30.精霊の使役
一番身近にいるもの。
この地球を包み込み生命の営みを助けるもの。存在。それが。
「風……」
胸のあたりまで持ち上げた手を、目の前の空間を煽ぐようにそっと左右に動かした。
止まっていた空気が動いて風が生まれる。いや、常に風は吹いていた。ミーティアが気づかなかっただけで。そうでなければすぐに空気は濁ってしまうだろう。大きな流れの中で時に強く時に弱く吹き続けているからこそ呼吸もできるのだ。
もう一度さきほどと同じように手首を起点にして手を振る。強弱をつけて何度も煽ぐように手を振った。
ふとした思いつきで、ミーティアは目の前の空気を外へ払うように手を振ると同時に払われた空気の塊が渦を巻いて小さな竜巻へと変化する様子を頭の中で描いた。払った空気を追うように視線を向けると思った通りの竜巻が生まれていた。
ミーティアがもういいと思っただけで、その竜巻は消えて通常の風になる。
ミーティアは考える。
言葉にして声で伝えるよりも、脳内で状況を思い浮かべたほうがやってほしいことを伝えやすいし精霊たちにもわかりやすいようだった。
木の板と薪に視線を向けたミーティアは、木の板の前に空気の塊が留まって壁になり風の刃から板を守る役目をしている様子を想像した。瞬時に目の前に展開されたことに気をよくしたミーティアは次のステップへと進む。
薪のカットだ。
今度も鋭い刃となった風が、薪の地上から指一本分くらいの高さをスパッと切る様子を脳内で思い描くとそのとおりに風が動いてくれたようだ。
アキームの時と同じように手に取って確認したらきちんと切れていた。
喜んでアキームを振り返れば彼も笑みを浮かべていた。
「できたわ」
「良かったですね。あとは対象物を替えてみたり状況を変えてみたりしながら風との親睦を深めていけば細かい指示を出さなくとも流れの雰囲気である程度伝わるようになります」
それはぜひなってみたいものだとミーティアは思った。
今度は横に置いた薪で高さや角度を変えながら何度か試し切りをしていたところで時間切れとなった。続きはまた明日の夜ということになった。
「練習に使えそうなものをいくつか用意しておきますよ」
「ありがとうございます。助かります」
ミーティアはそうお礼を述べてから部屋へと帰っていった。
戻ってすぐに入浴の順番が回ってきたので、ミーティアは大急ぎで準備を整えて浴場へと向かった。
入浴を済ませてあらためて部屋へと戻ってきたミーティアは、もう少し部屋の中ででもできそうな魔術魔法を試してみることにした。
なにか軽いものからと考えてながらタオルで水気を取っていた髪を、ミーティアはふと見つめた。
これが一瞬で乾けば楽になるのに。たとえば風が吹いて水分を飛ばしてくれるとか。
髪を一瞬で乾かすためにはどのようにすればいいのかと最適な方法を模索していたところ、風がうごめいてミーティアの髪に絡みつきながら余分な水分を吹き飛ばしていった。
風に吹き飛ばされた水分が部屋の床を濡らす。
ミーティアは思いっきり顔をしかめた。そして今度からは外で乾かすようにしようと心に誓ったのだった。
濡れた床を布で拭き取って乾かしてから、ミーティアはこれは水を使役すればよかったのではないかと思いつく。しかしすでに時遅しで、実験は明日以降に持ち越された。
そうして少しずつ身の回りのことを色々な精霊たちに使役させることを覚えていったミーティアだった。
アキームとの練習もミーティアの成長ぶりに合わせて少しずつ難易度が上がってくる。しかも通常作業中も誰かしらがいきなり通りすがりに課題を出してくることも増えた。
ここまできたらさすがのミーティアも気がついた。これは地下室でヴォルケイノーが総主教であるムスティスラフへ言っていたことなのだと。ヴォルケイノーはミーティアへ魔法魔術と武術を鍛えて欲しいと頼んでいたのだ。
とはいえ今のところ教わっているのは魔法魔術だけではあったが。
そんな日々が繰り返されてひと月ほどたったころ、めずらしくミーティアは食堂でフラーブルイたちと鉢合わせた。しかも彼らのすぐ後ろに並ぶ形で。下手に避ければ人の目を引くと初日にクレメンティーナに教わっていたミーティアはできるだけ平静を装って気にしていないふりをした。薪運びの時のように仕事中もこうやって近くで同じ作業をしたことはある。その時のことを思い出しながらただいつものように食事を受け取って席についた。
すでに着席した者たちは適当に雑談しているので話しかけてはいけないわけではない。しかしあろうことかフラーブルイは正教徒たちの本拠地で口にしてはいけないことをミーティアに囁いてきた。
「おまえいつも晩堂課の時は部屋にいないようだがどこへ行ってるんだ? やはり魔であるおまえにはこの教会で生活することは苦痛なんじゃないのか?」
「あなたなにを言って……」
よもや未だにミーティアを魔だと思い込んでいるとは考えにも及ばなかった。
ほんの小さな囁きだったにもかかわらず「魔」という言葉はこの食堂内に波紋をもたらした。
フラーブルイと席が近かったものたちには聞こえてしまったようで、彼らはぎょっとしたような顔を向けてきた。やがて何事かといぶかった者たちへ彼らが説明をすると、それが次から次へと伝わっていき、どんどん食堂内全体へと広がっていった。
誰かが連絡でもしたのだろうか。一人の主教がミーティアたちのところへやってきた。
「フラーブルイさん、ティアさん、お二人は今すぐこちらへ来てください」
ミーティアは予想していたことだったのであきらめて即座に立ち上がって出口へと向かう。ヴォルケイノーとの茶番は今回は役には立たなかったようだ。しかしフラーブルイはなにが起きているのかわかっていないようだった。
「まだ食べていませんけど」
けれど主教はただ一言「今すぐこちらへ」と繰り返しただけだった。
静まり返っている食堂の様子にようやく気づいたフラーブルイは、ミチオールとインツーに「ちょっと言ってくるわ」といってやっとこさ重い腰をあげた。
主教の案内で応接室へと通されたミーティアとフラーブルイの二人は言われるまま来客用のソファーへ腰かけた。
主教自身も彼らに対面する場所に腰をかけてから口を開いた。
「ところでティアさんが魔だという話が広がっているようですが、一体全体どうしてそういうことになっているのか聞かせてもらえますか」
最初に答えたのはフラーブルイだった。
「だってこいつ、魔でしょ?」
フラーブルイがミーティアを指差しながら言った。なんて失礼な奴だろう。ミーティアは眉をひそめた。
「違います」
主教がミーティアのほうを向いたので、すかさずそう答えていた。主教は小さくうなずく。
「ティアさんが魔ではないということはわかっています」
最初に主教の口からそのような言葉が出てきてミーティアは安堵した。
しかしそれだけで済むくらいならフラーブルイだけに注意をすればよかった話で、二人共を呼び出す必要はなかったのだ。
「しかしそもそもほとんどの者は部外者の滞在には反対でした。聖下のお言葉と状況から冬まではということで大目に見てきましたが、このような騒ぎを起こされてしまってはこのままコローメンスコエに置いておくことはできません。あなたがた四人には本日より別の場所へ移動していただきます」
四人というのはミーティアとフラーブルイ、そして食堂に残っているミチオールとインツーのことだ。
「別の場所とは?」
ミーティアはヴォルケイノーと約束している。とりあえず公式には夫であるヴォルケイノーが冬に迎えに来るまで妻のミーティアは教会であずかるということになっていたのだ。そのために聖下や座下に挨拶に回ったのだし、婚配機密すらおこなったのだ。
さらに肝心の聖下しか知らない真実の部分においては、冬になって北氷洋が凍るのを待ってから北磁極へと案内してもらうことになっているのだ。ほかの場所へと移されては困る。
そう思って尋ねたのだが、主教の答えはコローメンスコエからわずかに北上した森の中だということだった。
「そこには一棟の屋敷があります。一応その屋敷も選ばれし正教徒たちが寝泊まりしている屋敷ですのでもちろんここの管轄ですが、森で仕事をおこなう使命を授かった者たちばかりのため少人数しかいません。このままここにいるよりは混乱は少ないでしょう」
ミーティアは小さく息を吐き出した。これはもう決定事項なのだ。
「わかりました。お世話になった人たちに挨拶に行きたいのですが構いませんか?」
横ではフラーブルイがなにやら言いたそうにしていたが、もともと彼の不用意な発言が原因だ。放置して話を進める。
「そうですね。ちょうど今は昼時で作業も休みですし、そのあいだだけでしたら許可しましょう」
午後の作業が始まる時間までには部屋に戻って荷物をまとめるように主教が言う。その頃に部屋に迎えを寄越すということだった。




