと左手首から覗くものに目を留めた。
それはヴォルケイノーからもらったフィタだ。
『もしどうしても助けてほしい場面に出くわしたらこれを引きちぎれ』
『俺に助けを求めるか、それとも死ぬか。どちらかを選ぶんだ』
脳裏に思い出されるのはフィタをもらった時に言われたヴォルケイノーの言葉。
ほんの少し動いただけでも息切れがする中でミーティアはフィタにそっと右手を伸ばした。けれど数度撫でただけで手を放す。
「これを」
これを使えば本当にヴォルケイノーが助けに来てくれるのだろう。たとえこんな周りになにもない浮氷の上で死にかけていた場合でも。
けれど、とミーティアは再度フィタに目をやる。
(これを使ってしまったら、きっとヴォルはもう二度と私を見てくれなくなる)
泣き笑いのような顔で小さく息をついたミーティアは胸に刺さったままの毒針を抜いた。
(こんなもので……)
こんなくだらない毒にやられてしまうくらいなら、いっそ。
思うように動かない体を幾度も叱咤しながらミーティアは賭けに出た。
そして一瞬の静寂ののち。
声にならない絶叫と共に紅蓮のごとき火焔が旋風となって天を衝いた。
一方ミーティアを置き去りにしたトビアスたちはできるだけ離れようと駆けに駆けてからようやく足を止めた。
「この辺でいいでしょう」
そして食事を終えた一行にいつものようにウオッカ入りの茶がふるまわれた。しかしミーティアの件がある。フラーブルイたちは誰もそれに手をつけようとしなかった。
トビアスが笑う。
「飲んでくれたほうが楽でしたけれど、仕方がありませんね」
そういって剣を抜くと同時にフラーブルイへと切りかかっていった。
「やっぱりか」
「そんなことだろうと思っていましたよ」
フラーブルイたちもこのころにはおかしいと思い始めていた。
ミーティアのことを『魔』だと教えて殺すように毒を寄越してきたのもトビアスだった。そして勇者だからといってコローメンスコエに行くようにそそのかしたのもまたトビアスだった。
「俺たちに勇者になるように言ったのはおまえだろう! なぜこんなことをするんだ!」
フラーブルイの叫びにトビアスが鼻で嗤う。
「私が勇者候補だと言ったのはミチオールです。フラーブルイではありません」
「え……?」
フラーブルイが目を見開いて動きを止める。
そんなフラーブルイに向かってトビアスは繰り返した。
「勇者候補はミチオールです。彼女と同じ『流星』の名を持つ者」
「彼女って……」
「ティアさんのことですよ。彼女の本当の名前は『ミーティア』。流星という意味のミーティアです」
ミーティアは英語での流星。
ミチオールはロシア語での流星。
どちらも名前の語源は流星だった。
「じゃあ……俺は……」
フラーブルイが呆然とつぶやく。
「あなたは、尻込みしたミチオールに身代りにされただけですよ」
その言葉に弾かれるようにしてフラーブルイがミチオールをねめつけた。
「今の話は本当か……?」
「あ……あ……」
ばらされてしまったミチオールは震えながら逃げるようにゆっくりと後退る。首を小さく左右に振っているのは違うとでも言いたいのか、騙すつもりじゃなかったとでも言いたいのか。どちらにしても友人だと思っていた者からの裏切りには違いない。
「ミチオール! おまえ――ッ」
びくりと肩を跳ね上げたミチオールは体を反転して今度こそ逃げ出そうとした。それを留めたのはインツーだった。
「ずっと騙していたのか?」
怒りよりも悲しみが増さったようなつぶやき。
けれどすでにミチオールにはインツーの悲痛な思いは伝わらなかった。彼はただ逃げ出すことしか考えずにやみくもに暴れる。
そんな彼に引導を渡したのはインツーとフラーブルイだった。
インツーが角指と呼ばれる暗器を使ってミチオールの動きを封じている間に、フラーブルイが剣で首を刎ねたのだった。
「おみごと」
トビアスがなんの感情も含ませずに賞賛めいた言葉を口にする。けれどその言葉は発した本人以外の耳には届かなかった。
フラーブルイとインツーはすでに生きる気力を失っていた。
互いに目配せするとトビアスが用意したウオッカ入の茶を飲み干す。
直後には器を後方に放り投げて二人同時に互いの胸に刃を突き立てた。
フラーブルイはミーティアに対して声には出さずに謝罪した。
元凶ともいえるのはトビアスだが、フラーブルイたちには彼をどうこうしようという気はなかった。彼らはミチオールに裏切られた。ミチオールさえ友情を忘れなければこんなことにはならなかった。ミーティア自身が幾度も口にしていたようになんの罪もない女性に襲い掛かることも毒を盛ることも見捨てることもなかったのだ。
すべての罪をトビアスになすりつけて彼を討ち取ったとしてなんになるのだろう。しょせんフラーブルイたちは勇者の器ではなかった。どうせじきに終焉を迎える世界。ならば最後くらいは自分たちがしでかした罪を自分たちで裁きたい。トビアスの手などを借りずに、自分たち自身の手で。それがフラーブルイとインツーが出した答えだった。
事切れて横たわる三つの骸。
それらを見まわしたトビアスは冷笑を浮かべた。
「手間が省けましたね」
そしてフラーブルイとミチオールが乗っていたそりから犬を放すと、自分のそりに乗る。
トビアスは斜め後方を眺めやった。
「さてあの方は放っておいても自力で北磁極までいらっしゃるでしょうからそちらでお待ちすることにしましょうか」
誰に聞かせるでもなく独り言つとトビアスは犬ぞりを走らせた。一路北磁極へ向かって。




