29.風の刃
ミーティアが芝刈りを始めて三日目。ずいぶん作業に慣れはしたが今回はちょうど建物と接しているところがあるので、そこの部分は芝刈り鋏を使って際刈りをおこなう必要があった。
見栄えを良くするためには短めに刈る必要があったが、そうすると堅い茎の部分を鋏で刈っていかないといけないため、かなりの力を要した。
ミーティアは息を吐き出して一度作業を中断した。
「これ思ったよりも力を使うわね」
しみじみとつぶやきながら背後を振り返る。それでも何とか半分は超えたようだ。もう一度息を吐き出して続きに取りかかろうとしたところで通りすがりの修道士から声がかかった。
「風は使えないの? 風の刃で刈ると楽で早いよ」
どういうことだろうか。
だがミーティアが尋ねる前に、その修道士は軽く手をあげて立ち去ってしまった。
「風の刃で……刈る?」
風はミーティアが苦手としている分野だ。まだ風自体をうまく把握できない。それなのに刃を生み出させて、そのうえそれで芝だけを刈らせるとは。
「いったいどうやって?」
首をかしげるミーティアに風が絡みついてくる。すっと手を伸ばせば風はミーティアの手を伝って吹き抜けていった。その風を見送りふと我に返った。
「とりあえず刈らなきゃ」
考えるのは夜にでも時間を作っておこなうことにして、今はまず与えられた作業を時間内にこなすことに集中した。
「終わったー……」
芝生の上に座り込みながらミーティアはほうっと息を吐き出して脱力した。
もう手の力を使い果たした気がする。微妙にしびれてうまくものが持てない。
しかし刈り取った芝をレーキで集めてアキームの小屋まで持っていかなくてはならない。
ミーティアは膝を手で押すようにしながらなんとか立ち上がった。
「こういう刈り取った芝とかを風が集めてくれると楽なんだけどね」
くすりと笑みを漏らしながら刈り取った芝を見やれば、ミーティアの足元で風が渦巻き始めた。やがていくつかの小さな竜巻が出来上がるとミーティアが今日作業をおこなった範囲を順繰りに移動していき、刈り取った芝を集め始めた。
思わず目を丸くするミーティア。
「集めて……くれているの?」
呆然としたままつぶやけば、肯定するように風がミーティアの頬を撫でてベールをはためかせるようにしながら吹き抜けていった。
竜巻が巻き上げながら集めた刈ったり枯れたりした芝を次々と専用の麻袋の中へ落としていく。そしてあっというまに後片づけが終わった。
ミーティアは思わず笑みこぼれた。
「風のみんな、ありがとう」
いまだ姿は捉えられないが、なんとなく気配は感じられるようになってきた。
ふと唇に指先をあてる。
「ヴォルの血のせい……?」
これまでと違うことといえばそれくらいしかない。
「魔力の解放と言っていたし」
ふと思いつきで疲れが感じられる肘から指先までをゆっくりとさすってみる。肘から下膊、手首、手の甲、指先といったふうに順番にゆっくりと撫でさすりながら筋肉の緊張がほぐれて疲労物質である乳酸が流れていくように念じる。腕が軽くなったように感じられたらもう一つの腕も同じように撫でた。
両腕に試し終えたミーティアは指を握ったり開いたりする。
「痛みも疲労もしびれも取れて力がはいるようになったわ。これでよかったみたいね」
うまくいったことにひとしきり喜んだミーティアは、太陽の位置を確認してから荷物をまとめ始めた。
今日の芝刈り担当者はミーティア一人。一人ではなにもできないのだと思われてはいけない。幸いにして風が手伝ってくれたおかげでかなり時間が短縮できた。もっとも腕の疲労を回復させたり、そのことがうまくいって喜んだりしていたため、そう余裕があるわけでもなかったが。
リヤカーに今日使った道具と刈った芝がはいっている麻袋を積む。麻袋は重かったが、風に手伝ってもらいながら持ち上げたのでなんとかなった。
「ありがとう」
もう一度風にお礼を言ってミーティアはアキームの小屋まで戻っていった。
庭師小屋まで戻ったミーティアは風を使役する練習に使いたいからと薪を二本もらった。その日の仕事がすべて終わってから取りに来ると告げて端のほうの邪魔にならないところに置かせてもらう。
そうしてあらためて薪を引き取りに来てみればアキームはまだ小屋にいた。
「まだ作業が残っているんですか?」
こんな遅い時間にアキームにどんな仕事があるのかと思いながら問えば、ミーティアを待っていたということだった。
ミーティアは慌てて一礼する。
「え? そうなんですか。すみません、キムさんのお手を煩わせてしまって……」
「いやなに構いませんよ。それよりも部屋に薪を持ち帰って練習するよりは、今ここで試されたほうがよくはないですか?」
「それはそうなんですが、私は奉神礼というか晩堂課がおこなわれているあいだは部屋から出ないように言われていますのですぐに戻らないと」
「そのことでしたら聖下と座下に許可を得ていますので大丈夫ですよ。晩堂課がおこなわれているあいだ私と共にこの小屋の前にいれば不問にするというお言葉をいただいております」
「でもそれだとキムさんが晩堂課に出席できなくなるんじゃ……?」
「代わりに晩課に参加することになっておりますし、そもそも奉神礼には公祈祷と私祈祷があります。私祈祷とは各自が私室で祈祷をおこなう奉神礼のことですが、それをおこなえばいいだけのことです。私は庭師であり一般の正教徒ですからそうした融通は利きやすいのです」
正教徒でないためいまいち状況の把握ができていないミーティアに対してアキームは丁寧に教えた。
そもそもこれだけ大所帯だと全員は聖堂に入れないため、一般の正教徒のほとんどが私祈祷だという。アキームはたまたまこのロシア正教会があるコローメンスコエの要であるボズネセーニエ教会を中心とした周辺一帯の庭師を務めているから公祈祷に出席できるだけで、本来であれば公祈祷とは修道士修道女以上のものだけが参加できることになっている。
「私のほかにもこの芝生に囲まれた敷地内でおこなう必要がある使命を授けられたものは公祈祷に参加許可を与えられておりますが、さほど多くはありません」
それほどまでの高待遇を辞退して問題はないのかと心配になったがアキームはいっかな気にしたそぶりを見せなかった。
ミーティアがいなくなればまた戻れるとわかっているからか。むしろこれも滅多にない機会だとして歓迎している様子さえうかがえた。神に与えらた使命と受け取っているのかもしれない。
本人がそういうつもりならそれはそれでなにもいうことはない。
ミーティアはその申し入れをありがたく受け取った。
「それでは始めましょうか」
そう言ってアキームが薪と木の板を小屋の壁際へ置いた。
「この木の板が建物の壁面と思ってください。こちらには傷をつけないように。そしてこの手前の薪が雑草です。際刈りをおこなう要領でいきますと、壁が傷つかないように最初に壁と目標物のあいだに風の膜を張り、それからこの薪だけを芝に見立てて下の土が見えるほどの長さに風を使ってカットしてみてください」
あっさりと言い切るアキーム。
目をしばたきながら見返すミーティアにアキームはさらに勧めた。
「さあどうぞ」
掌を使って促される。
ミーティアはとりあえず風に膜を張ってもらえるようにお願いしてみることにした。
「風の刃から木の板を守れるくらいの膜を張ってもらえる?」
さわさわと風が不規則に流れ始める。
やがて木の板と薪のあいだを風が絶えず流れ始めて膜のようになった。
それを見ていたアキームが口をはさんだ。
「ティアさん。すべてを言葉にして声に出していては時間がかかりすぎますし、ほかの者にこれからおこなおうとしている魔術魔法が全部知られてしまいますよ」
「私、風のように姿が見えない存在は苦手でどうしていいのかわからないんです。もともとほかのモノへもこうやってお願いしていたので同じように試してみたんですけど……」
徐々に声が小さくなっていって顔も俯く。
ミーティアはただ『お願いして聞いてもらう』という方法しか知らなかった。
アキームは一言唸るような声を出すと、見本を見せましょうと言って自身が置いた薪を一瞥した。それだけで薪の下から指一本分の高さのところでスパッと二つに切り裂かれた。ミーティアが今日芝生の際刈りで刈った高さだ。
一見なんの変化もないが、アキームに促されたミーティアが手に取って持ち上げたところでようやく二つに分かれていたことがわかるほどに鋭い切れ味だった。
風の刃とは本当にすごいものだと感心しながらミーティアは薪の断面を矯めつ眇めつ眺める。
「ティアさんはまずは風の気配を掴むことが先のようですね。風はいつも自身の周りにおります。空気そのものを風と呼んでいるのです。どこかにあるものを探すのではなく、いつも一番身近にいるモノ。それが風です」
その意味を知ることから始めてくださいというアキームの助言を受けて、ミーティアは自分の周囲を見やった。




