34.日々の積み重ね
浴室に入ったミーティアはチュニックのボタンに手をかけたところで一時停止した。そのまま体をひねるようにして後方にある入ってきたばかりの扉を見つめる。
(大丈夫だとは思うけど、これも練習だしね)
ミーティアは扉が壁に固定されるイメージを思い浮かべながら魔力を使った。ミーティアだけが解除できるように鍵をつけて。たぶんここにいる全員がなんらかの魔術魔法を使えるはず。だったらただ扉を固定しただけでは意味がない。イグナートが言っていた『鍵がない』というのは結局のところそういう意味なのだろう。
これで良しと小さくうなずけば、外からかすかに笑う気配がした。
ミーティアは拗ねたように軽く頬を膨らませる。
イグナートやイーゴリからしたらちゃちな魔術魔法だということはわかっているのだ。それでも何度も試行錯誤を繰り返しながら実行していかなければ身にはならないと教えてくれたのはアキームだった。
あとはもう勢いよく服を脱ぎ去って手早く体を洗うことに努めたミーティアだった。
湯船から上がったミーティアは微熱風を使って体や髪に残る水気を飛ばして瞬く間に乾かした。これはコローメンスコエにいる間に習得していたが、こんなところに来ることになった今となっては練習していてよかったとつくづく思った。
ここでは寝間着は白のワンピースではない。そもそも寝間着自体が無くいつでも動けるようにチュニックとパンツを着たまま寝ることになっている。もっとも人によってはチュニックくらいは脱ぐことはあるらしいが。
着ていた服をまとめて抱えて、忘れ物がないかどうか確認してからミーティアは魔術魔法でかけていた扉への鍵をすべて外した。
外に出ればイグナートとイーゴリに笑顔を向けられる。
「早かったな。今日はもうこのまま部屋で寝ていいぞ。鍵は今みたいにちゃんとかけとけよ」
「ティアさん、おやすみ」
「はい、それじゃお先に失礼します。おやすみなさい」
部屋に戻ったミーティアは言われたとおりに扉にとりつけられている物理的な鍵をかけてから、浴室でおこなったように魔術魔法での鍵もかける。そのうえで部屋の中をチェックして仕掛けられているものがないか、なくなっているものがないかを確認した。
なくなっていたものは無かったが、仕掛けられているというより置かれていたものが一つ。それはテーブルの上に置かれた一枚のメモだった。
見ればそこには日の入りから翌日の日の入りまでを一日とした正教会式の区切りによるミーティアの作業予定が書かれていた。正確に言えばそのメモには全員分が書かれており、誰と組んでなにをし、そのあいだほかの者がなにを担当しているのかといった全体的な流れが一目瞭然となっていた。
自らがおこなう作業がのちにどんな流れで人に受け継がれていくのか。自分のところで作業が滞ればどこへどんなふうに影響を及ぼすのかを理解するにはじゅうぶんなものだった。
(ここも私を甘やかす気はないみたいね)
あたりまえのことだがミーティアはふとそんなことを思った。
『遅れなければいいのです』
『あなたに与えられた使命をつつがなくお勤めになられればよろしいのです』
クレメンティーナの言葉を思い出す。
そしてアキームから教えられたことを。
もうミーティアにとって風は存在があやふやで不確かな存在ではなく、己を包み込んで守ってくれる頼もしい存在になっている。
ミーティアはもう一度メモを見返して全員の予定を把握すると寝台へ横になった。
夜明けからまた新たな日々が始まる。
そんなことを思いながら眠りについたミーティアを起こしたのは夜明けではなく強烈な衝撃音と雄叫びだった。
「なに?」
飛び起きながらざっと気配を探ったミーティアは屋敷の外になにかがいることをつかんだ。
「クマ……?」
さらに屋敷に突進を仕掛けてきた衝撃が音と振動で伝わってくる。ミーティアは素早く起き上がると扉に向かうあいだに魔術魔法でかけた鍵を外してたどり着いた部屋の扉の鍵も素早く解除してから廊下へ出た。
ざっと左右を見渡したミーティアは外へ通じる扉へ手をかけていたイグナートを見つけた。
「イーグさん!」
ミーティアの呼びかけに応えて振り向いたイグナートは、二階に上がってイーゴリを手伝えと叫んだ。
「わかりました」
急いで二階に上がればイーゴリが二階の窓から外の様子を見ていた。ほかにも二人が違う場所の窓から外の様子を窺っている。
「ティアさんこっち」
周囲を見回して状況を見極めようとしていたミーティアをイーゴリが呼ぶ。
「はい、今いきます」
イーゴリの横に並んで窓からそっと下を覗けば一頭のクマがうろうろしていた。
さらに新たな衝撃音が別のところから聞こえる。
「二頭?」
「そういうこと。二頭同時ってのは珍しいけど、そろそろ交尾期も終わりに近づいてきているからなー。焦ったオスが二頭、ティアさんの気配をメスと勘違いしてやってきたって感じだな」
「は? あの……私は人間ですが……」
「わかってるわかってる。通常はそういうことは本能でわかるはずなんだがまれに正常な判断ができなくなる個体が現れるんだよ。あいつらもそんな感じなんだろう」
イーゴリとしては冗談のつもりなのだろうが、ミーティアとしてはいたたまれない。ミーティアがいるから襲ってきたと言われているようなものだからだ。
そうしたミーティアの心情に気づいたらしいイーゴリが慌てて手を振る。
「あ、そういう意味じゃないぞ。ただ状況から判断した結論をいったんであって……あ」
ますます墓穴を掘る発言をしていたことに気づいたイーゴリが間抜け面をさらして固まった。
ミーティアは思わず苦笑した。
「気にしなくてもいいですよ。実際タイミング的にそう思われても仕方がありませんし」
そういったところで玄関前にいるイグナートから合図があった。
「ああ、準備ができたようだ。ティアさん次にイーグが合図を送ってきたら玄関を中心に半径二サージェン――ああっと、半径四メートルの位置に半円の風の盾を張ってくれるか?」
「わかりました。玄関を起点に半径四メートルの半円状の盾ですね」
「ああそうだ。頼んだぞ」
「はい」
イグナートもイーゴリもできるかとは聞かなかった。昨夜の浴室の一件でミーティアが風を使ったところを実際に見ていたわけだし、そもそも修道士の誰か、もしくは座下の誰かからミーティアがアキームに指導を受けていたことくらいは聞いていたはずである。
ミーティアは意識を集中してあらためて窓から外の状況を見下ろした。
うろうろしながら徐々にクマは玄関前から逸れ始めている。クマが玄関から距離をとったところでイグナートともう一人の修道士が外に出るつもりらしい。であればミーティアがすることは彼ら二人が外に出て玄関扉を閉めてから攻撃態勢を整える間クマが襲い掛からないように風の盾を維持していればいいということになる。
イグナートはクマの気配を読みつつも、イーゴリからの正確な距離の知らせを受けてタイミングを計っているようだった。
クマが屋敷から半径五メートルほどの距離を開けて後ろを向いた瞬間、イグナートから合図があった。
「よしっ今だっ」
合図を送ると同時にイグナートは扉を開けた。命がかかっている場面で、会って間もないミーティアを信じてくれているようだ。
躊躇いなど一切感じさせないまま飛び出していく二人。
音に驚いたクマが動きを止めているあいだに二人は攻撃態勢を整え終えた。
雄叫びをあげてクマが立ち上がる。
「消して」
イーゴリから風の盾を消すように言われてミーティアが瞬時にほどいた時にはイグナートはすでにクマに向かって走り出していた。
このわずかな時間に起きたことをミーティアはずっと忘れることはないだろう。




