32.神に誓って
ミーティアたちは二手に分かれて迎えの馬車に乗り込んだ。
イグナートが御者を務める馬車のほうが荷物を多く積んでいるのでミーティアが乗り込み、少ない荷のほうの馬車にフラーブルイたちが乗り込んだ。
馬車の中で外の景色を眺めながら、この分乗はわざとだろうと考えていた。
ミーティアたちが森の屋敷に行くことになったのは、そもそもフラーブルイの誤解と失言が原因だ。仲介なしに一緒の馬車に乗せてはなにが起こるかわからないという理由からだと思われた。
もしかしたらこの荷も『用事』が原因ではなく、森を出発する最初から載せていたものかもしれない。すべて箱に入れられているので中になにがはいっているのかわからない。わからないからこそ空かもしれないのだ。もっともそれを確認したところでどうなるものでもないので一応は彼らの言を信じる形になっている。なにもなければそれでいいだろう。ミーティアはそんな風に考えていた。
馬車はミーティアがコローメンスコエに来たばかりのころに高台から眺めた北の森の中を走っていく。
森は成長の早いトーポリに覆い尽くされているように思えてそのじつまだ若木とはいえそれ以外のモミやトウヒといった常緑針葉樹を中心とした木々もちらほら目にすることができる。
これはイグナートたちのように森の中での使命を授かった者たちの成果だった。彼らが森を再生させて、森の恩恵にあずかる動物たちを招きよせ、またそれらの動物を狩ることによって必要な栄養素を得るために食すのだ。
アムールヒョウにアムールトラ。クズリにアカギツネ。そしてヒグマなどといった凶暴な動物が多い森。だからこそイグナートたちのようながっしりとした体格と武術をあわせもつ者たちが選ばれていた。
もともとロシアでは森林の開拓に修道院が深くかかわっていた。何人もの修道士が人里離れた森の中に庵を作って住み始めるとその周囲に開拓者たちも居を構え始め、そうして徐々に野生の森を人の支配下へとしていったのだ。
もちろんそれはほんの一部でしか実現しなかったが、今でもその風習は残っている。
だからこそこうして神災を経て様変わりしてしまった森を再び生き返らせると同時にもう一度自分たちの支配下に置こうとイグナートたちが奮闘しているのだ。
やがて見えてきた一棟の屋敷。
屋敷とはいっても、ロシアでは寒さ対策から小振りの家が多いのでどちらかといえば大きな部類に入るという程度のものだった。しかしもともと少人数しかいないにもかかわらず人数の割には大きすぎるともいえた。
屋敷はロシア伝統の木造建築であるヴェネッツと呼ばれる工法を使って作られている。基本の工法はプロエーズナヤ門と同じで丸太を水平に組み上げて作った長方形の平面が壁になる。丸太の接合部はホゾを使い、隙間は苔を詰めて塞いで寒さをしのぐ。
「こちらには何人住んでいるんですか?」
ようやく馬車から降りることができたミーティアは屋敷を見上げながらイグナートへ尋ねた。
「今までは六人だな。ティアさんたちが増えるから今日から十人になる」
「その割には大きいですね」
「ああ、それはクマに襲われないように頑丈に作ってあるからだよ」
クマがその爪と巨体でもって襲い掛かってきたらさすがに長い時間は持たない。外壁を二重にしてさらにわずかな隙間をとって内壁を作る。この隙間は防寒の役目も果たしている。
「だから屋敷の中はそれほど広くはない。一応二十人までは生活できるように個室や設備は整っているけどな」
ここへきてようやくミーティアは「あれ」と思った。
「イーグさん、なんだか口調が変わっていませんか?」
イグナートはにやりと笑った。
「上が煩いからな。あっちにいる間だけおとなしくしてるってわけ。こっちが本性。まあこんなだから俺たちは森に追いやられているわけだが、俺たちも森での暮らしのほうが性に合ってるから問題なしというわけだ。そんなわけだからよろしくな」
「はあ……」
そんなわけと言われてもどうすればいいのやら。
「ああ、ちなみに女性はティアさん一人だけだから」
「……え?」
「とはいえトイレは各部屋に完備してあるし、風呂はまあこれからどうするか考えるから安心してくれ」
「ええ!?」
そんなことを言われてどう安心すればいいのか。
しかしここでそんなことを言っていても仕方がないので、まずは部屋へと案内してもらうことになった。
「ここがティアさんの部屋だ。周りは俺たちが囲んでいる。あの三人は向こうの隅に集めているから、俺たちの部屋の前を通らないとこの部屋には来れないようになっている。その点は安心してくれ」
「あなたたちが安全だという保障にはならないと思うんですが……」
気を使ってもらっていながらこういうことを言うのは申し訳ないと思いながらもやはり聞いておきたかった。
「俺たちは全員ヴォル殿のことを知っている。彼のものに手を出せばどういうことになるかも知っている」
このときばかりはイグナートは真剣な表情をした。そしてミーティアの薬指を指し示す。
「そんな指輪を渡すほどの相手に失礼なことは神に誓ってしない」
「そんな指輪? 結婚指輪のこと?」
「……知らないのか?」
「え? なにを?」
イグナートはスクフィヤを脱ぐとがしがしと頭を掻き毟った。大きく息を吐き出して巨体を丸めるようにして脱力した。
ちらりとミーティアを見やり、また盛大に息を吐き出す。
「あの……?」
この態度はいったいなんなのだろう。もしやとても恥ずかしいものを嵌めさせられているのだろうか。そっと指輪を隠すように手を組んだミーティアを見て、イグナートは腹を決めたようだ。体を起こしてスクフィヤを被りなおした。
「通常、正教会では離婚は認められている。神に生涯をささげることを誓った時に婚姻を結んでいればこれを解消して修道士修道女になることは当然なことだとされているからだ」
だが、と言いながらイグナートはミーティアの指輪を指差した。
「その指輪をはめた夫婦は永遠にわかれることができない。一方が亡くなったとしても解消は認められない。だからその生において二度とほかの誰とも……もちろん相手が神であったとしても再婚することはできない」
「婚姻を解消できない……?」
イグナートは重々しくうなずいた。
形になりきれない数多の感情が渦を巻いて、それ以上は言葉にならない。
イグナートはそんなミーティアの瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「ヴォル殿ほどの男がそこまでした相手だ。俺たちはなにがあってもティアさんに無体を働くようなことはしないし、ティアさんを預かるからにはその身の安全は全霊をかけて守ると誓う」
ここまで言うということは。ふと思ったことをミーティアは口にしてみた。
「ねえイーグさん。もしかしてヴォルの禁句を口に」
「わぁぁぁぁぁ」
イグナートは瞬時に顔を蒼褪めさせて慌ててミーティアの口を掌で塞いできた。その手は微妙に震えている。そのうえで部屋の中をきょろきょろと見まわした。
禁句の内容を口にしたわけでもなく、当人がここにいるわけでもない。にもかかわらずこの怯えよう。ここまでの大男をこれほどまでに怯えさせるとは。
(ヴォル……、あなたいったいなにをしたのよ)
ミーティアは内心でため息をつきつつ、未だ彼女の口を塞ぐイグナートの掌を軽く叩いた。
「あ、ああ、すまない」
我に返ってホールドアップするように両手をあげるイグナート。
ミーティアは乾いた笑いをもらした。
「相当な目に合われたようですね」
身に覚えがあることだったので心から同情してそういえば、イグナートは目を瞠った。
「あいつはそんな指輪を渡す相手にさえあんな非道なことをーッ!?」
「ええ、まあ……」
イグナート自身はいったいどんな目にあわされたのかわからないが、ミーティアもたしかにひどい目にあったといえばあっているのだからけっして間違いではない。だからあいまいにうなずいておいた。
「そうか……、ティアさんもか……」
ただそのひどく憐れむような視線はやめてほしいとミーティアは切実に思った。




