3.謎の少年との出会い
「誰っ?」
ミーティアは弾かれたように斜め後ろに顔を向けた。
そこから少しずつ視線を上げていくとやがてサトウカエデの枝に立っている一人の少年の姿を捉えた。
ミーティアと同じくらいの年と思われるその少年はこの辺では珍しい銀髪だった。
上下共にくすんだ緑色のロシアの男性用民族衣装――ルバシカ風の軍服にも見えるが、前開きは途中までしか開いていないルバシカとは違って完全に左右に分かれており、腰に巻かれたベルトの辺りまでは隠しボタンで留められるようになっている。また裾もやや長めで膝上まであるが、その分左右にスリットを入れることで動きやすさを確保しているようだった。そうした相異は多少あるものの、立襟、前立て、袖口に施された刺繍が余計にルバシカとの類似をにおわせた。
ミリタリーカーゴパンツの裾はブーツの中に入れられている。とはいえブーツは長靴ではなくこちらも実用性重視なのか黒い編上げの半長靴を履いていた。
防寒用と思われる黒のトレンチコートを羽織っているのだが、袖は左腕しか通されておらず、黒い皮手袋を嵌めた右手はベルトに下げられた長剣の柄に当たり前のように添えられている様子からして荒事に慣れた兵なのだろう。
前髪の間から覗く天青石またはセレスタイトと呼ばれる宝石のように晴れた空の色のようなまた澄んだ水の色のようなそんな淡青色の瞳が楽しげに輝きながらまっすぐミーティアに向けられていた。
「あなた、誰? 独り? そんなところで何をしているの?」
半ば条件反射のようにミーティアはそう訊ねていた。
その様子が少年の何かしらを刺激したようだ。思わずといった感じで吹きだすと、くるりと背を向け幹に凭れ掛かるようにして肩を震わせ始めた。
突然笑われたミーティアとしては当たり前のことだがいい気分ではない。少年を睨みつけながら口を尖らせた。
「なに笑ってるのよ。失礼よっ」
少年のほうはと言えばミーティアとは逆に声を上げていっそう笑った。
なにやら途切れ途切れに言葉を発してもいる。
かろうじて聞き取れた言葉から推測すれば、
『武器の所持と使用を示唆している相手に対して、まるで迷子でも保護したかのようなせりふを吐くヤツがいるなんて……。しかもすべて通り一遍の紋切り型で中身も個性もなさ過ぎる』
と言っているようだった。
(通り一遍とか紋切り型だなんて、あんたいったい年は幾つよ。そっちは爺むさいくせして人のことどうこう言わないで欲しいわっ)
ミーティアは眉を吊り上げた。感情的になって考えなしに剣へと腕を伸ばす。その手が剣の柄に触れた瞬間、指先から電気が走ったような痺れが伝わり、次いでその後を追うように鳥肌が立った。
わずかな痛みと驚きから小さく悲鳴を上げたミーティアは反射的に胸元に引き寄せた腕をもう一方の手で抱えた。
自身に突然降りかかった状況の把握ができずミーティアは意識が混濁したまま顔を上げた。
見上げた先には少年の瞳があった。
いつの間に笑いを収めたのか。肩越しに振り返った少年の瞳からはつい先ほどまでの楽しげな雰囲気は一掃されていた。
淡青という色のイメージもあってか少年の眇められた瞳からは氷のような痛みの伴う冷たさや硬さといったような鬼気がひしひしと身に迫ってきた。
ミーティアは得体の知れない恐怖を感じて無意識に体を震わせた。
そんなミーティアから一切視線を外さないまま向き合うように体を反転させた少年は軽やかに枝から飛び降りた。その様はミーティアが思わず羨望の眼差しで見つめてしまったほどに優雅だった。
地面に降り立った少年はゆっくりとミーティアの側へと歩み寄ってきた。
ミーティアのすぐ目の前で立ち止まった少年は剣に添えられた右手はそのままに、空いた左手でミーティアの首に触れてきた。
黒い皮手袋を嵌めたままの左手はまるで今の少年の眼差しと合わせたようにとても冷ややかだった。
指の背で緩やかに何度も上下に撫でられ、そのたびに背筋に悪寒が走る。
恐怖から無条件で屈服しそうになる。
それでもなんとなくここで逃げてはいけないような気がしてミーティアは必死で膝に力を入れた。
そんなミーティアを頭一つ分上から見下ろしていた少年はくつりと嗤った。
「扱えもしない剣を抜こうとするな。相手が俺でなければ殺されていたかもしれないぞ。ましてやお前は女だろう。我が身が可愛ければ下手に相手を刺激するような真似はしないことだ」
女であることと剣とがどう関係あるのだろうか。そう思って内心首をかしげたミーティアだったが、隠したつもりの疑問はしっかりと少年に伝わっていたようだった。
あきれたように大げさなほどのため息をこぼした彼は、おもむろにミーティアの両手首を掴んで頭上に持ち上げ、サトウカエデの幹に押し付けるようにして片手で拘束した。
「ちょっ、離してっ」
微かに震える声で訴えてみたがあっさりと無視された。それだけでなく首筋をきつく吸われて胸を撫で上げられた。
痛みと羞恥の悲鳴を上げたミーティアの瞳を覗き込むようにして少年が顔を寄せる。
「わかったか?」
馬鹿にされているようでミーティアがつい反抗的に口を尖らせてしまうと、少年は凶悪な笑みを浮かべるようにして口角を持ち上げた。
その笑みを正面から見てしまったミーティアは顔を引き攣らせると、わかりましたとうなずくように首を何度も縦に振った。
「まったく、現金なヤツだな……」
疲れたようにそう呟きながらもあっさりと掴んでいたミーティアの手首を開放して体を離した少年は、そう悪いやつではなさそうだった。あくまでもミーティア視点での話だが。
気が抜けて根元に座り込んでしまったミーティアを一瞥した少年は、聞こえてきたカラスの鳴き声に応えるようにそちらへ顔を向けた。
「ようやく来たか」
待ち人来たりといった感じだ。
幹に背を預けたままのミーティアが少年を見上げていると、視線を感じたのか顔を向けてきた。
「話の最初に戻るが、その樹液を煮詰める設備のある場所の提供とそこへ運ぶための労力を提供するから駄賃代わりに出来上がったメープルシロップを三分の一ほど分けてくれないか?」
それは非常に助かるのだが。
「その場所ってどんなところなの? この近くにはシュガーシャックはなさそうなんだけど……」
一番の問題点を確認してみると、そんなことかとあっさり答えが返ってきた。
「ああ、シュガーシャックはないが少し離れた所に知り合いの鍛冶屋がある。元々そこへ行くつもりだったし、そこなら火を熾す道具は揃っているから十分代用できるだろう?」
同意を求められたがミーティアはそれどころではなかった。
「え? 鍛冶屋? 鍛冶屋だったらこの剣を直せる? これ、剣なのにあまり切れないのよ」
ミーティアが指差した先にはさきほど彼女が抜こうとした剣があった。
「お前がそこの枝に食い込ませていた剣だな……」
「ど、どうしてそのことを知っているのよ?」
あんな恥ずかしいところを見られていたのかとミーティアは赤面しながら少しだけ俯いた。
「俺はお前がここに来る前からあの木に登っていたからな。錯覚だったと早々に片付けていたがあの時の視線の主は俺だったわけだ」
そんなことよりも、と少年は疲れたようにため息をこぼした。
「お前は本当に剣の使い方を知らないんだな。――お前が持っているその剣はレイピアだ。レイピアってのは突き刺すための剣であって切るための剣じゃない。全く切れないわけじゃないが、下手をすると折れたり曲がったりする。あんなふうに乱暴に扱ってて今までよく折れなかったものだな……」
「……」
「何でそんな化石みたいな剣を持っていたのか知らないが、ちょうどいい機会だ。鍛冶屋に行ったついでに自分にあった剣を打ってもらえ。鍛冶の腕は保障する。これからも旅をするつもりならなおさらきちんと身を守れる剣を持て」
「それって……、全部ひっくるめてメープルシロップ半分で足りる? それとももっと必要?」
「メープルシロップ半分とレイピアってところかな。そのレイピアだって金属なんだから溶かせば再利用できる。そういう意味での価値はある」
ミーティアはほんの少し考え込んだが、すぐによろしくお願いしますと頭を下げた。